筆先の向こうに、君がいた(1)
「おい、そこの水入れ、勝手に使うなって言っただろ」
放課後の美術室。俺は筆を洗いながら、背後に立つ影へぼそりと声をかけた。
「あ、ごめん。でもさっき、誰のかわかんなかったし」
「俺の。わかるように置いてあるだろ」
「わかんないように置いてあったよ。三分の一くらい机からはみ出てた」
「じゃあ、わかってただろ」
「うーん、七割かな」
そう言って肩をすくめた女子は、どこか悪びれた様子がなかった。白衣の袖は汚れて、筆の穂先は広がっている。どう見ても不器用なタイプだ。
「美術選択、向いてないんじゃね?」
「でも自由選択だったでしょ。好きで来てるよ」
「へえ、意外」
「それ、褒めてる?」
「いや、真顔で言ってる」
「それ、もっと失礼だよ」
やりとりは滑らかで、無駄がない。気づけば、筆先より会話のほうに集中していた。
彼女の名前は夏海。
クラスは違うが、同じ美術選択。今日の放課後補習は、提出物が遅れてる人だけが対象だ。
つまり、俺と夏海だけ。
「遅れてるっていうより、こだわりすぎたんでしょ?」
「……まあ、そんなとこ」
「えらいな。私は完全に、やるの忘れてただけ」
堂々としたもんだ。
でも、不思議とそれを咎める気にはならなかった。
夏海は、描く線がやたら太い。陰影もないし、奥行きもつけない。
でも、画用紙の真ん中だけは、なぜか毎回きれいに空いている。
「なんでそこ、描かないんだ?」
ふと気になって聞いてみた。
「んー、なんとなく。空いてる場所が好きなの」
「へえ、よくわかんねえな」
「俺の水入れ勝手に使ったやつに言われたくないな」
「まだそれ引きずってんのかよ」
「わりと根に持つタイプなんだ」
「じゃあこれから、ちゃんと“使うね”って言ってから使うよ」
「使わない努力しろよ」
「えー、気に入ったのに。その水入れ、深くて洗いやすい」
「俺のこだわりポイントじゃん」
何気ない会話だけど、不思議と集中が途切れない。
筆を持つ手より、声のリズムのほうが馴染んできた。
気づけば一時間が過ぎていた。
美術室の窓は夕日に染まり、石膏像の影が長くのびていた。
「今日、なんか進んだ?」
夏海が俺のスケッチをのぞき込む。
「おい、距離近い」
「距離感、大事にしなきゃ」
「使い方おかしいぞ、その言葉」
「でも、この静物画、めっちゃ丁寧じゃん。細かいし、立体感あるし」
「そりゃ、お前みたいに空白つくんないからな」
「空白は心の余白って言うし」
「聞いたことねえよ、そんなの」
「今つくった」
夏海は、そう言って笑った。
少しだけ、肩がぶつかるくらいの位置。けど、動けなかった。
俺はスケッチブックを閉じて、軽く息をついた。
「お前さ、本当はけっこう器用なんじゃないの?」
「なにそれ、どのへんが?」
「筆の持ち方、無駄がない。狙ってるんだろ、あの空白」
「どうだろ」
「否定しねえのかよ」
「しても信じないでしょ」
「まあな」
「じゃあ、信じられることだけ話そっか」
「たとえば?」
「明日も補習でしょ? また隣、使っていい?」
「……席、決まってないけど?」
「でも、いつもそこ座るじゃん」
「観察してんな、お前」
「昨日から気になってた」
「なんで昨日?」
「昨日はじめて話した日でしょ」
「……いや、それは今日だろ」
「じゃあ、今日からってことにしよ」
夏海は、スケッチブックを軽く持ち上げて、筆を置いた。
そのまま、静かに席を立つ。
「じゃあね。水入れ、洗っとくね」
「お前のじゃないけどな」
「だから、借りたんでしょ」
言葉を交わすたび、次が気になる。
また明日、筆を持つ理由が、ひとつ増えた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます