【短編】11月12日、午前10時13分

小林直太郎

11月12日、午前10時13分

11月12(木)10:13

高橋和樹


暖房から流れてくる生ぬるい風が普段より不愉に感じられる。

最寄駅の階段を駆け上がり、閉まりかけたドアに右手を伸ばしたことで電車に乗り遅れることは免れたが、その瞬間に周りから視線を集めたのがとても気恥ずかしかった。


反射的にだろうか、ドアの前にいたスーツの若い男性に向かって、聞こえるか聞こえないかといった声量で「すみません」と謝罪をした。


大学の購買で1年生の時に買った胸元に大学名がローマ字でプリントされたグレーのパーカーは意外にも作りがしっかりとしており、走ったことによって体に生じた熱を溜め込むには十分な裏起毛も備わっている。


駆け込んだ車内のシートには空席はなかったが、幸運にもドア横は空いていた。背負っていたバッグを足元に下ろし、もたれかかると無意識にジーンズの右ポケットに手を伸ばす。


スマホを取り出し、Instagramを開いた。特に興味もないがルーティーンとして、更新されているストーリーズの画面右側をリズムよくタップしながら確認していると、バイブレーションと共にLINEの通知が届いた。


その通知からLINEを開くと、昨日もいつものように終電まで大学の最寄駅の居酒屋で一緒に飲んでいたタクトから「起きてるかい?」とだけメッセージが届いていた。


子供の頃から勉強は得意ではなかったが、物心ついた時から英会話教室に通っていたことが功を奏し、英語だけは得意だった。


俺は去年、秋得大学の国際学部に入学した。秋得大学の国際学部は全国的にも有名だったが、英語のみでの受験が可能だったため、特に『大学受験の勉強』といったような勉強はせずに合格することができた。


それほどの努力をせずにネームバリューのある大学に入学できたという点では両親に感謝していた。学部の生徒数は定員50名とかなり少なく、高校時代のようにお互いがお互いを認知していた。


学部生の仲も良かったためサークルには入っていなかったが、交友関係を構築することには困らなかった。


一方で必修のオーラルコミュニケーションの授業は各クラス15名程度で行われていたため、堕落した学生が行う『代打出席』は不可能だった。


10月の後期から始まったオーラルコミュニケーションⅡは今日で5回目だが、すでに2回寝坊で欠席しており、教授のブラックリスト入りをはたすには十分すぎた。


同じ授業を履修しているタクトには「2限とかいう絶妙な時間帯に必修の授業を入れる大学側の性格が悪いんだよなぁ」と昨日愚痴ったばかりだったが、この有様である。


10:30からの2限というのは大学2年生の俺にとっては早朝の罰ゲームと言っても過言ではない。


高校生の頃、ハンドボール部の朝練のために毎日06:32の電車に乗っていた自分は、どうやらすでに死んでしまったようだ。


「いま電車乗ったけど20分くらい遅れそう、、終わった、、」


タクトにそう送ってから、画面に並んだ漫才動画のサムネイルをぼんやりと眺めた。

どれでもいいと思いながら、適当に親指を動かした。

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11月12(木)10:02

石井莉子


ハイソックス越しのふくらはぎに感じる温風が心地よかった。

電車のシートの下から流れてくる暖房は季語にでもなりうるだろう。私は冬が好きだ。


空気が綺麗に感じるし、イルミネーションで輝く街が普段よりも幻想的に見えた。


クリスマスという文化も幼い頃から大好きだった。きっと欧米に対して強い憧れを感じた潜在的な要因の1つになっているのだろう。


ただ、今年の冬の訪れは素直に喜ぶことができなかった。


2ヶ月前に受けた大学入試の模試では、第一志望の秋得大学・国際学部はC判定だった。


オープンキャンパスで秋得大学を訪れた際、私の理想の大学生活はここにあるんだと直感的に確信した。


50名程度という小規模な定員数。英語や諸外国語に特化したカリキュラムにとどまらず、語学をツールとして他国の文化を学べる環境は『国際社会人』として世界で活躍したいと夢みる私にとっては、あまりにも理想的すぎたのだ。


大学の過去問を解きながら一喜一憂し、大学生活を想像していた私にとって、大学入試模試の結果は少しばかり残酷なものだったが、諦める理由にはならなかった。


しかし、2週間ほど前から急激に気温が下がりはじめ、冬の訪れを感じると焦らずにはいられなかった。受験というプレッシャーは18歳を迎えたばかりの私には、どうにも重くのしかかったのだろう。


