第14話

 月明かりだけが照らす、人気のない学園の正門ゲート。

 俺がそこに辿り着き、魔導師会の艦隊に向かって投降の意思を示そうとした、その時。


「――どこへ行くつもりだ?」


 背後から、冷たい声がかかった。振り返ると、そこには腕を組んで、鋭い銀色の瞳で俺を睨みつける、アイゼルの姿があった。


「……お前には、関係ないだろ」

「関係なくない! 貴様、まさか……一人で消えるつもりか!?  ふざけるな!」


 アイゼルは激昂し、俺の胸ぐらを掴み上げてきた。

 その瞳には、普段のクールさからは想像もできないほどの、激しい怒りが燃えている。


「勝手にヒーロー気取りで、満足して死んでんじゃねぇよ!  残された奴らが、どんな思いをするか、考えたこともないのか、この大馬鹿野郎が!」


 ゴッ!


 鈍い音と共に、アイゼルの硬い拳が、俺の左頬を思い切り打ち抜いた。

 衝撃でよろめき、地面に膝をつく。じわりと口の中に鉄の味が広がる。


「……っ!」


 だが、その痛み以上に、アイゼルの言葉が、俺の心の奥深くに突き刺さった。

 残された奴らの思い……?

  俺は、そんなこと、考えもしなかった……。


 ◇

 

 俺の異変を止められないかと、クレアは必死だった。

 彼女は回復魔法の理論を独自に解釈し――というか、もはや理論とか関係なく――自身の聖属性魔力に、「イオリくんが存在し続けてくれますように」という、ただひたすらに純粋な祈りを込めて、俺に向けて送り続けていた。


「魔法とイオリくんの力は、本当は違うものなのかもしれません……。でも、それでも、諦めたくないんです!  イオリくんが、ここにいてくれるだけで、私は……私は、すごく嬉しいんですから!」


 彼女の純粋で、ひたむきで、強い想い。

 それは、科学的にも魔法理論的にも説明がつかないはずなのに、奇跡的に、俺の存在がこの世界から完全に希薄化するのを、わずかながら遅らせる効果を発揮していた。

 それは、理屈を超えた、「想い」そのものが持つ力だったのかもしれない。


 ◇


 一方、リュシアは「存在固定式」を完成させるため、学園の地下深く、歴代の学園長ですらその存在を知る者の少ない「禁書庫」への侵入を決意していた。

 そこには、通常の図書館には決して置かれることのない、魔法と異能の根源的な繋がりや、古代の失われた強力な術式に関する、禁断の知識が眠っていると言われていた。


 幾重にもかけられた厳重な封印を、兄アルトの形見のペンダントと、彼女自身の卓越した魔法知識、そして強い意志の力で解き明かし、リュシアはついに禁書庫の扉を開ける。


「兄さん、見守っていてください……。私は、彼の未来を、絶対に諦めたりしない……!」


 彼女は、学園の最大の禁忌を破るというリスクを冒してでも、俺を救うための唯一の道を、必死に探し求めていた。


 ◇


 アイゼルに殴られ、自分の考えの浅はかさを突きつけられ、その場に立ち尽くす俺の元へ、今度はエミリアが息を切らして駆けつけてきた。

 彼女は俺の腫れた頬を見て、そして俺の瞳の奥に宿る諦念の色を見て、全てを察したのだろう。


「……馬鹿なことを、考えないでください。」


 彼女は、震える声で、しかしはっきりと言った。


「勝手に……いなくなろうなんて、この私が、絶対に許さない……!」


 その青い瞳からは、大粒の涙が止めどなく溢れ落ちている。

 普段の彼女からは、想像もできない姿だった。


「あなたがいないと、私が……私が困るのです!  毎日毎日、説教をする相手がいなくなるじゃないか! ……それに……あなたのその、生意気で、ふざけた顔が見られないのも……すごく、嫌なのです!」


 そして、彼女は顔を真っ赤にして、それでも俺の目を見て、絞り出すように叫んだ。


 ◇◇◇


 保健室のベッドの上で、ミユは仲間たちの強い想いを、その繊細な感受性で感じ取っていた。

 彼女の未来視は、依然として、俺がこのまま消えてしまう可能性が高いことを示唆していた。

 しかし、エミリアの告白、クレアの祈り、リュシアの覚悟、アイゼルの叱咤、ユウトの友情……仲間たちの必死な姿を見て、彼女の中で、何かが確実に変わり始めていた。


(ううん、違う……未来は、一つだけじゃないはず……! イオリくんが教えてくれたじゃない! 運命なんて、自分の手で変えられるって!)


 彼女は、自身の能力に対する恐怖を、強い意志の力で振り払う。

 そして、その力を制御する決意を固める。

 未来視で最善の選択肢を探し出し、空間操作の力でそれを現実のものとする。


 もう、ただ悲劇に怯えるだけの少女ではない。

 イオリを守るために、仲間たちと共に未来を掴むために、彼女は自身の呪われた力を、希望を切り開くための力へと、変えようとしていた。


 ◇◇◇


 その頃、学園の地下最深部。ゼファルは、巨大な、禍々しい光を放つ儀式装置の前に立っていた。

 装置は、学園全体の魔力だけでなく、異空間から強制的に取り込んだ、未知の高次元エネルギーをも吸収し、今にも臨界点に達しようとしている。


「ククク……ハハハハ!  集まってきていますねぇ……異能と魔法、そして高次元の純粋なエネルギーが……!  あと少し……あと少しで、私のこの矮小な肉体は、この世界のあらゆる法則を超越し、完全なる存在――“神”へと、昇華するのだ……!」


