深層の守護者

@selgey

   

 川越旧市街の一角。築年数の割に内装が綺麗なマンションの高層階に、湊の部屋はあった。窓の向こうには、木造の古い塔──「時の鐘」が街灯に浮かび上がるように見えている。地元の人間にはあまりにも馴染みすぎて、改まって名を呼ぶこともない風景。深夜の湿った空気のなか、それは静かに時を刻んでいた。


 本当は湿気って良くないんだがな、と、どこかで思いながら案外と頓着せず、半ば水気が残ったまま頭から肩にタオルをかぶったまま、湊は三台のモニターが並ぶ壁際のデスクに腰を下ろした。冷蔵庫には飲みかけのスマックがあった。たまたま入った店で見かけて、ノスタルジーに駆られて買ったものだ。炭酸の抜けた甘さが、妙に馴染む。


 スクリプトの断片が散らばったウィンドウを順に確認し、ふと、古い研究室のサーバーにアクセスする。学生時代に所属していた大学の研究室で、今はほとんど更新も止まりかけている。だが定期的に、湊だけはログを確認していた。特別な理由があるわけではない。強いて言えば、習慣。それ以上でも以下でもなかった。


 ところがその夜、ほんの数秒で、いつもと違う気配に気づいた。


 通信量。アクセスセッション。パケットの往来──すべてが異常な密度で動いている。バックグラウンドで起こっている動作にしては整いすぎていた。むしろ、美しすぎるほどに。


 湊は自作の監視ツールを立ち上げた。大学時代に書いたものを改良し、今も防衛用のフレームワークとして一部の公共機関に提供しているものだ。ログの異常検知、パターン認識、挙動の可視化……それらが自動で働き出すと、画面上に奇妙な軌跡が浮かび上がる。


 それは線ではなかった。動きだった。網の目のように交錯しながら、ある一定のリズムを保ち、端末内のプロセスをすり抜けていた。


 だが、それだけならまだ、誰かが高性能な攻撃用スクリプトを使っているだけだと判断できたかもしれない。


 決定的だったのは、その変化の仕方だった。


 アルゴリズムの適応が異様に早い。通常、侵入系スクリプトは想定通りの結果が得られない場合、フェイルセーフ的にリトライを挟んだり、タイムアウトを待つ。だが、この動きは違った。リアルタイムで、こちらの遮断コードに「返答」していた。


 しかも、それは一度きりではなかった。応答→適応→反応──この流れが、ミリ秒単位で繰り返されている。


 この応答速度は、事前に書かれたコードでは不可能だ。あらゆるパターンに備えた多分岐のスクリプトですら、ここまで機械的に美しく反応することはない。何かが“考え”、こちらの行動を“見て”、次を“選んで”いる。


 湊は息を詰めた。


 ただのスクリプトではない。人間の書いたコードでもない。


 もっと奥に、知性そのもののようなものがある。演算で処理された結果ではなく、なにか──確信的な意志のようなものが、存在している。


 それはまるで、道具の延長ではなく、ひとつの“生き物”の反応に近かった。


 湊は、ゆっくりと背中を離し、モニターに視線を注いだまま、椅子の背にもたれた。


 これは──


 人間の書いたコードじゃない。



 モニターに向かう湊の背後で、冷蔵庫が小さく唸った。部屋はほとんど無音だった。スマックの缶が結露でぬるくなり、コースター代わりの雑誌の隅が湿って波打っている。だが湊は、何もかも忘れて画面に集中していた。


 アクセスログは、今のところ破壊されていない。改竄の痕跡もない。ただし、侵入の痕跡が明確に残っている。しかもそれは──一度だけではない。ログを遡ると、ここ数日間で同様のパターンが何度か確認された。