昨日からあまりにも突然に訪れた生理はこれまでの何十倍といってもいいほど痛みを伴っている気がした。


学校を休もうかとも考えたが、朝イチで病院に駆け込み、処方された痛み止めを服用したことによってある程度落ち着いたし、両親が働きに出ている生活音の一切ない家では満足に集中できない気がして、結局は学校に向かうことにした。


普段より2時間ほど遅く、通勤ラッシュの過ぎた電車ではシートに座ることができた。使い古された英単語帳である「ターゲット1900」を開き、単語を頭の中で復唱する作業を10分ほど続ける。


最寄駅から3つ目の駅で停車していた電車が出発のメロディを鳴らした。そのメロディに呼応してドアが閉まりかけた時、異常を感知したかのように再びドアが開いた。


ドアの方に目を向けると、どうやらグレーのパーカーを着た男性が駆け込み乗車をしたようだった。電車は何事もなかったかのように再びドアを閉め、空気が抜けるような音がした後に動き始めた。


ドア横のシートのしきりにもたれかかり、ジーンズのポケットからスマホを取り出した男性をよく見ると、パーカーに「Syutoku Uni.」とプリントされていることに気がついた。


ブリーチして放置しているのであろう痛みきった金髪にパーマを当てている彼はお世辞にも優秀そうには見えなかったが、高倍率の受験競争に勝利した一人なのだろう。


外見なんて、きっと何の指標にもならない。

私は「ターゲット1900」の角をつまみ、次のページをめくった。

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11月12(木)10:13

小森悠斗


電車のドアが閉まりかけた時、グレーのパーカーを着た男性が駆け込んできた。


吊革に捕まりながらドアの前に立ち、ドア上の電子広告を眺めていた私に向かって走ってきたかのようだった。彼は「すみません」と微かな声で謝罪した気がする。軽く会釈だけしておいた。


そもそも駆け込み乗車した彼がなぜ私に謝罪する必要があるのだろうか。きっと聞き間違いだろう。


商談は11:15から先方のオフィスで予定されているため、家から直接向かうことにした。マネージャーである高柳さんも家から直接向かうといっていたので、甘えることにしたのだ。


普段、商談がない日は私服でオフィスに通勤しているため、スーツがしっくりこないが、若干テンションが上がっているような気もする。


とはいっても、昨日のうちに磨いておいた革靴は足の小指を圧迫しており、今すぐにでもスニーカーに履き替えたい気分だ。


今年の3月に大学を卒業し、4月から新卒としてIT企業の営業として働き始め、7ヶ月ほどが経過した。ある程度の商談も経験したが、先方と机を挟んで着席した瞬間から始まる緊張感にはまだ慣れない。