 彼は、イオリの存在エネルギー――その希薄になりつつある魂の光――を、神化を完成させるための最後の起爆剤として取り込むべく、恍惚とした表情で、儀式の最終準備を完了させようとしていた。


 ◇◇◇


 俺の周りに、いつの間にか、仲間たちが集まっていた。

 アイゼルに殴られた頬を押さえながら立ち上がると、そこには、心配そうな、あるいは怒ったような、でも、確かに俺の帰りを待っていてくれた奴らの顔があった。


 クレアが駆け寄り、俺の手にそっと触れ、優しい光で痛みを和らげようとしてくれる。


「大丈夫です、イオリくん……私が、そばにいますから」


 エミリアは、まだ涙の跡が残る顔で、プイッとそっぽを向きながらも、「……早くその情けない顔をなおしなさい。あなたにはまだ、私への借りが山ほど残っています」と、ぶっきらぼうに呟く。


 禁書庫から戻ってきたリュシアは、古代文字がびっしりと書かれた羊皮紙のようなものを手に、「……必ず方法を見つけてみせる。だから、貴方も諦めるな」と、力強い瞳で俺を励ます。


 そしてミユは、俺の背中にそっと寄り添い、「……もう、一人にはしないからね、イオリくん」と、小さな声で、しかし確かな決意を込めて囁く。


 彼女たちの強い想いが、まるで物理的な鎖のように、消えかけていた俺の存在を、必死にこの世界に繋ぎ止めている。

 そんな気がした。


 だが、感傷に浸る時間は残されていなかった。

 ついに、魔導師会が定めた24時間の猶予期間が過ぎ去ったのだ。


 ゴオオオオオオッ!


 学園上空を包囲する魔導師会の巨大艦隊から、無数の砲門が一斉に火を噴いた。

 無慈悲な光の雨が、学園の防御結界(クレアが必死に維持していたが、もはや限界だった)へと降り注ぐ。

 結界は激しい攻撃に耐えきれず、ガラスのように砕け散り、艦隊から降下した討伐部隊が、破壊された校舎の瓦礫を乗り越え、学園内へと雪崩れ込んできた。


 抵抗する生徒たちとの間で、再び激しい戦闘が始まる。

 学園は、炎と破壊、そして絶望の悲鳴に包まれる。


 ◇◇◇


 ユウト、ニコル先生、そして最後まで武器を捨てずに抵抗を選んだ生徒たちは、俺たちがいる保健室を守るため、文字通り最後のバリケードを築いていた。


「ここから先は、絶対に一歩も通さねぇぞ!」

「イオリを信じろ!  あいつなら、きっと、きっと何とかしてくれるはずだ!」


 彼らの武器は少なく、魔力もほとんど尽きかけている。それでも彼らは、友を、仲間を、そして自分たちが愛したこの学園という居場所を守るために、圧倒的に不利な、絶望的な戦いに、その身を投じていく。


 押し寄せる敵部隊。仲間たちが次々と倒れていく。

 その光景を、保健室の窓から見ていたミユは、「させない!」と強く念じた。

 彼女の未来視が、敵の攻撃が仲間に命中する、その“瞬間”を捉える。

 そして、それを回避させようと、無意識のうちに彼女の力が発動した結果――。


 彼女の周囲の時間が、ほんの一瞬だけ、僅かに、しかし確実に、遅延した。


「え……? なんだ、今の現象は……?」


 敵も、そして近くにいた味方も、その異常な現象に気づき、動きを止める。

 ミユの能力が、単なる未来視だけでなく、限定的ながらも、時間そのものに干渉する領域にまで、踏み込もうとしている兆候だった。

 それは、この絶望的な状況を覆すための、最後の切り札になるかもしれない。


 ◇◇◇


 一方、禁書庫で古代魔術の解読を進めていたリュシアが、ついに「存在固定式」の術式を完成させていた。


 それは、対象者の魂と術者の魂を、世界の根源的なエネルギーライン――レイラインと呼ばれるもの――に強制的に接続し、その存在の座標を、この世界に強引に固定するという、神話級の、そして極めて危険な古代魔術だった。


 しかし、この術の発動には、術者自身の生命力の大半と、対象者に対する比較対象のないほど強い“想い”が必要となる。

 失敗すれば、術者も対象者も、魂ごと消滅しかねない諸刃の剣。


「……準備は、できた。イオリ……貴方が生きる未来のために、私は、私の全てを捧げる覚悟はできている……!」


 リュシアは覚悟を決めた瞳で、儀式の発動準備に入る。


 ◇◇◇


 仲間たちの必死の抵抗も虚しく、魔導師会の圧倒的な物量と、ゼファルの策略の前に、学園の防衛線は次々と突破されていく。


 そして、俺自身の身体は、もはや限界を超えていた。

 輪郭すら曖昧になり、光の粒子となって、足元からゆっくりと霧散し始めている。

 仲間たちの声も、もうほとんど聞こえない。

 意識もほとんどなく、俺の心臓の鼓動も、今にも止まってしまいそうだ。


「……イオリ……くん……!  いやあああああ!」


 ミユの悲痛な叫びが、遠くに聞こえた気がした。


 その、まさに瞬間。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!


 学園の地下最深部から、天を突き破るかのような、巨大な、禍々しい紫黒色のエネルギー柱が、空高く立ち上った。

 ゼファルの、神化の儀式が、ついに最終段階に入ったのだ。


「時は来た! 全ての法則を超越し、全能たる存在が、今、この世界に降臨するのだ! フハハハハハハハ!」


 ゼファルの狂気に満ちた、勝利を確信した哄笑が、絶望に包まれた学園に、そして消えゆく俺の意識に、不気味に響き渡った。

 

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