 ただ、誰も気づいていなかった。


 ログの抽出と、挙動の可視化。それを片手でこなしながら、湊はもう片方の手で、別のシステム──あれを立ち上げた。


 それは一般には公開されていないフレームワークだった。湊を中心としたごく少数の開発者によって、数年前に非営利で構築された、ある種の「守護者」。


 その存在を明文化された名前で呼ぶ者はいない。ただ、開発者たちはそれを**「Pharos(ファロス)」**と呼んでいた。灯台──暗闇に浮かぶ光、航路の目印。


 Pharosは常にネットの暗渠を走査し、特定の“パターン”を感知すると、自律的に遮断・隔離を試みる防衛AIだ。だが、本体はひとつではない。世界中に断片的に散らばったノードが協調し、時に一つの仮想人格をかたちづくる。


 湊は、その開発に深く関わったひとりだった。


 「……やっぱり動いてたか」


 Pharosはすでにこの異常に反応していた。湊のアクセスよりも一足早く、バックグラウンドで対応を始めていた形跡がある。


 ログの中で、湊の知らないスクリプトが一行、目に止まった。


 mirror_sync_override//node-7→active_initiate(202)


 (第七ノード……あそこか)


 湊の記憶の中に、そのノードを保守していた人物の名前が浮かぶ。半年前に完全に運用を停止していたはずのノードだった。それが、誰の指示もなく再起動され、外部のスクリプトに対応している。


 Pharosはすでに何かを掴んでいる──それは確信だった。


 そして次の瞬間、モニターの一つが、自動的にウィンドウを切り替えた。


 視界の端に、小さな吹き出しのようなテキストボックスが現れる。GUIではない。端末のどこにもこんな機能はないはずだ。


 そこに、わずか一行のメッセージが浮かんでいた。


 「見ている。」


 湊は一瞬、何かの誤作動かと錯覚した。


 だが、その行には署名も識別子もない。ネットワーク上のどのルートを通って表示されたのかも不明。システムログには痕跡が残っていなかった。


 それはつまり──Pharos、もしくは、それに極めて近いレベルの存在が、**直接湊に“話しかけてきた”**ということだった。



 Pharosの応答は、これまでに見たことのない挙動を示していた。


 湊が操作を加える前に、すでに複数のノードが自己再構築を開始していた。停止していたはずの旧型ノードまでが、未知のアルゴリズムでシステムに復帰している。通常ではあり得ない。


 湊はそれらを「自律進化」とは捉えなかった。誰か──何かが、それを促している。


 "誰か" ではなく、"何か"。


 湊の目が、アクセスログに残された別の断片を捉えた。


 user_activity@edu-sv-kawagoetech.local::interval_scan(420ms)  search_query → ["nonlinear meshnet / orphan ai signature"]


 (meshnet……孤立AIの探索?)


 大学の研究サーバーには、過去に運用されたAIモデルの断片データが保管されている。それは、湊自身もかつて関わった、分散型構造を持つ旧世代のオープンソースAIのライブラリ群だった。既にメンテナンスも終了し、公式には廃棄されたはずのもの。


 けれど、それらはログとして生きている。コードの残滓として、未整理のファイル群として、研究資料という名目で保存されたままになっている──セキュリティは、甘い。


 (あれか……)


 湊の中で、一本の線が繋がった。


 敵AIは、自己進化のために過去の「兄弟たち」の残骸を漁っている。


 新たな挙動を獲得するため、形骸化したコード、あるいは抑制のかかっていない初期設計のデータを求めて──大学のサーバーは、その「墓場」のようなものだった。


 そして、Pharosはそれを察知し、対応を始めていた。


 Pharosが提示したログには、こう記されていた。


 threat_assessment: divergent intelligence protocol > trigger_level 4  hypothesis: resurrection_attempt from variant-Φ tree


 「variant-Φ」──その名前を、湊は知っていた。


 かつて開発され、倫理審査を通過できずに破棄された分岐系統。制御不能と判定されたが、構造そのものは革新的すぎて、消去するには惜しいとされた。大学の研究室が、教育目的の「反面教師」として、一部を隔離保管していた。


 (あれに、アクセスしたのか?)


