鼯鼠と虎徹

スギモトトオル

本文

 紐をカチリと引いた。ピンの弾けるような小さな音に続いて、廊下の古びた電灯がばらばらに点いていく。

 蛍光灯の弱い灯りに照らされた床には、点々と垂れた赤黒い血の跡。俺はそれをじっと見つめた。

 暑い。まだ五月にもならないというのに、汗が額に滲むのを感じる。

 血液の雫が作り出した破線は、薄暗がりの中に連なって続いている。

 不意に胸が苦しくなって、服の上から押さえる。どくん、どくん。脈打つ心臓の鼓動が聞こえる。俺が生きている証だ。俺が獣である証だ。獲物が近い。その脈動に、気分が高まるのが分かる。

 胸の苦しみが収まるのを待たず、俺は再び歩き始めた。血の跡は蛇行しながら奥へ奥へと俺をいざなっていく。それにただ従って、這いずる様に歩を進めた。

 この先に、奴がいる。狡猾こうかつで強かな獣。散々手こずらせられた獲物が、手負いですぐ近くに息をひそめている。

 奴を追い詰めている。そのことに、後ろ暗い愉悦ゆえつが湧き出るのを感じる。タールのように黒くベタベタしたそれは、腹の底に層をして溜まっていく。

 ああ、そうだ。俺はこの追いかけっこをたのしんでいる。刑事と犯人。血を賭けた追跡行。死ぬ気で逃げて、殺す気で追う。俺達は林に放された虎と鼯鼠むささびだった。

 奴と俺は共鳴している。このまま追い続ければ、いつか取り返しのつかないことになる。その予感はあった。だが、止めることは出来なかった。

 廊下に続く血の跡は、一つの扉の前で進路を曲げ、その向こうへと続いている。

 誰かに託すことは考えられない。俺の獲物だ。本能でそう感じていた。

 扉は拳一つほどの隙間を空けて開いている。

 俺は周囲を確認し、懐に手を突っ込んで三十八口径の銃把じゅうはに触れる。二秒考えたのち、拳銃ではなく警棒を抜いてドアに近づいた。

 ドアを背にし、音を立てないよう気を付けながら開いていく。ドアプレートには「印刷室」。

 半分ほど開いたら、身をかがめてするりと扉の脇を抜けて部屋の中に入る。手近の物陰に身を隠しつつ、懐中電灯を構え、スイッチを押す。

 光の円が室内を照らす。部屋の中には数台の業務用複合プリンタや長机が、そして部屋の奥には大量のファイルを収録したラックが一面に並んでいた。

 人影はない。気配もだ。

 油断なく身をかがめたまま物陰を渡って部屋の端へと移動しながら、ライトを部屋中に走らせるが、この部屋にはやはり誰もいない。その代わり、奥の壁にもう一つ扉があるのを見つけた。床を照らす。赤い血の跡が点々とそこに続いている。

 匂う。狡猾なムササビの匂い。それを感じる。

 大口を開けて待ち構えている巨大なネズミの口の中に自ら飛び込んでいく自分の姿を想像した。笑えないジョーク。しかし止まることはできない。

 ライトを消し、手探りで部屋の奥まで辿り着く。今度の扉には「資料室」。警棒を腰に戻し、懐から今度は躊躇なく三十八口径のリボルバーを取り出した。

 殆ど明かりが無い中で、弾倉シリンダーの残弾を確認する。黄金色の銃弾が五つ。シリンダーを戻し、撃鉄に指を掛ける。

 息を潜め、足音を殺してドアの前に立つ。ノブに手を伸ばす。

 深く、静かに呼吸をしながら、心の中で五つカウントした。

 ゼロとともに、一気に部屋へと押し入る。ノブを捻り、踏み込んで懐中電灯で素早く照らす中で、ガチャリというノブの音の中に、ピン、と小さな音が耳を掠めたのを、遅れて意識が拾った。

 瞬間、気付く。

 殆ど本能的な動きだった。その場にいたら死ぬ――脊髄を電撃が走り、身を低くして近くのラックの間に飛び込む。同時に乾いた強烈な破裂音。

 爆発が作り出す衝撃波が部屋を揺らした。間一髪、身を隠せた。鼓膜も無事だ。と思った瞬間、頭上から大量のファイルが俺の後頭部目掛けて降り注いできた。

「うおっ!?」

 思わず声が漏れる。硬い背表紙やら、金属部品やらが書類の重さと共に容赦なく襲い掛かってくる。

 頭を庇う。硬い背表紙の角が右手に当たり、拳銃を取り落とす。床を転がり、滑っていく黒鉄くろがねのリボルバー。

 ファイルが棚から落ち切って、再び静寂が訪れた――かと思いきや、素早く近づいてくる小さな足音。

 敏捷びんしょうに反応することが出来た。降り積もったファイルを払いのけ、ラックの間から躍り出る。何かが間合いまで近づいていた。奴だ。間違いない。狡猾な血の濃い匂い。

 片腕を防御に使いながら、顔の高さで懐中電灯を点ける。

「うっ」

 奴は怯んだ。光の円の中に、小柄な男のシルエット。肩の傷から流れ出た血が、ぽたぽたと床に垂れている。

 目をくらませたたらを踏んでいるその隙を逃さず、素早く間合いを詰めて、ナイフを持った腕を掴む。

「離せ」

 奴の低い声。構わず腕をひねる。奴の手がナイフを離す。

 金属音。ナイフが床に落ちた。

「扉に手榴弾しゅりゅうだんのトラップとは、味な真似じゃないか。貴様らしくもない古典的な手法だ」

「私は社会科学者だからな。科学は過去からの積み上げに敬意を払うものだ」

 そのまま方を付けようと踏み込もうとするが、奴の動きが早かった。身体を強引に捻り、逆にこちらの関節を極めようとしてくる。体重を掛けられる前に、腕から手を離し引っ込めた。

 闇の中から繰り出される拳。俺は腕でボディを防御し、首を反らしてなんとか避ける。捜査資料に「空手有段者」とあったのを思い出す。

 反撃にローキック。これは入った。「ぐっ」奴が思わず体制を崩す。そこにすかさず一発、二発とボディブローをお見舞いする。壮年の男の身体がくの字に折れ苦悶の声を上げる。

「どうだ、この二年間、さぞ気分が良かっただろう。恐怖に揺れる世間を眺めてせせら笑うのは」

 奴には殺人および自殺の幇助ほうじょの容疑が掛けられているが、巻き起こした事件の影響はそれに留まらない。

 二年前、奴が「社会2.0への手引」と称して各種SNSで拡散した情報は、社会を驚くほど席巻した。

 様々な殺人の方法や、それに必要な道具、さらにこの監視社会において世間の目を欺いてそれらの行為を完遂するための方法とツールが奴の持っていた”コンテンツ”だ。それを巧みな広告戦術で世に広く拡散させた。いわば殺人のオープンソース化、それ自体が思想犯としての奴の本質だった。

 奴の広めた方法は瞬く間に常識となり、人は憎み疎んじる誰かを簡単に消すことが出来るのだということを皆が知った。隣人が殺人鬼となる恐怖。猜疑。不安。それに伴う警戒。奴の発信によって街の空気が変わった。社会が揺れた。

 警察は広域重要指定事件として奴の捜査を始めた。しかし、奴は常にあと一歩のところをすり抜けて我々の手から逃れ続けている。樹から樹へと移り飛ぶムササビのように。

 こいつを逮捕すればすべて収まる、などという範囲はすでに超えている。奴の配信したツールを使用して各地で事件が多発し始めると、たちまちその数は各県警の扱えるキャパシティをはみ出した。捜査本部は逼迫ひっぱくし、徐々に警察機構自体が麻痺し始めている。内通者やハッキングを駆使した奴の情報戦術もそれを後押しした。社会の不安を警察内部にまで持ち込まれたのだ。

「気分か。そうだな、昔立てた仮説を自らの手で実証にまで持ち込めたというのは、研究者としての私の最後の仕事としては十分に満足出来るものだったよ」

 国立大学で社会学の教授職に二十年就いていた男が淡々と述べる。腹に二発叩き込んでやったというのに息の乱れは無い。

「ふざけるな。一億人の列島をモルモットにされてたまるか」

「私は端緒の火口を切っただけだ。あとの現象はこの社会における自然現象に過ぎない」

 下から絡め取るように奴の手が伸びてくる。俺はそれを肘で払い、逆に腕を捕まえて引き寄せ、鳩尾みぞおちに膝をねじ込んでやった。絞り出すような低い声。奴の唾液が俺のスラックスに散って染みを作る。

