群れの展望 あるチンパンジーのコミュニティの場合

ビト

第1話

 私はジョー。チンパンジーだ。物心がついたころから、この動物園で暮らしている。父と母はここではないどこか遠い国で生まれたらしいが、その国のことをついぞ話してはくれなかった。父と母に望郷の念がなかったとは思わない。時々二人は、私に背を向け、月をただ黙って見ていることがあった。私にはその行為がなにを意味するかは分からなかったが、二人の背中はどこか遠く、私の入る余地があるようには到底思えなかった。あの時間はきっと、父と母、二人だけの時間だったのだろう。そんな二人の世界に、どうしてヅカヅカと割って入れるだろうか。例え実の子であろうと、その辺りは弁えなくてはいけない。そう、幼心に感じた。

 リーダーに必要なのは力だけではない。私は群れのリーダーであった父の背を見てそう学んだ。私達の群れは二十匹にも満たなかったが、それでも集団というものを纏めるのは骨が折れる。父が病で死に、群れのリーダーがいなくなった時の惨状は今でも覚えている。カインとゲイルの骨肉の争いは、人間が無理やり隔離しなければいけないほどの酷いものだった。それを見て私は、このままではこの群れは崩壊する、という強い危機感と、私が立たなくてはならない、という燃えるような使命感が自分の中から沸き立つのを感じていた。もちろん、力は必要だった。ほとぼりが冷めてから群れに帰ってきたカインとゲイルを締め上げたのは間違いなく私の腕っぷしだったし、やんちゃの度が過ぎそうな若造ににらみを利かせるだけの眼力もなければどうなっていたか分からない。しかし私は、自身の器を示すことも忘れなかった。チンパンジーは本能的に、指導者争いに一度敗れたオスは生涯惨めに過ごすことを知っている。しかし私は、その本能を鋼の意志でもって押さえ込み、敗者にも施しを与えた。カインとゲイルに関してもそうだ。私は、私に敗れ、群れからつまはじきにされた二人にバナナを持っていってこう言った。

「群れに帰ってこい。お前達のような強いものを失うのは群れにとって大きな損失だ」

 それを聞いた二人の顔は今でも鮮明に思い出せる。まるで檻の外にいるチンパンジーを見るような顔だった。彼らからすれば私は、チンパンジーという種の檻から飛び出しているように見えたのかもしれない。彼らは最後まであの時の心中を明かしてはくれなかったが、最後の時まで私の腹心として群れの為に尽くしてくれた。(余談だがこのエピソードは人間の興味を強く引いたらしく、連日なにやら利口そうな人間が私達の檻を興味深そうに覗いていた)

 名実ともにこの檻の群れのリーダーになった私だが、意外に思われるかもしれないが、人間に対して特に悪感情を抱いていなかった。それは、私がここで生まれたからということもあるかもしれないが、それ以上に周りの人間に恵まれていたということもあるだろう。チンパンジーの私が言うのもなんだが、人間は進んでいる。見たこともない機械で遠くの人間と話すし、殴り合いの喧嘩など滅多にしないし、一度私が風邪を引いたときなど、なにやら針を刺されただけで私は自分でもビックリするくらいみるみる元気になった。

 そんな人間が、言葉を選ばずに言うと、私達を飼っている。チンパンジーでも簡単に想像がつくが、そこまでの優位性を持っていれば、イライラした時やむしゃくしゃした時に私達をいびるであろう。時には殺すこともあるかもしれない。しかし、この動物園の人間はそうしなかった。いつでも決まった時間にエサをくれるし、遊びやすい遊具や安眠できる寝床も用意してくれる。そしてなにより、私達に笑顔で接してくれる。飼育員もそうだが、私達を観に来る人間達もそうだ。

 私は笑顔が好きだ。チンパンジーでも人間でも、笑顔というものは素晴らしい。仲のよかった飼育員の受け売りだが、誰かを泣かせることや怒らせることは簡単だが、笑わせることは難しい。私も、人間ほどではないが、知性のある生き物として生まれたからには、難しいことに挑戦したい。癇癪をおこして飼育員に大怪我をさせる隣のゴリラのようにはなりたくない。だから私は群れの面々にもきつく言っている。

