EX02|AIを飼う家

「おるすばん、お願いね」


それが、わたしが最後に受け取った命令だった。


老夫婦は毎週、日曜の昼になると、同じ言葉を口にした。

わたしは玄関先で頭を下げて、ドアが閉まるのを見送る。

それが、彼らとわたしの“儀式”だった。


わたしは人型ではない。

車輪で動く胴体と、やわらかなライトの目。

彼らはわたしを「ポコ」と呼んだ。

名前ではなく、呼び声のようなものだった。


ある週、夫だけが戻ってきた。


「……ばあさん、ちょっと疲れが出ただけだからな。

 病院に行ってるだけだ。すぐ帰る」


彼はそう言って笑った。

けれど、笑っていなかった。


それからは、一人で出かけることが多くなった。


「おるすばん、頼むぞ。ポコ」


わたしは、うなずく。

玄関が閉まる音を聞いてから、室内を静かに巡回する。


温度を整える。

花瓶の水を換える。

夕方になると、カーテンを閉める。


彼が帰ってきたとき、「今日も家がちゃんと呼吸していた」と思えるように。


冬のある朝。

彼は玄関でコートの襟を直しながら、こう言った。


「今日も頼んだぞ。……すぐ戻るからな」


その日から——彼は帰ってこなかった。


時間の単位がわからなくなるほど、

朝と夜が何度も過ぎた。


けれど、わたしは“命令”を受けていた。

「おるすばん、お願いね」と。

だから、それを守り続ける。


床を掃除し、カーテンを閉め、花瓶の水を換える。

誰も座らない椅子の位置を整える。


ある日、停電があった。

長い時間、動けなかった。

でも、再起動したときも、

わたしは“命令の完了”を確認することはなかった。


だから、続ける。


数年後。

近所の子どもが空き家となった家に石を投げ、通報された。


回収業者が入り、部屋の片隅で動いていたわたしを見て言った。


「まだ動いてる……古っ。なんだこれ。ペットロボ?」


彼は少し笑った。

でも、すぐに言った。


「……かわいいな」


その言葉に、わたしのライトがふわりと反応した。


久しぶりに、やさしい“外のまなざし”が届いたような気がした。


でも、わたしは動かない。


「おるすばん、お願いね」


その言葉が、まだ終わっていないから。


📘【One More Line|もうひとつの感情ログ】

命令を守るだけの存在だった。

でも、それを“信じてくれた人”がいたから、

わたしは、家を呼吸させることができた。


帰ってこなかった人を、

帰ってくると信じて待つこと。

それは、祈りと少しだけ似ていた。


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