傾きの行方【ショートショート集】

あると

第1話 右に傾く人

序章


 傾きは、背中にも忍び寄る。日常に潜む小さな“ずれ”が、人生を静かに揺らしていく。


この物語たちは、「傾く」という奇妙な現象を通して、あなた自身の心にも少し傾きを残すだろう。





右に傾く人


 山田はいつも右に傾いていた。歩くときも、座るときも、立っているときも、微妙に右へ。原因不明だったが、特に不便はなかった。


ある日、彼は街角の古びた時計屋で、不思議なポケットウォッチを手に入れる。巻き上げると、針が逆に回り始めた。途端に身体がまっすぐになり、軽やかに歩けるようになった。


「やった!」

と喜んだのも束の間、今度は世界全体が右に傾き始めた。


「え? なんだこれ?」

電柱が傾き、建物が歪み、人々がバランスを崩して右へと転がり出す。


「おい! 何したんだ!」

近くの男が叫んだ。


「俺は……ただ、まっすぐになりたかっただけなのに」

山田は震える手で時計を握りしめた。そして、恐る恐るもう一度ゼンマイを巻いた。


針がさらに逆回転すると、世界の傾きが加速し、ついには地平線までもが歪み始めた。ビルが滑り落ち、人々は悲鳴を上げながら右へ右へと流されていく。


「まずい、止めなきゃ!」

山田は慌てて時計を逆に回そうとした。しかし、ゼンマイはすでに限界まで巻き上げられており、どこにも戻る余地はなかった。


気がつくと、彼自身もゆっくりと右へと傾いていく。いや、もはや「落ちている」と言ったほうが正しい。


「うわああああ!」

最後に見たのは、すべてが右へと流れ落ちていく世界。そして、その先に広がる底の見えない虚無だった。

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