「俺はふざけるな、と言ったんだ」

 突き飛ばす。背後のラックにぶつかり、派手な音を鳴らす。懐中電灯を持ち替え、ハンマー代わりに振りかぶった。

 奴の頭に向けて思い切り振り下ろす直前、ラックの影に隠れていた手が鋭く横薙ぎに振るわれる。

 反射的にそれを懐中電灯で受けた。

 甲高い金属音。ナイフが奴の手に握られていた。闇の中で銀色の刃がギラリと睨む。

 取っ組み合いになることを予見して、事前に仕込んでいたようだ。

 俺は反射的に部屋の反対側に目を走らせた。そこには先ほど滑っていった拳銃が落ちている。奴の目も一瞬俺の視線を追い、そして薄く笑った。

「あんなもの、簡単に抜いてしまっていいのかな、織田おだ虎徹こてつ巡査長。捜査員への発砲許可は下りていないはずだ」

 内通者に通信傍受。捜査本部の情報はほとんどリアルタイムで奴に共有され筒抜けになっている。俺は奴の本名さえ知らない。

 俺は鼻を鳴らし、奴の言葉を撥ね退ける。

「関係ない。既に手帳は置いて来ている」

 その言葉に、奴の表情が僅かに動いた。興味を引かれたように、眉が持ちあがる。

「ほう、ついに君自身も、自らの表現を制限する頸木を断ったか」

「一緒にするな。貴様と俺は違う」

 警察手帳は署にある自分の机の上だ。俺はもうあそこに戻る気はない。

 いま目の前にいる、この諸悪の根源を捕え、法の下に引き摺り出す。それだけが、犠牲になった妹への唯一の手向たむけだと信じて。警官であることを辞め、それでも奴を追い続けると決めた理由だ。

「解放だよ。君は本質的には社会正義や利他精神で行動する人種じゃないはずだ。私との追跡行、それそのものがもはや理由になっていることを、自分自身理解しているんだろう?」

「黙れ」

「それこそが命の営みだと思わないかね。その輝きが私は見たい」

「いっぱしの芸術家気取りか。社会は貴様の作品のためのキャンバスじゃない」

 左手に隠し持っていたボタンを投げつけた。先程の格闘に紛れてスーツの袖から引きちぎった物だ。

 奴がそれを払いのける。その隙に間合いを詰め、ナイフを持った手首を狙って懐中電灯を振り抜く。

 空振り。たいをかわされた。

 刃が突き出される。スーツを掠める。なんとか避けた。間近に迫った奴の顔面、その顎に掌底を打ち込もうとしたとき、

「うおっ!?」

 目にドロリと血が入った。先ほどのファイルでまぶたの上を切っていたようだ。

 隙が生まれてしまった。奴はナイフを振りながらバックステップで間合いを開いた。慌てて、引っ掛けるように蹴りを放つ。軽い手応え。何かが転がる音。

 奴は走り去ろうとしていた。

「待て!!」

 血を拭い、振り向く。すでに扉の向こうに奴は消えていた。

 部屋の中を見やる。床に落ちていたはずの拳銃が無い。

「拾われたか……!」

 替わりに落ちていたものを掴み上げる。小型の手榴弾。安全ピンは刺さっている。先ほど扉の影に仕掛けられていたのと同じものだろう。

「ちっ!」

 奴を追って走り出す。印刷室を横切り、廊下へ飛び出る。暗い電灯が床を照らしている。血の斑点は別方向へ伸びていた。上り階段。頭上で屋上の扉が開く音がした。

 二段飛ばしで駆け上がる。鉄扉てっぴの横に身を潜め、おもむろに扉だけを開いて懐中電灯を投げた。

 銃声。撃たせられた。

 すかさず扉の影から躍り出る。リボルバーなら、僅かながら次弾までに間がある。屋上に出て、大型の室外機の影に身を滑り込ませる。再び銃声。屋上を囲う手すりに火花が散る。

「さすがによく躱す。弾は君も知っての通りあと三発だ」

「心配するな、もう一発も撃たせない。お前を捕まえて、ジ・エンドだ」

 静寂になる。

 屋上へ夜の街の風が吹いていた。

 ぬるく、様々な匂いが混ざった複雑な空気だ。

 眼下には眠らない繁華街の喧噪。奴が壊そうとした、そして恐らく俺が捨てることになる”社会”という奴だ。

「ふふ。君が考えていることが手に取るように分かるようだよ」

「そうかい、俺には殺人犯の気持ちなんて分からないね」

「そんなことは無い。きっと君も同じ気持ちだ」

 互いに出方でかたうかがっている。

「楽しい、だろう」

「お前と一緒にするな」

「ふふ、まあいい」

 そうだ。どうでもいい。

 ケリを付けてやる。このくだらない追跡劇に。

鼯鼠むささび、俺はお前を止めて見せる。殺してでもな」

「はは、君ほどの男にそう言ってもらえるなら、光栄かもしれないな」

 奴の声にも緊張が僅かにこもっている。

 手榴弾のピンに指を掛ける。五つカウント。ぬるい夜風が耳をくすぐる。

 ゼロ。

 勝負を決するべく、俺は室外機の影から飛び出した。

 俺がピンを抜き去るのと、奴が撃鉄を起こすのはほとんど同時だった。


〈了〉

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