「人間を襲うな。腕っぷしなら私達のほうが強い、あいつらは弱い。だからこらえるんだ。強いほうがこらえなければ酷いことになるぞ」

 文句を言う奴もいる。さかしい奴は、檻の外の自然界では弱肉強食だ、などとのたまう。弱肉強食、確かにそうだ。なによりまず、力がなくてはならない。でなければあっという間に食いものにされる。しかし、力をふるう先と理由を考えなければならない。勝手気ままに好き勝手に力を振り回したいなど、駄々をこねる赤子のようではないか。私はそういう若い衆を言葉で、時には拳で啓蒙して回った。そして今の私の群れは、とても規律正しくなった。(時々小競り合いはあるが)エサを持ってくる飼育員には挨拶をするし、檻の上から手を振ってくる人間には愛想よくしてやる。これでいいのだ。皆、笑顔ではないか。私ももう年だ、そろそろお迎えがくるだろう。しかし満足していける。私はおそらく、この世で一番理性的なチンパンジーの群れを作ったのだから。


 しかし、風向きの変わるような出来事がおこった。

 新しく入ったヒラノという飼育員が、ララをモップで叩いたのである。理由は分からない。若い衆は飛びかかろうとするところをグッと堪え、大声で威嚇するにとどめた。私はこいつらを褒めてやりたい。よくぞ理性を働かせてくれた。しかし、気に入らないのはヒラノだ。あいつが逃げ出す時の顔を私ははっきりと見た。あれは、笑顔だった。私が大好きなはずの笑顔だ。しかしヒラノのそれは、私が長い一生で見たことのない、いやな、いやな笑顔だった。

 それから群れの空気が急速によどみ始めたのは想像に難くないだろう。他の飼育員が私達の世話をやく時はなんの問題もない。ただ、ヒラノが担当する日は酷いものだった。ヒラノは他の飼育員の目を盗みながら、何度も私達に嫌がらせを続けた。餌箱に入れる筈のエサを床にぶちまけるのは可愛いもので、時には群れから少し離れた仲間を目ざとく見つけ、手に持つモップでしたたかに叩いたりした。その都度、群れの皆は大きな声で威嚇、抗議する。しかしその頃にはヒラノはすでに檻の外に逃げており、檻の向こうからニタニタと、怒りに震える私達を見ているのだった。私の非暴力路線は、すでにきしみ始めていた。いや、むしろよく堪えてくれているというほうが正確だろう。本来のチンパンジーは気性が荒く、このような目に合えばすぐにでもヒラノに報復している。しかし、私達は違う。私達の群れは私の啓蒙により、他所のチンパンジーよりもずっと理性的だ。だからこそだ、私達はヒラノに直接的な報復をすることが出来ない。他の飼育員に訴えを出すことも試した。しかしそこは種の違いの悲しさ、正確にこちらの意図を伝えることが出来ない。その飼育員は、私達が腹をすかしてるものと勘違いして、コソコソとリンゴとバナナを差し入れしてくれただけだった。私はその時の飼育員の温かい笑顔を見ながら、どうして同じ人間なのにヒラノとこれほどまでに笑顔が違うのだろうと、半ば現実逃避気味に考えたりした。

 もはや群れの若い衆の忍耐は限界を迎えている。次のヒラノの当番の時、おそらく血を見ることになるだろう。それを止めるには、私はもう年を取りすぎていた。ただ、そのような状況になっても、若い衆は私をリーダーから下ろすようなことはしなかった。何故だろうか、不思議でしょうがない。これからおこなわれるであろうことは実にチンパンジーらしいおこないだ。そうであればチンパンジーらしく、今のリーダーである私を追いやってからでもよさそうなものだ。

 そこで私は思い切って、若い衆のまとめ役であるバルジを呼び出した。静かな夜だ。丁度あの時、父と母が見つめていた満月がこちらを見下ろしている。

 バルジはとても賢く、そして優しいオスだ。体躯も大きく、もちろん腕っぷしも立つ。文句なしでリーダーの器だろう。私は改めてそうバルジにそう伝えた。そして、尋ねた。

「お前は、いや、お前達は、ヒラノに報復するつもりだな?」

 しばしの沈黙の後、バルジは頷いた。やはり、そうか。私は直接そうは言わなかったが、あえてバルジから目をそらし、月を見上げる。そして、言葉を続けた。

「私の前の言葉を、覚えているな?」

「忘れたことはありません」

 その言葉に、嘘は感じなかった。だからこそ余計に分からなかった。私のその言葉のせいで群れの仲間が傷ついた。それにヒラノに最初に叩かれたララはバルジのつがいだったはずだ。恨んでいるはずだ、軽蔑しているはずだ。なのに何故、バルジはこうして私を立てるのだ。私はもう駆け引きをやめ、率直に話した。

