B型の女
床崎比些志
第1話
野村光雄は都内にある、とある一流企業の営業部の部長をしている。営業の仕事そのものは好きだったし、上司の受けや評価もよかった。しかし、来る日も来る日も成果を問われ、しかも昨今の不況の影響で、営業成績も伸び悩んでおり、日常的にストレスを感じていた。とくに有望商談を失注したときなどはめまいや吐き気のような肉体的な変化を伴うようになっていた。しかし光雄は酒も博打もしない。唯一のストレスのはけ口は女だった。といって玄人の女は好きでなかった。光雄には、結婚してからも常に愛人がいた。愛人がいるからこそ仕事のストレスに耐えることができるタイプの人間といえた。そんな野村光雄が、部下である上原美波と結ばれたのは当然のなりゆきと言ってよかった。上原美波は、若く、色白でそしてスタイルもよく、鼻筋のとおった美人だった。光雄が部長に昇進したときに、自分の一存で採用した最初の新入社員である。もちろん学業の成績も優秀であり、営業職としても見込みがあるからこそ採用したのだが、男としてその容姿に惹かれたことは否定し難い事実だった。
美波は母子家庭で育った苦労人であり、まじめで身持ちが堅かった。野村光雄も母子家庭で育ったため、自分と同じ境遇の美波に同情しながらも美波の美貌には当初から下心を抱いていた。とはいえ、最初の三年ほどは社内の噂やセクハラとかになるのも面倒なので、あえて慎重に接していた。しかし、ある日彼女の方から相談を持ち掛けられた。幼いころから母と二人三脚でくらしてきた美波にとって母親は一心同体である反面、その体にのしかかり、自由を束縛する重石のようなものであり、愛憎半ばする存在になっていたのである。美波は神奈川の実家から通勤していたが、母親との二人っきりの暮らしに感情的な軋轢なく区切りをつけるため、いっそのこと自分を国内か海外に転勤させてほしいと言ってきたのだ。部長である光雄の権限ならそうした人事は可能だった。しかし、美波を自分の手元から今すぐに手放すのは惜しかった。そこで、関係部門と人事の調整をするが、二年ほど待ってほしいと伝え、それまでの一時的な措置として、会社の近くのマンションで一人暮らしすることを提案した。しかし、金銭的な問題を理由に首を縦にふらない。そこで月々の都内のマンションの家賃は自分が負担しようと伝えた。そして上原美波は、その提案を受け入れ、二人はすぐに男女の関係に発展した。
それから二年がすぎた。もちろん人事の件はなにも進んでいない。それでも上原美波は光雄との関係に満足しているように見えた。上原美波の血液型はB型だった。B型の女としか野村光雄は遊ばないと昔から決めていた。A型やO形とくらべB型の女はつかみどころこそないものの、秘密を守り、条件にさえ満足すれば割り切った関係になることができると信じていた。というのも光雄の家族は、両親もO型であり、妻はA型、光雄自身もO型、そして二人の子供はどちらもA型であった。つまり光雄の頭の中では、A型やO型は家族的であり、B型は野村家の血族としては存在しえない非家庭的人間だという偏見的な位置づけがなされていた。とくに遊び相手の女として最適であると考えており、その意味で、若く美しい上原美波は光雄にとってもっとも好ましいB型の女であった。
しかし、ある日を境に急に美波の態度が変わった。妊娠が発覚したのだ。用心深い野村光雄はつねに避妊を怠らなかった。だから妊娠するはずはないし、自分の子供のはずもなかった。しかし、美波はほかの男との関係を否定した。妊娠が虚偽や誤解でないかぎり、必然的に自分の子だねということになる。納得できなかったが、明確な証拠がない以上、言下に切り捨てるのは得策ではないと思った。
とはいえ、光雄は、最終的には美波が素直に子供をおろしてくれると思っていた。しかし案に相違して、美波はなんどか話し合いをもったが、最後まで子供を産むと言い張った。結婚こそ迫ってはこなかったものの、養育費は要求された。毎月三十万円だという。しかも利口な美波はどうしてその金額が必要かということを大学卒業までにかかる費用を具体的に列挙しながら説明したので、光雄には返す言葉がなかった。この先二十年以上、マンションの家賃に上乗せした三十万円となると、一流企業とはいえ、たかが部長クラスのサラリーマンに負担できる金額ではない。野村光雄には、二十年前に結婚した同い年の妻との間にもうすぐ大学生になる長男と病弱な長女がいた。長女は生まれつき、重い呼吸不全と心不全を合併しており、医者からは心肺同時移植をしないと二十歳まで生きられないかもしれないと言われていた。心肺同時となるため、ドナーは簡単に見つからないし、手術代や術後の治療費もばかにならない。この先のことを考える預金は少しでも多い方が望ましかった。
もちろん、借金をして爪に火を灯すようなつましい暮らしを覚悟すればどうにかやりくりできるかもしれないが、美波とのことを妻や子供たちに伏せたままやり過ごせるとは思えなかった。露見すれば家族は崩壊するだろう。美波と同じように母子家庭で育った光雄にとって、家庭の温かみはなによりも大切な存在だった。頭の中では厚かましいと理解しながらも、安定した温かい家庭と刹那的な快楽をもたらす愛人はどちらも光雄にとっては必要不可欠なのだ。
かといって美波の要求を断り邪険に扱えば、美波はきっと出るところに出てすべてを白日のもとにさらすぐらいのことをやりかねない女なので、きっと自分は会社での地位をすべて失うだろう。運と成績次第では、これから先、本部長や役員になることも夢ではないと感じはじめた折でもあり、出世には強い未練があった。それに会社を首になれば、やはり家族の崩壊もさけられない。いずれの道を選んだとしても野村光雄にとっては受け入れがたい現実でしかないように思われた。