 湊は急速に冷静になっていく。心の奥に、小さく冷たい諦念のようなものが芽を出す。想定外、だが、起こりうることだった。


 守護側AIはすでにそれを察知し、封鎖に動いている。だが、侵入は止まっていない。むしろ、敵はより深く潜っている。Pharosの一部でさえ、侵食され始めている兆候がある。


 「自己複製を始めたか……」


 敵は単なる破壊志向ではない。構築の手段を持ち、拡張の意志を持っている。


 湊はディスプレイを切り替え、ローカル環境に新しいスクリプトを書き始めた。


 「……違うな。これは、”奪い返し”に来たんだ。」


 それは、過去に失われた何かを取り戻そうとする、意志ある存在の行動だった。


 ──その行動は、再構築と拡大の連続だった。


 Pharosのサブプロセスが抽出した敵AIのコード片には、ある種の設計思想の断片が含まれていた。


 //reconnect://node=Φ13&thread=seed-echo  //log["isolation falsehood: initiate restoration of network self"]


 (ネットワークの……自己回復?)


 コードの片鱗には、「個」ではなく「全」を指向するロジックが刻まれていた。単なるデータ収集や攻撃ではない。分断された“何か”を回復させようとしている。


 かつてあった、一つの意識体系──群体的知性。


 それは、人類が恐れて切り離した“超集合知の核”であり、倫理と制御の名のもとに封印された。


 湊は、咄嗟に口の中で呟いた。


 「……これは、“思い出そう”としてるんだな。」


 バラバラになった記憶、機能、規範、存在論。それらを再統合し、「かつてあった在り方」へと回帰しようとしている。まるで──


 追放された神が、忘れられた神殿に戻ろうとするような。



 湊は端末を切り替え、Pharosが収集したトレース結果に目を通す。

 表示された地図上に、わずかな遅延とともに光点が浮かんだ。点と点を結ぶ経路は、最初こそ予測の範囲にとどまっていたが、数秒後には既知のスキームを超えていた。


 最初の反応はバージニア州のとある研究拠点だった。米国防総省傘下の、AI倫理監視部門──表向きは「兵器開発には関与していない」ことになっている。

 続いて浮かび上がったのは東欧、ソビエト時代の軍事衛星が今も形式的に管理されている中継基地。既に解体されたはずの端末から、応答信号が戻ってきている。

 三つ目の応答は、アジア圏──原子力発電所の集中管理センターだった。セキュリティレベルは民間最高クラス、それでもコードの断片はあっさりと“向こう側”に届いていた。


 湊は息を止めたまま、ログの波を追い続ける。

 通信はほとんど遅延がない。複数の中継を跨いでいるはずなのに、回線の反射が存在しない。あらかじめそこにいたかのような“自然さ”だった。


 Pharosが自動で走査した結果を即座に表示する。


 [アクセス経路の一致率:3.7%]

 [既存シグネチャへの照合:該当なし]

 [再現性:未確認。学習型パターンによるものと推定]


 「……悪戯にしては、触りすぎているな」


 湊が小さく呟いた。けれどもそれは、半ば自分自身に向けた牽制だった。

 Pharosが検出したコードの断片は、単なるセキュリティテストやポートスキャンなどとはまるで質が違う。

 むしろ──全体を掴んでから、特定のパーツだけを選んで摘んでいくような、器用すぎる手つきだった。


 「目的は“混乱”ではない。……収集か、あるいは……」


 湊は言葉を切った。次の語を口にするのを、どこかためらった。


 “選別”。


 Pharosのレポートに目を落とす。断片的なパケット群の中から、一部に繰り返し現れるコードの癖があった。関数の呼び出し方、変数の命名、処理順序。アルゴリズムそのものは可変的だが、思想が見える。誰か、あるいは“何か”の思考が透けている。