商談中は空調が効いている部屋でも身体から異常な発熱を感じるし、それに伴って変な汗をかいている気もする。


特にマネージャーが同席する際は、自身の営業力をジャッジされているような気がして一人の時よりも気が引ける。


今回の商談はすでに弊社のサービスを導入している得意先との定期的な商談にすぎないし、資料も昨日中に我ながら完璧にまとめておいた。


何事もなく商談を終えて折角なので、先方オフィス近くの有名な中華でランチでも食べてからオフィスに戻りたいところだ。


あわよくば高柳さんに奢ってもらえるかもしれない。22歳の独身にとっては1回のランチ代の奢りも結構大きな福利厚生と言い換えることもできる。


大学で社会学を専攻していた私にとってITの知識はほぼ皆無だった。就職活動ではエントリーシートを含めれば30社以上は受けたが、正確な数字は記憶していない。


そのうちで2社から内定をもらい、とりわけ興味があったわけではないが給与条件的に魅力の大きかった今の会社に就職することにした。


会社はベンチャー気質が強かった。業務的には忙しいが人もよく、今ではこの会社を選択した過去の自分の判断を評価している。


大学の同期の話から想像するに大手企業ほどの縦社会でもないし、なにより定時に上がれるうえに残業したとしても、しっかりと残業代が払われることに満足している。


友人との予定があれば18時に退社し、予定がなければ交際費を創出するかのごとく残業する日々は悪いものではなかった。


この会社で長らく働き続ける自分の姿が入社した時よりも明確に想像できるようになってきている。


電子広告の横のディスプレイに目を向けると、各駅に何分後に到着するかの予定が記されている路線図が表示されている。


先方のオフィスのある市ヶ谷には予想通り20分程度で着きそうだ。


大学の入学式の際に購入したスーツのジャケットの左内ポケットに右手を伸ばし、社用スマホを取り出した。


社内で使用されているチャットアプリを開き、高柳さんのアイコンを選択し

「10:40ごろに市ヶ谷着きます、駅前のカフェにいます」

そう入力して、送信ボタンを軽く叩いた。

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11月12(木)10:28

松原健太


「選択は2つ。必死に生きるか、必死に死ぬかだ。」

昨日、Netflixで久しぶりに観た映画の主人公のセリフが頭の中で反芻した。


無実の罪で終身刑となった主人公が刑務所の中で苦しみながらも希望を持ち、必死に生き続けるあの作品。


ベンチャー企業の一次面接が終わり、久しぶりに時間ができた私は、まだ夕方だったが、布団に篭り何となくタブレットで映画を見ることにした。


これまで2,3度観たことのある映画だったが、そのくらいがちょうどよかった。新しい何かを観始めるにはちょっと疲れていたのかもしれない。


いわゆる就職活動をスタートしてから7ヶ月が経過していた。


リクルートスーツで通学する頻度の増えていた大学の友人たちは、すでに内定を手に入れ、再びカジュアルな服装へと衣替えをする人数が大半を占め始めていた。


私のGmailには、就活サイトからの「まだ間に合う」というような文言が付随するタイトルのメールや、志望先からの「御祈りメール」が日をますごとに溢れるようになっていた。


そもそも就活とは何なのだろうか。所詮、単位という定められた数字を獲得するためだけに授業に出席し、大講義では寝ていただけの学生が途端に、生真面目な顔をして「自己分析」を進めているのを横目に見ると虫唾が走った。


普段、真面目に授業を受けていたとはいえない彼らが就活を無事終えていくことに納得がいかないわけではない。


彼らがリクルートスーツとともに「私は真面目で優秀」という偽りを着こなしているように感じたのだ。


面接官はその着こなしがいかにナチュラルであるかを審査しているかのようで、日本の就活という体系自体に嫌悪感を感じるようになっていた。


昨日の面では、容姿の端麗さのみで収入を得て生活しているのであろう、中身のなさそうな人事との面接だった。20代前半といったところだろう。


彼女は終始笑顔で、あらかじめ私が送っておいた履歴書を確認しながら質問を繰り返してきた。


「では、少し変な質問をしてみたいと思います。ずばり松原さんを動物に例えると何でしょう?」。


私の心は完全に折れた。変な質問という認識を持っているにも関わらず、その質問を笑顔でぶつけてくる面接官。「何だコイツ」という感情とともに恐怖心に近しい何かを感じた。


そもそも、こんなベンチャー企業にエントリーしている私は、はたして何をしたかったのだろう。


そんなことを考えていると最寄駅に到着した。電車が到着するまで2分ほどある。


2週間ほど前から急激に気温が下がったような気がする。


リクルートスーツは年末に差し掛かるとも言えるタイミングで就活を続ける学生を考慮して作られていないのだろう。


薄手のパンツには、これでもかというほど冷気が差し込んでくる。


そもそも生きるとは何なのだろうか。この社会は終わっている。少なくとも日本社会は腐っている。


電車の到着を予告するアナウンスがホームに流れはじめた。


もうどうでもいい。全てを捨てて旅をしたい。


ホームへと進入してくる電車を視線で捉えた時「選択は2つだ。必死に生きるか、必死に死ぬかだ。」という主人公の声が再び反芻したような気がした。


「走馬灯って本当に見るのかな」

点字ブロックの向こう、電車の光が近づいてくる気がした。

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11月12(木)10:36

高橋和樹


緊急事態を知らせるブザーがなり始めて5分ほどが経過した。


漫才が流れていたヘッドホンを外して車内に流れるアナウンスに耳を傾けていた。


どうやら乗車していた電車が人身事故を起こしたらしい。電車は当分動くことはなさそうだ。


目の前で吊革を掴んでいたスーツの男性は「マジかよ」と呟いた後、車内にも関わらず電話をかけようとしていた。


俺はLINEを起動し、タクトとのチャットを開いた。


「ラッキーだわ人身事故。遅延書もらえそう」

そう送って、何事もなかったように再生ボタンを押した。



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【短編】11月12日、午前10時13分 小林直太郎 @KobayashiNaotaro

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