2. 月が隠れた日


 翌朝、セシリアは何事もなかったかのように王宮へ向かった。


 衛兵たちはいつも通り門の番をし、同僚たちは気だるげに書類を抱えて廊下を行き交う。その誰もが、昨夜の出来事を知っているようには見えなかった。

 

 しかし、セシリアの手は震えていた。


 書類を受け取るとき、ペンを握るとき、誰かと言葉を交わす時。昨夜見たあの光景が脳裏にこびりついて離れないのだ。


 白い聖衣を深紅に染めた血と鉄の匂い。床に広がる血溜まり。闇に紛れて消えた暗殺者——。

 (本当に、あれは現実だったの?)


 目を閉じれば、あの聖女の顔が浮かんだ。

 美しい顔から生気が失われていく様子が、何度も何度も。


「ブランシェット?大丈夫か?」


 同僚の声にはっと顔を上げる。彼女の顔を覗き込む同僚の表情は心配そうだった。


「ええ、少し疲れているだけです」

「昨日遅くまで残っていたらしいな。無理するなよ」

「お気遣いありがとうございます」


 優しい言葉がかえって胸を締め付ける。

 この人は知らない。誰も知らない。昨夜、この王宮の聖堂で何が起きたのかを。


 窓から見える通路の向こうから、聖堂方面への連絡役が書類を抱えて歩いてくるのが目に入った。


 セシリアの心臓は跳ね上がる。彼が何か言うのではないか。「聖堂で大変なことが」と騒ぎ出すのではないかと。

 しかし結局その男は、何事もなく通り過ぎていった。


 昼食の時間になっても、王宮に騒ぎが起きる気配はなかった。

 同僚たちは何も知らない様子で平和に世間話をしている。


 セシリアは食事を喉に通すのがやっとだった。パンを一口含むたびに、あの鉄の匂いが鼻をよぎる気がした。


(何も起きていない……本当に、何も)


 しかし時間が経つにつれ現実感が薄れていく。

 もしかしたら本当に悪夢だったのではないか。疲労で見た幻覚だったのではないかと。

 

 セシリアの胸を締め付けていた不安と緊張は、次第に薄れていった。


 ――それが、偽りの平穏であることなど知らずに。

 

 *


「今日はもう上がっていい」

 

 アルヴェーン室長に声をかけられたのは定時の少し前。

 昨日の残業の埋め合わせだろうか。セシリアは丁寧に礼を言い、帰り支度を整えた。

 

 王宮を出ると、落ちきる少し前の夕暮れが街を赤く染めていた。この時間になるとすっかり肌寒く、冷たい秋風が頬を撫でる。

 

 上着の襟を引き寄せながら、セシリアは王都のタウンハウスへと歩を進めた。


 毎年この時期になると他の貴族家と同様に、ブランシェット家は暑さが落ち着いた王都のタウンハウスに戻ってくる。

 これから始まる社交シーズンに向けて、都での準備を整えるのだ。


 セシリアは王宮勤めのため、一年を通して王都に留まっている。領地から来た家族と合流したのはつい先週のことだった。


 宵の鐘が鳴り響くころには太陽が隠れ、辺りは薄暗くなって街灯がぽつぽつと灯り始める。

 屋敷の門をくぐり玄関を開けると、家の中から夕餉の香ばしい香りが鼻をくすぐった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

 出迎えたのは母付きの侍女であるエリスだった。

 白髪の混じった髪を固く結い上げた彼女はセシリアが幼い頃から仕えていて、彼女を前にすると少しだけ背筋が伸びるような思いになる。


 彼女に促されて食堂へ向かうと、すでに母と兄が席についていた。父はまだ来ていないようだった。

 

「遅かったな、王宮文官さん」

 

 兄のヴィクターがちらりと壁時計を見て皮肉げに言う。セシリアは席に着きながら短く答えた。


「今日は早く帰宅できたの」


 王宮勤めの自分としては珍しく定時で上がれたのだ、遅いはずがない。彼は文句を言いたいだけなのだ。

 

「はっ、役立たずだから帰されたのか?」


 セシリアは返事をするのが億劫になって口をつぐんだ。どんな返事をしても、ひねくれた受け取り方をされるだけだ。


「無視か?あぁ、図星だからか」

 

 彼とは昔から反りが合わない。セシリアが気に入らないらしく、いつも彼から突っかかってくる。

 特にここ数年は、ヴィクターが父の領地経営を手伝い始めて王都と領地の往復で忙しくなったことで、セシリアをただの下級文官だとより見下すようになっていた。

 