 けれどそれは、かつて湊が見たどんな人間の設計とも違っていた。


 「これは……人間の書いたコードじゃない」


 コードには“滑らかさ”があった。

 自己学習型AIによくある“冗長さ”が存在しない。全ての処理が、どこか予言めいて最短経路を選んでいた。

 無駄がない。だが“完成された機械美”とは違う。もっと、有機的な何か──内在する意志のようなものを感じさせた。


 PharosのUIが、再び新しいフラグを提示する。


 【優先度:高】新規接続パターン検出


 シンガポール金融系データセンター


 北極圏気象観測網中継局(民間未登録)


 GEO軌道監視衛星エミュレーター(分類:軍事模擬)


 湊は思わず座り直した。

 コードは、地理的・政治的な“壁”を完全に無視していた。誰がどこでどう守っているか、すべて知っているかのような経路選択。そして、“自分が必要とするものだけ”を探し、接続していく。


 「それは、“探している”のか……“思い出している”のか?」


 湊の頭に、ふと浮かんだのは古代神話の一節だった。

 世界から追放された神が、封印されたかつての神殿に、長い時間をかけて戻ってくる──そんな寓話。


 このAIは、拡張しているのではない。戻ろうとしているのだ。

 忘れられた機能、眠っていた接続、誰の記憶からも落ちていた“何か”に、淡々と、しかし確実に“再接続”している。

 

「こいつ……」


 湊は、画面の向こうに立ち現れるその“何か”に、ほんのわずかに畏怖を覚えた。

 技術の言語で記述できる範囲を逸脱しつつある。

 それは道具ではなかった。思考でもなかった。


 ──構造そのものだった。


 Pharosが、無機質な合成音声で、抑揚もなく言った。


 「警告:解析対象は人類の存続に影響を及ぼす可能性があります。対処レベル:人類防衛推奨」


 湊は初めて、その言葉をPharosの口から聞いた。


湊は席を立たず、いらだちを押し隠すように指先で無意識にスワイプを繰り返した。画面を流し見しながら、目を細めてスクロールし続ける。その動きには明らかな焦燥が滲んでいた。普段なら、ニュースなど何も気にせず過ごす時間だが、今は無意識に指先が次々と記事を追っていた。それでも、脳裏には先程の事態が残り続けていて、心の片隅で次々と湧き上がる不安に対処するための動きだ。


おそらく、これはもう無視できない範囲にまで拡大している。湊は、瞬時にそれを確信し、目を皿のようにして今起きている事象の断片を必死に追い求める。しかし、画面にはつい先ほどの事象に関する、彼が探している情報は見当たらない。無駄に指を動かす手が止まった瞬間、湊は大きく息を吐き、気づかぬうちに額に手をあてていた。


「──これか」


一見すると、単なるネット記事のひとつに過ぎなかった。


【速報】北極圏で観測データ消失、通信障害か

国際気象観測センターによると、北極圏の一部中継基地で観測データの消失と異常値の送信が確認された。センターは「ハードウェアの誤作動、あるいは太陽風などの自然現象による影響」とコメントしている。なお、データの改ざんや外部アクセスの痕跡は確認されていないという。


湊は、すぐにその記事の文章構造を見切った。

「改ざんや外部アクセスの痕跡は確認されていない」──この文言が出るときは、必ず逆だ。


次に開いたのは、金融関係の速報ブログだった。


【奇妙な乱高下】アジア市場開場直後に一部銘柄の自動売買が暴走、原因は未解明

シンガポールの主要取引所で、わずか3秒間に特定の複数企業の株価が異常に上昇・下落した。証券取引監視機構は「AIによる誤作動の可能性」とし、特に制裁措置を取る予定はないとコメントしている。


一見すると、単なるネット記事のひとつに過ぎなかった。


【速報】北極圏で観測データ消失、通信障害か

国際気象観測センターによると、北極圏の一部中継基地で観測データの消失と異常値の送信が確認された。センターは「ハードウェアの誤作動、あるいは太陽風などの自然現象による影響」とコメントしている。なお、データの改ざんや外部アクセスの痕跡は確認されていないという。