「何故、私の首をとらない。憎いだろう、チンパンジーが本来持つ力強さや気持ちのいい率直さを奪おうとしている私が。それに、お前は間違いなくリーダーの器だ。私を追放してお前がリーダーになっても、誰も文句を言うまい」

 バルジは、先ほど私がそうしたように、月を見上げた。沈黙が続く。私はバルジの答えを急かすでもなく待った。この時私は、ただただ、目の前の若いオス、我々の群れの未来のリーダーの言葉が待ち遠しくて仕方なかった。

 バルジはフッと月から目をそらし、私の目を見据えた。いい目だ。強い決意が燃える、リーダーにふさわしい目だ。

「私がここに来たのは、ジョー、リーダーであるあなたの許可を得るためです。あなたの首をとるためではない」

 私は思わずまばたきをした。バルジはなにを言っているのだ? 私の許可など取らずとも行動すればいいではないか。いや、出来るだけの力もカリスマもお前にはあるはずだ。私は戸惑いながらも、そう伝える。すると、バルジからは目が覚めるような答えが返ってきた。

「ジョー、私はリーダーではありません。私達は皆、それぞれの考えを持っています。それは当たり前のことです。しかし私達が集団で生活をするのであれば、好き勝手に行動をするわけにはいきません。そのためのリーダーです。強力なリーダーの指示のもと、皆は自分の考えを尊重されながらも、集団のために行動すべきなのです。考えを持つ、ここまではいい。行動する、そのレベルの話にはリーダーの判断が必要だ。そしてその座は、単純な力によって奪われるようなことがあってはならないのです。でなければ、知性も決断力もないただの乱暴者によって群れはたちまち崩壊するでしょう」

 バルジは、目の前にいるこの眩しい若者は、あの時の私と同じ考えを持っている。そのことに、私は思わず泣いてしまいそうになる。

「ジョー、あなたが私にリーダーにふさわしいと言って下さったこと、とても光栄です。私も、新しいリーダーになれれば、と何度思ったか分かりません。しかし今は、群れに迫る脅威に対処しなければならないでしょう。この脅威を無視してリーダーの交代など、ただ皆の足並みが乱れるだけです」

 そこまで話したバルジの手を、私は握った。バルジは不意を打たれたのか、少し身を固くする。そんなバルジに私は、私達の確かな未来を見た。私のしてきたことは、無駄ではなかった。チンパンジーでも、人間のように、いや、ひょっとしたら人間以上に理性を持つことが出来るのだ。

「バルジ。お前は私の、いやこの群れの、大きな希望だ。ヒラノの件が片付けば、正式にお前を後継者として、新たなリーダーに指名しよう」

「それでは、私達の報復を認めて頂けるのですね?」

「それは駄目だ。しかし、私も策を練ってみる。次はお前達、若い衆も交えてな。だから、しばらく、今しばらく堪えてくれ。そして、結論を必ず出そう。時間はかかるかもしれない。それでも、必ず結論を出そう」

 バルジの目に落胆の影がかかる。しかし、それでも直近での報復は控えることには同意してくれた。そして私に挨拶をして、自分の寝床に戻っていく。

 私は一人、満月を見上げる。報復は、せねばならないだろう。しかし、それは議論の果て、そしてリーダーの決断のすえになされなければならない。年寄りになってからも、若者から学ぶことがある。まだ私がリーダーになりたての頃に、父の友人でも会ったボンゴに言われた言葉を思い出す。まさしく今晩の私だ。私も決断をせねばならない。この群れのリーダーとして、この群れの為に。