「ヴィクター」


 母の冷たい声に、兄も渋々口を閉じる。


 その時、母の視線がセシリアと一瞬だけ交わった。何か言いたげな、しかしすぐに逸らされた視線。

 セシリアは首を傾げたが、さして時をおかず父が入ってきて食事が始まったことで疑問は霧散した。


 父は晩餐中にほとんど口を開かない人だ。母は時折社交界の話題を振って父が返すが、兄も自分もそれに乗る興味はない。

 昔からこのような食卓だったため、今更居心地の悪さも感じなかった。


 皿に盛られた鴨のコンフィを前にセシリアは昨夜のことを思い出し、不安に襲われていた。

 悪い夢だと割り切るにはあまりにも鮮明だった。

 

 今日騒ぎにならなかったのも、聖女が殺されたなんて国の有事を簡単に公表すべきでないと上が考えたのかもしれない。

 あるいは、可能性は低いが彼女が聖女ではなかった可能性もある。


 言い方は悪いが、聖女のような重要人物でなければ、暗殺事件などという王宮の警備が脆いと公表するようなことは可能な限り握りつぶしたいだろう。


 何より気になるのは、あの暗殺者がセシリアの存在に気付いていたかどうかだ。

 殺されなかったということは気付かれていないのだろうが、凄腕だろう人物が本当に何も気付かないなんてことはありえるのか。

 

 目撃してしまったセシリアの今後はどうなるのだろう。あの場に彼女がいたことを知られなければ、この平穏は守られるはずだ。


 フォークで肉を切り分けながら、彼女は自分に言い聞かせた。大丈夫、何も変わらない。早く忘れてしまうべきだ。そうすればきっと何も変わらない。


 食卓には上品な料理が並び、しばし味を楽しむ穏やかな時間が流れる。

 だが——。


 コンコンコン。 


 勢いよく屋敷の扉を叩く、固い音が響いた。

 食堂の空気が一瞬張り詰める。こんな時間に来客など珍しい。セシリアの心臓がどくりと脈打つ。


 執事が応対に向かい、しばらくして戻ってくると不思議そうな声で告げた。


 「近衛騎士団の方々が、お嬢様にご用件があると仰っています」

 

 セシリアの背筋に冷たいものが走る。嫌な予感が、つま先から這い上がってきていた。

 父が怪訝そうにセシリアに視線をやり、「応接室に案内を」と言いかけた瞬間。


 バンと音を立て、扉が強引に開かれた。


「失礼する」

 

 重い鎧の音を響かせて、近衛騎士たちが屋敷へと足を踏み込んできた。家族の誰もが固まる。

 父が低い声で言った。


「ここは我が家の食卓だ。近衛騎士は最低限の礼儀も忘れたのか?」

「緊急事態ゆえ、ご容赦願おう。我々は罪人を捕らえる命を預かったのみ」

 

 先頭に立つ男は冷たい声で告げる。

 その男の姿にセシリアは見覚えがあった。


 近衛騎士の中でもよく会場警備をすることが多い隊の隊長で、打ち合わせなどで見かけることが多かったのだ。

 顔を合わせれば会釈を交わす程度の間柄ではあったが、彼の目には今、冷徹な光しかない。

 

「罪人?」

「セシリア・ブランシェット。お前を、国家転覆を謀った罪で逮捕する」


 セシリアの頭が真っ白になる。耳が音を遮断したかのように静まり返った。

(……何を、言っているの?)

 

「ま、待ってください。私が一体、何をしたというのですか?」

 

 混乱の中なんとか言葉を絞り出す。だが騎士は動じず、冷徹に言い放った。

 

「昨夜の聖堂で何が起きたか……お前が一番、わかっているはずだ」

「いいえ、何のことだかわかりません」

 

 セシリアは驚きで息が止まったが、辛うじて否定の言葉を口にする。昨夜の光景が頭をよぎっていた。


 __私は何もしていない。ただ、目撃しただけで。


 まさか目撃したことがばれたのか。だが、そうであるならばセシリアが犯人でないこともわかっているはずだ。


 __なぜ、私が?


「あくまで白を切るつもりか」

「……そもそも、詳しい罪状すら教えて頂けないのでは弁明のしようもありません。聖堂とは、どういうことですか」

「黙れ!この状況で言い逃れをする権利などない」

 

 騎士の声は氷のように冷たく、有無を言わせない圧がある。

 だが、セシリアは衝撃で止まっていた血流がようやく巡りだすのを感じていた。


 会話を続ける中でいくつか気付いたことがある。

 先ほどはいきなりのことで混乱していたが、この騎士は初めに何と言ったか。

 国家転覆を謀った罪だと確かに聞いた。そして、昨夜の聖堂で起こったことだと。


 つまり目撃した殺人の被害者は間違いなく聖女であり、同時に聖女が殺されたことを人々に知られたくないのだろうということ。


 そして何故か分からないが、セシリアに罪を着せたいという思惑。彼女は嵌められたのだ。


 だが王宮に勤めているとはいえ、セシリアはただの下級文官だ。影響力などない。犯人とするには力も理由もないとすぐにわかるはずだというのに。


「ふざけるな!」

 