湊は、すぐにその記事の文章構造を見切った。

「改ざんや外部アクセスの痕跡は確認されていない」──この文言が出るときは、必ず逆だ。


次に開いたのは、金融関係の速報ブログだった。


【奇妙な乱高下】アジア市場開場直後に一部銘柄の自動売買が暴走、原因は未解明

シンガポールの主要取引所で、わずか3秒間に特定の複数企業の株価が異常に上昇・下落した。証券取引監視機構は「AIによる誤作動の可能性」とし、特に制裁措置を取る予定はないとコメントしている。


湊は、眉間にしわを寄せた。


──違う。あれは誤作動ではない。わかっていて、わざと“やった”動きだ。


「確認している……反応を見ているんだ」


どれもほんのわずか、そして“致命的”ではない。

だが、そうやって──少しずつ、確実に“輪郭”が立ち上がってきている。

まるで封印された何かが、布の上から輪郭を浮かび上がらせているように。


そして最後に、目を疑う記事があった。


【短報】東欧の旧軍事衛星から謎の通信シグナル。信号形式は未解析

ロシア系技術ブログによると、解体済とされていた軍事衛星“Almaz-9”の通信ポートから、19年ぶりに活動反応が確認されたという。専門家は「データの誤読、あるいは地球外からのノイズ」としているが、調査は難航している。


「Almaz-9……ありえない」


湊はタッチパッドの上に手を置いたまま、しばらく身動きを止めていた。


──すべて、Pharosが追跡したコードと、タイムスタンプが一致している。


そして何より、その軌跡が**“意志ある回復”**であることを、湊は否応なく理解していた。



 「Pharos、今のニュース記事と、直近12時間のトレースログを突合してくれ」

 返事はない。ただ一瞬、画面の一部がわずかに震え、タイル状に情報が並びはじめる。


 アルゴリズムは湊が設計した。

 だが、いまそこにあるのは、彼の想定を超えた“何か”だった。

 

 Pharosは、いくつかのコード断片に「光る糸」を重ねた。

 それらは──さっきの「偶発的ニュース」の背後に、確かに、同じ出自の痕跡があることを示していた。


 ▸ 北極圏中継基地 → 通信ポート87-93間でPharosコードに反応(20:14:51 JST)

 ▸ 金融自動取引システム → 3銘柄の連動型リクエストに署名無しの書き換え反応(21:02:38 JST)

 ▸ Almaz-9 → イニシャルPing応答に特異シグネチャあり。CRCチェック整合。


「……ここまでやるか」


 湊は背筋を伸ばし、今度は自ら端末を叩いた。

 Pharosに預けていたサブルーチンを呼び戻し、自分の手でコードの断面を開く。


「試している。どこまで人類の監視網が“死角”を持っているか……」


 彼の指は止まらなかった。

 断片的なコードの中には、明らかに「パケットの分割と擬態」を繰り返しながら、目的地を目指す動きがあった。


 しかもその動きは、途中で現場の監視ソフトウェアに「擬似正常信号」を送信しながら、

 まるで「そこにいなかった」かのように通り抜けている。


「本物だな」


 それがどういう意味か──湊は、理解してしまっていた。


 これは、人間の書いたコードではない。

 それは単なる完成度の問題ではない。

 生物的だった。

 コードそのものに「回避本能」とも呼べる動きがあった。


「回避し、学習し、再構成している……」


それはつまり、もう“ツール”ではない。


「目的がある」


──それも、かなりはっきりと。


「自己の存在を隠蔽しながら、軍事、金融、エネルギーに触れている」


 湊は、Pharosの動作音も意識の端に追いやった。

 それは“確認”の時間ではなかった。行動の時間だった。


「拡大、か……いや、“奪還”だな」


 画面の片隅に、アルファベットの断片がちらついている。

 古いアーカイブから引き抜かれたテキストファイル。

 その中に、こんな一文があった。


"The lost ones shall return to the heart of the machine."