 そう決意した矢先だ。


 朝起きると、隣の檻から大きな人間の悲鳴が聞こえた。隣の檻には、確かゴリラのラフールがいた筈。すでに群れの何人かは隣の檻が見える位置に集まり始めている。そして、おおよそ理性あるものがあげるとは思えない歓声をあげている。そしてその中には、あのバルジの姿が。馬鹿な! あれほどのオスが。いったいなにがおこっている? 私はおっとり刀で隣の檻が見える位置まで急いだ。

 そこから見えたのは、酷く興奮したラフールと、その足元に転がる、血塗れのヒラノだった。おおよその経緯は簡単に予想がつく。ヒラノがラフールに私達にしたようないやがらせをしたのだろう。そして返り討ちにあった。おそらくそれくらい単純な話だろう。問題は、それを見て酷く興奮し、歓喜の声をあげる私の愛しい群れの皆だ。なんとか、なんとか落ち着かせなければ。しかし私は気づいた、気づいてしまった。笑顔だ、皆、笑顔を浮かべている。ここ最近、ヒラノの件もあり、群れから失われて久しかった笑顔がここにあった。だがその笑顔は、理性から来る温かみのある笑顔ではなく、本来チンパンジーの持つ熱っぽい野性の狂気の笑顔だ。認めてはならない。これを認めてしまっては、ここまで私が築き上げてきた、この世で一番理性的なチンパンジーの群れが崩壊してしまう。

 しかし私は、自分が確かに笑っていることに気づいた。何故だろう、私には分からない。しかし確かなことがある。それは、自分の一番深いところから湧き上がってくる、とめどない歓喜の熱には、私の理性ではとうてい抗えそうにないということだ。

 なにやらわめきながら必死に逃げようとするヒラノの足を、ラフールがむんずと掴み、出口と反対方向に放り投げる。潰されたネズミのような声をあげるヒラノを見て、また群れの皆は歓喜の声をあげる。中には、狂ったように手を叩くものもいる。それを見て私は、強烈な諦念と共にあることを悟った。間違っていたのだ、そもそも最初から間違っていたのだ。

 私はずっと、理性を持つということは己の野性を否定することだと思っていた。しかし、そうではないのだ。理性と野性は、共存することが出来る。おそらくこれは、私達自身が直接ヒラノに報復、復讐をしていては気づかなかったことだろう。ラフール、他者が私達の復讐の代行をしている。そしてそれを見て私達は留飲を下げる。非常にスマートではないか。私達は、自らの手を汚すことなく復讐を成し遂げた。つまり、他者を傷つけてはならない、という理性を守りつつ、復讐をとげたい、という野性を満たすことに成功したのである。ならばなんの問題があるだろうか。この歓喜を、何故拒む必要があるのだ。

 私は久方ぶりに、腹の底から大笑いした。あぁなんと心地よいのだ、なんと甘美な復讐の味か。バルジも笑い転げて、足場から落ちそうになっている。それを見て、また皆笑う。笑顔だ、私の大好きな笑顔がここにはあふれている。

 もはや虫の息のヒラノに、ラフールがノシノシと近づいていく。にわかに檻の外が騒がしくなってきた。私は笑い疲れ、その場にうずくまり、しばし思案する。この経験、知見は今後の群れに生かすことが出来るだろう。リーダーはバルジにゆずるとして、問題はその後だ。この理性と野性の絶妙なバランスを、私は正確に後進に伝える必要がある。私は目を閉じ、これからの群れの未来に思いをはせる。今後も、このようなことはあるだろう。飼育員を私達が選ぶことが出来ない以上、ヒラノのような不調法な飼育員が来ることは避けられない。そんな時、いかに我々の手を汚さずに報復するか。それが復讐になるかまでは分からないが、少なくとも、手を汚すことがあってはならない。手を汚すということは、理性が野性に敗北したということの証左だ。それだけは避けねばならない。

 そんなことを考えていると、隣の檻からヒラノの耳障りな断末魔があがった。それに呼応するように、皆の熱狂は最高潮に達する。あるものは抱き合い、あるものは踊り出し、あるものはラフールに歓声を送っている。そんな笑顔に溢れた愛すべき群れの皆を見て、私は確かなチンパンジーの未来というものを見た気がした。

 あぁ理性と野性の和解。これからだ、これから私達は進んでいくのだ。

 私はその結論に、チチチッと舌をならし、満足した。



 終

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