あの子が亡くなった、あの場所へ

青居緑

第1話

 思えば最初から、違和感があったのかもしれない。


 私のすぐ脇を、ほとんどスピードを落とさず車が通り過ぎた。本当にスレスレ。生ぬるい風が頬を抜け髪が煽られる。空気を裂くようなタイヤの音。あっという間に小さくなっていくヘッドランプを見ながら、ぞくりとする。


「びっくりしたね。ほんっと危ない。沙耶もそう思うでしょ?」


 と、左側を歩く美香が言う。けれど私はまだ心臓がバクバクしてうまく言葉が出ない。


「こーんなに、スレスレだったよ。怖!」


 美香は手でそれを表現してみせた。街灯の光が、暗がりの中で美香を照らしている。


 私たちは今、夜道を歩いている。家を出たのは二十三時少し前だったから、帰りは日をまたぐかもしれない。


 目的は、友人の亡くなった場所に行くことだった。それは事故現場だ。


 友人は交通事故で死んだ。知らせを聞いたときの衝撃は、今も深く刻まれている。


 まさか、あの子が。


 というのも、”自ら道路に飛び出したという噂もあったからだ。


「今ので、なんか怖くなったな」


 ぶるっと身を震わせた私に、美香は楽しそうに笑って言った。


「こんな時は関係ない話をしようよ。たとえば……前にみんなでアクセ買いに行ったお店、また行きたいね」


 そんな話をする気分にはなれないとは思ったけれど、この状況で黙っているのも嫌だった。美香も同じなのかもしれない。


「ああ、雑誌に載ってた店ね。なんてお店だっけ」


「フローラル・ガーデン。沙耶と花蓮といつもの三人でね」


「そうだった。可愛いアクセがいっぱいだったなあ」


「私は途中で迷ってはぐれちゃったから、あまり見てなくて」


「そうそう。花蓮と探し回ったんだから」


「あの時、ブローチひとつしか買えなかったから、また行きたいんだよね」


「うん、そうだね」


今度は二人になっちゃうけど……。と思ったけど、言わなかった。


「私、抜けてるから迷うことが多かったよね。それも、そんな時に限ってLINEがうまく繋がらなかったりして」


「まあ、でも最終的には会えたんだし……」


 どうしてそんな流れになるんだろう。美香は楽しそうに話すのに、その内容がどこかうすら寒い。


「SNSと言えばさ、変なアカウントが私の投稿に絡んできて」


「変なアカウント?」


「何気ないことを投稿しているのに、いちいち引用してくるんだよね」


「世の中には酷いことを言う人もいるもんだよね。何かあったら言ってね」


 なんと返せばいいのかわからないままそう言うと、美香はぴたりと立ち止まった。


「酷いこと?どうして酷いことだってわかるの?」


「え、だって……」


「ううん。ごめんね。それはもういいんだ。アカウントは消されてたし」


 にっこりと笑って、美香は歩き出す。美香はいったい何を言いたいのだろう。考えをはかりかねて、私は美香から目を反らす。


「そういえば、外靴消失事件なんてこともあったね」


 喉元がひゅっとする。どうしてそんな話を持ち出すんだろう、今。


「……あったね。結局、みつからなかったんだ」


「そう。仕方ないから上靴で帰ってさ」


「沙耶が一番必死で探してたね」


「だ、だって友達の危機だもん。当然じゃない」


「でもその後、決定的なことがあったね」


「うん……」


「体育が終わって、教室に戻ったら制服がなくて。一階の便器に漬かってた」


「……ねえ、美香。その話は今は……」


「沙耶と花蓮は中学も同じだから、羨ましかったな」


 また急に話が切り替わる。それにどこか不穏な話題ばかり。ざわざわと居心地の悪さが、広がっていく。


「そう?」


「二人で盛り上がって、入れない話題も多かったし。そうそう、グループLINEに誤爆してきたことがあったじゃない」


「あれは、ごめんね」


「美香の靴の処分、どうしようって。そう書いてたね。削除されたけど」


「あれは、説明したじゃない。美香の靴がでてきて。でもドロドロに汚れて……」


「ねえ、知ってる?」


 しどろもどろな説明は、ぴしゃりと美香の言葉によって切られた。美香の声が急に大きく聞こえるような気がする。


「あの交通事故、自分から飛び込んだんじゃないかって噂もあるんだよ」


「……どうだろう。私にはわからないよ」


「そう?」


 やけに饒舌だったのに、急に美香は黙り込んだ。


 私たちは、だんまりのまま、事故の場所へと急ぐ。大通りに出た。ヘッドランプが赤く線になって、いくつも過ぎていく。


 やがて交差点の向こうに、花が飾っているのが見えた。


 やっとたどりついた。なんだか長い道のりだった。道路脇に飾られる、白や黄色の花を目にして、ふと思った。


 どうして私はこんな夜に、事故現場に来ているのだろう。


 昼間でもよくはないだろうか?


 いや、それよりも。


 その友人とは誰だった?


 亡くなった友人は。


 アクセを買いに行ったときにはぐれたのは。


 外靴がなくて困惑していたのは。


 制服が便器に入れられたのは。


 そして、交通事故で亡くなったのは。



 それは、美香だ。



「ねえ、美香……」


 私は、隣で歩いているはずの美香に話しかける。


 だが、視線だけで追ったそこに、美香はいなかった。


 そしてなぜか、どこからか声だけが。


「沙耶。私と一緒に来てくれてありがとう。嬉しいよ。友達だもん」


 友達という言葉がペラペラの紙のようだった。そう、ほんのひとひねりで破れてしまいそうな。


 それは今に始まったことではない。


 いつからか、私たちの中で美香との間の友達という言葉は、意味を成していなかった。


 あれは私と花蓮の戯れのようなものだった。


 思わなかったんだよ。


 たかが、それくらいで。



 美香の事故の知らせは衝撃だった。


 まさか、私のせいか?美香は何かを残していないか?もし何かがでできたら。いや、わかるようなものは何一つないはずだ。


 わざとはぐれた証拠なんてあるはずがないし。


 SNSのアカウントは削除した。


 靴や制服のことだって誰も見ていない。


 LINEだって明確なことは書いていない。


 だから大丈夫。


 黙っていればいい。


 怯える花蓮と、そう約束したんだから。


 大丈夫。



 背後から、クラクションの音がした。


 振り返ると、目を開けられないほどのまぶしい光。


 耳障りなブレーキの音。


 肉がぶつかったような、不快な音。


 背中が痛い。アスファルトのにおいがする。


 視界に美香の靴が見える。


 重いまぶたを開けると、美香が私を見下ろしていた。


 声を上げ、楽しそうに笑っている。こんなに楽しそうな美香は久しぶりだ。


「今度ははぐれずに一緒に行けそうだね、沙耶」


そして、シャッターが降りたように、何もかもが真っ暗になった。

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