 いきなりヴィクターが立ち上がり、セシリアの思考が遮られた。椅子が不快な音を立てて後ろに倒れる。


「セシリアがそんなことをするわけがないだろう!」


 一瞬、あの兄が庇ってくれるのかと耳を疑った。だが、その次の言葉で幻想は打ち砕かれる。


「こいつは臆病者なんだ。おまけに王宮の雑用しか能のない女がそんな大それたことをするわけがない。何か勘違いがあるはずだ」

 

 セシリアに侮蔑の視線を向け、相変わらずなヴィクターに複雑な感情を抱く。庇うような言葉でさえ彼女を貶めるためのものでしかない。

 

 しばらく黙っていた父が重々しく口を開く。

 母はただ事の成り行きを静かに眺めているだけだ。その横顔は冷静だったが、普段より幾分か固い。


「確かに、我が家には王国への忠誠を疑われるような理由はない。調査の結果、誤解だと分かるはずだ」


 父は冷えた視線をセシリアに向け、続けた。

 

「疑いを晴らすためにも捜査に協力しなさい、セシリア」

「私は……」

 

 協力しろなどと言いながら、その目には「余計なことをするな」とはっきり書かれている。

 彼らは既にセシリアを見捨てることを決めていた。“潔白を証明しろ”ではなく、家の名誉が汚されないよう静かに身を引けと言っているのだ。

 彼らにとって、セシリアが無実か否かは重要なことではないらしい。

 

 家族はセシリアを差し出すことをためらいもなく選んだ。大して温かい思い出もないが、それでも家族の情はあると信じていた。

 少なくとも、セシリアの言い分を聞いてくれるくらいには。

 

「お待ちくださいませ」

「誰だ?発言することを許した覚えはないぞ」


 沈黙を破ったのは、部屋の隅に控えていたエリスだった。

 

「侍女長のエリスと申します、騎士様。恐れながら、お嬢様にお召し替えの時間をいただけますでしょうか?牢獄に相応しい服装ではございませんので」

 

 騎士たちは互いに顔を見合わせたが、やがて隊長が渋々頷いた。

 

「五分だけだ。逃げようとしても無駄だとわかっているな?」

「もちろんでございます」

 

 すべてがセシリアの意思とは関係なく進む状況に、彼女は諦めに近い思いで沈黙したまま立ち上がった。


 エリスはセシリアを連れて食堂を後にする。

圧のある兄と父からの視線が背中に刺さり、彼らは自分を守るつもりはないのだと、セシリアは今や完全に確信した。


 だが、エリスが向かったのは自室ではなかった。違う順路を行く足取りにセシリアは首をかしげた。


「エリス?」


 侍女長は静かに周囲を確認し、小さな声で言う。


「このままではきっと殺されます。お逃げください、お嬢様」


 彼女はそっと扉を開け、屋敷の裏口の方の小部屋へと素早く導く。

 そこには町娘が着るようなシンプルなブラウスとスカートに、顔を隠すためのフード付きのケープ。そして小さな革袋が用意されていた。

 

「なぜ……?」

「奥様のご指示です」

 

 セシリアの喉が詰まった。母は常に冷淡で、いつも兄を贔屓していた。二十を超え、まともな政略結婚も望めなさそうな娘なんて疎まれても仕方ないと諦めていたが。

 しかし、最後の最後に手を差し伸べてくれたのだ。


「小金も用意いたしました。王都を出て、国境を目指してください。国を超えてしまえば追手も届かぬでしょう」


 迷っている時間はない。急いで服を着替え、フードを目深に被る。


「ありがとう」

「どうか、ご無事で」

 

 エリスの言葉にセシリアは静かに頷いた。母の真意を知るべきかもしれなかったが、今はその余裕もない。

 追い立てられるように夜の闇へと飛び出した。


 屋敷から騎士たちの怒号が上がる頃には、セシリアはすでに路地の影に身を隠し町の喧騒に紛れていた。冷たい夜風が汗ばんだ肌に突き刺さる。

 まさか、散々書類で見てきた地図が逃亡するために役立つだなんてなんとも皮肉な運命だ。


 闇がどこまでも続くかのように。月は厚い雲に覆われ、王都の夜は深く沈んでいた。

 

(どうして、こんなことに……)


 できることなら今すぐに自分の部屋に戻って眠りにつきたい。しかしもうセシリアに帰る場所はないだろう。冤罪をかけられた上に、逃げ出してしまったのだから。

 

 遠くで鐘の音が響く。闇夜に紛れるように、セシリアは息を潜めて足を進めた。

 

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