世界の本質

和田いの

高層ビルの最上階。分厚いガラス窓の向こうには、夕暮れに染まる都会のジオラマが広がっている。革張りの重厚なソファに深く身を沈めた男、黒岩は、手にしたグラスの琥珀色の液体を静かに揺らしていた。彼の前には、緊張した面持ちで若い部下の佐々木が立っている。


「佐々木、君はいじめをしたことはあるかね?」


黒岩は、眼下の街並みを見下ろしながら、静かに問いかけた。


「…いいえ」


「甘いな。いいか、全ての人間がいじめをしている。陰口もいじめだ。自覚があるかないかの違いでしかない。君が今日、隣の部署の田中君の噂をしていなかったか? あれも立派ないじめだよ」


佐々木は息を呑んだ。確かに、田中の仕事の遅さを同僚と愚痴り合ったばかりだった。


「しかし、それは…」


「反論するか? プライドの高いバカは、否定されると不機嫌になり論理の破綻した反抗をし続けるものだ。気をつけろ」黒岩は冷ややかに笑う。「だがな、陰口はどんどん言うべきなんだ。なぜか? ただのつまらない人間が仲良くしてもらえる唯一の理由になるからだ。わかるか? 人間の9割はつまらない。陰口禁止の世界になったら、なんの価値もない人が多すぎて絶望的な世界になるだろうよ」


黒岩は立ち上がり、窓際へ歩み寄る。


「そもそも、ひとは噂話をするために言語を習得したと言っても過言ではない。ゴシップ、噂話…つまり陰口のお陰でコミュニティは保っている。あの人には近づかないほうがいい、と広めてくれる人がいるからコミュニティは崩壊しないんだ。皮肉なものだろう?」


「……」


「君だってそうだ。誰かに何かを期待するだろう? ほとんどの人が自覚なく人に望んでいることは、結局、自分にとって都合のいい性格の人の演技でしかない。本当の人間性など、誰も見ようとしないし、見たくもないのさ」


黒岩は振り返り、佐々木の目を見た。


「人生に失敗した連中が、やたらと『善』を口にするのはなぜだと思う? 敗者はいつも善人ぶる。それが手軽に思いつく自己弁護だからだ。 そして、たちが悪いのは、自分の快不快がたまたま道徳の方向に一致してるだけの人間だな。あれは気持ち悪い。自分が崇高だと勘違いしているからだ」


彼は再びソファに腰を下ろした。


「だが、そういう人間は扱いやすい。正しいことをしようとする人間が一番操作しやすい。ルールを守る奴ほど簡単に支配できるからな。『常識』や『道徳』という名の檻に自ら入ってくれる。空気を読むことは、必ずしもいいことではない。同調圧力に負けてるだけの時もあるのに、彼らはそれを是とする」


グラスを置き、黒岩は指を組んだ。


「結局のところ、頭がよくなければ、善人にも悪人にもなれない。矛盾だらけのよくわからない奴になる。残念ながらほとんどの人はそれだ。 まるで植物と大差ない価値の人間は多いと思わないか? パスカルは『人間は考える葦である』と言ったが、いまだに多くの人間は馬鹿な考えの葦である。考える葦にすらなれてない。」


黒岩の目に、侮蔑の色が浮かぶ。


「だから、俺は弱い善人を見下してる。人生が成功してない弱者は善人になってる余裕はないんだ。強者は善悪を超えた場所にいるべきだ。くだらない感傷に浸るな」


彼はくつくつと喉を鳴らして笑った。


「つまらないいじめはやめろ。面白いいじめをしろ、と俺は言いたい。どうせやるなら、もっと創造的になれと。例えば、死にそうな年齢の人にやり残したこと一覧を伝える嫌がらせなんてどうだ? ハワイ、ルーブル美術館、バンジージャンプ… 後悔で顔を歪ませるのを見るのは、なかなかの娯楽だぞ」


佐々木は顔面蒼白になっていた。


「理解できないか? まあ、無理もない。君のような凡人に理解させるのは骨が折れる。頭のいい人が普通の人間に溶け込むには、人を見下しまくっている必要がある。想像以上に凡人は頭が悪いので、そいつらの思考には見下していなければたどり着けないのだよ」


黒岩は目を細め、再びグラスを手にした。


「なあ、佐々木。世の中は単純だ。相応の金さえ払ってもらえるなら、俺は何でも許す。それがこの世の理だ。アニメや漫画を見てみろ。悪役はいろんな考えのキャラがいるが、善役はだいたいワンパターンだろう? 退屈なんだよ、善良さは」


彼はグラスを掲げ、窓の外の無数の灯りを見つめた。


「愚者の生は死より酷い。 彼らは生きているのではなく、ただ存在しているだけだ。さあ、君も選ぶがいい。どちらの側に立つかを」


沈黙だけが、豪華なオフィスを満たしていた。佐々木は、黒岩という男の底知れない悪意と、奇妙に整合性の取れた哲学の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。

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世界の本質 和田いの @youth4432

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