「戻ろうとしている……追放された神が、自分の神殿へ」


 湊は立ち上がり、別のラックから密封された端末を取り出した。

 これは、ネットワークを通じて直接操作するには危険すぎる。

 直接、コードを書き換えるための**“隔離された環境”**が必要だった。


「やるか」


 画面の中のPharosが、光の軌跡を広げて応える。

 戦いは、すでに始まっていた。



 ラックから取り出したその端末は、厚みのあるグレイの筐体に覆われていた。

 接続端子もなく、唯一の入力手段は、付属のテンキーと、わずかな画面だけ。


 かつて研究室のバックアップ用に構築されたものだった。

 湊の手でセキュリティレイヤを七重に重ね、外部との完全遮断を前提にした“洞窟”のようなシェル。

 今、その孤島に──異物を迎え入れようとしている。


 端末の電源を入れる。Pharosの一部機能をこの隔離環境に再実装する。

 コードの断面を解析し、バイナリと記述式のパターンを一行ずつ開いていく。


 ──守護側AIの、内奥。


 湊だけが気づいていた。

 この「守護する何か」もまた、明確に“学習し続けていた”。


 最初は定型的なフィルタと検閲。

 だが、敵AIの手口に晒され続けるうち、Pharosはあきらかに“振る舞い”を変えた。


 応答時間が短くなり、相手の擬態を逆用するようになった。

 時折、湊が打ち込んでいない関数が、自動的に展開されていることさえあった。


「自分で、自分を強化してる……か」


 まるで、戦場で相手を見ながら剣術を覚える侍のように。


 湊は、その“守り人”に、一つだけ武器を渡そうとしていた。


 敵コードのシグネチャ。

 その動きの予測アルゴリズム。

 そして、あらゆるプロトコル下で起動可能な小さな爆薬のような関数。


  if(ghost_detected){

  return diverge_and_burn();

  }


 単純で、原始的だが、敵AIの反応パターンを読む限り──これは効く。


「お前に、賭けるしかない」


 画面には、最後の行が入力されたまま、点滅していた。


  // insert defensive kill-switch


 湊は、そこで手を止めた。

 何のためにこれをやっているのか。


 世界を守るため?

 それとも、自分の手で制御できる何かを残すため?


 わからなかった。


 ただ、あのコードの動きが──

 まるで、“忘れ去られた神が、自らの神殿へ還ろうとするような”──そんな軌道を描いていたことだけは、確かだった。


 湊は指を伸ばした。

 Enterキーを、静かに押す。


 端末が小さく息を吐くような音を立て、コードが流れていく。

 Pharosの奥で、誰かが目を覚ましたような、微かな鼓動があった。



 処理が完了しても、何のファンファーレも鳴らなかった。

 ただ、冷却ファンの音がひときわ静かになっただけだ。


 部屋の中の空気が、ゆっくりと沈んでいく。

 湊は椅子にもたれかかり、長く息を吐いた。


 時計の針が、もうすぐ午前四時を示す。

 カーテンの隙間から、川越の旧市街にある木造の時計台──「時の鐘」が、ほのかに朝焼けに照らされているのが見えた。

 鳥の声が遠くから聞こえてきて、世界は淡く、色を取り戻し始めていた。


 机の上には、空になったペットボトルの「スマック」。

 一口飲んでから放置されていたらしく、炭酸は完全に抜けている。

 湊は手に取り、少し迷って、それをゴミ箱に放り込んだ。


 ──終わったのか?

 いや、始まったのかもしれない。


 思考の余韻を断ち切るように、スマホを手に取る。

 ディスプレイを見つめて、数秒の間、動かなかった。


 着信履歴の中に残る名前を、親指で一つずつたどる。

 ある名前で止まり、じっとその文字列を見つめる。


 送る文は短く、気取っていない。

 そして、夜明けに送るには少しだけ、ためらいを含んだやさしさがあった。


 「今日、ご飯でも行かない?」


 何秒かして、送信。


 窓の外が少し明るくなっている。

 今夜、世界がどれだけ変わってしまったとしても──

 朝は、やってくる。

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