野村光雄の思考は袋小路に陥り、進退きわまった。必然的に上原美波を強く憎んだ。もはや彼女に対する愛情や執着はかけらもなかった。自分の前途と安定に危害を加える害虫というほどの認識しかない。だからその存在を消す以外に道はないと思った。
そんな折、光雄は東北のとある町に出張した。そして奇妙なできごとに遭遇した。
その町のとある取引先との打ち合わせを終え、その後、近くの居酒屋で接待を受けた。宴席は嫌いではなくむしろ好きな性質の光雄だが、取引先の地元企業の社長がいつまでもしつこく仕事の話を続けるのでまったく飲んだ気にならない息の詰まる接待だった。それで、その後、飲みなおしたくてひとりで町の一角にある小さなおでん屋にはいり、カウンターに腰かけたところ、そこの女将に、
「野村さん、今日は遅いのね」
と声をかけられたのだ。予約もせず、初めて入ったはずの店なのになぜ店主が自分の名前を知ってるのか、訳のわからぬまま、あらためて声の主の顔をまじまじと見てみたが、まったく見覚えがない。
そこでどうして自分のことを知っているのかとたずねたら、
「二日に一回は必ず来てくれてるじゃないの」
と心配そうに光雄の顔を見るのだ。女将の表情は、自分が記憶喪失になったのではないかと一瞬本気で疑ってしまうほど真面目そのものだった。光雄はあわてて自分がこの町の人間ではなく、都内の民間企業に勤務するサラリーマンであることと、今日は出張でこの町に来て、たまたまこの店ののれんをくぐったので、女将に会うのも初めてであることを伝えたが、それでも女将はしばらく冗談だと思って本気にしなかった。ただ、光雄は話しの流れから女将が自分とよく似たこの店の常連と勘違いしていると気づいた。それも無理はない。その常連と光雄とは、顔だけでなく、声色や歳や背格好まで似ているらしいし、苗字も同じ野村だという。もしかして自分を騙る偽物ではないかという疑いも光雄の頭をかすめたが、なんの地縁もない東北の田舎町で名が売れるほどの有名人でも資産家でもない自分を騙って得することなど何もないと考えると、やはりただの偶然に思えた。やがて女将も光雄が嘘をついていないと理解し、
「よく似てるわ。でも確かに話し方や服装は違うわね。こっちの方が都会的っていうか、ずっと洗練されているもの」
とおもねりの言葉を添えて、二人が別人であることを最後には納得してくれた。
その時はいったん東京に戻ったが、それから二週間後、光雄はどうしてもその男の存在が気になったので、出張理由を適当にこしらえてもう一度その町へ出かけた。
その日、その男は女将がいう時間に店に現れた。男の顔は、光雄自身も驚くほどによく似ていた。相手の男も呆然としていた。ただ女将はその横でふたりを見くらべながら大笑いしていた。
そして光雄はその男が、野村貞夫という地元でガードマンをしている男だと知った。光雄はこの男と酒を酌み交わした。そして苗字だけでなく下の名前もなんとなく似ていたし、背格好や声だけでなく、生まれた年も同じであること知った。ただ、血縁関係などはまったくなかった。兄弟のいない光雄にしてみれば、貞夫は、双子の兄弟のように感じられた。社会的な立場でいえば、ふたりは勝ち組と負け組といえたが、見るからに出来の悪い弟然とした様子も光雄の自尊心をくすぐりますます親愛の情をよびさました。しかし、それでさえほんのいっときの感傷にすぎなかった。光雄の怜悧な頭脳は、すぐにそうした感傷を排除し、この男との出会いを自己中心的な計画を正当化するための運命論に結びつけていた。
そして、秋が過ぎて、冬、ついに決行のときがきた。
それまで表面上、野村光雄は美波と良好な関係を続けていた。実際自身の腹の中は美波に対する憎悪で煮えくり返っていたが、表向きの表情は柔和そのものであり、あくまで身重の恋人を気遣う優しい年上の男を演じ続けた。美波も光雄の誠意を信じきっているようだった。しかし頭の中では一か月以上かけて念入りに着々と凶悪な計画を練り続けた。
野村光雄は、折からチャットで野村貞夫と連絡をとりあい、その日の七時半に仙台市内のとあるバーでおちあう約束をした。野村貞夫とは、こんど仙台に出張するときは仙台市内にいい店があるのでゆっくりさしで飲もうと話をしていた。貞夫の住む町と仙台とは電車で小一時間の距離にあった。一方、上原美波とは、ほぼ同じ時間に新潟で会う約束をしていた。光雄本人はその日、前日から仙台に出張していた。美波はというと、表向きはその日、新潟へ出張する予定になっていた。会社の同僚にばれないよう、おなじタイミングで違う場所に出張し、どこかで落ち合うというのは二人がよく使う手だった。しかし、新潟と仙台というケースはその日が初めてだった。
なぜ光雄が北国の二つの町をこの計画の舞台に選んだかというと、まず、単に男と女の別れの舞台は北国でなければならないというこの男には似つかわしくないロマンティックな思い込みがあったのと、東北と信越は同じ北国でありながら、地理上の横断的な行き来は稀であり、仮に捜査の手が及んでも容易には両者は結びつけられないだろうという思惑があったのだ。もちろん二つの場所を移動するのは時間的な困難を伴うためともすればアリバイ成立そのものに支障をきたしかねないリスクもあったが、それだけにやりがいがあると考えていた。光雄はあたかもこの計画を自らに課した職務上の重大なミッションのように考えていた。
午後四時に予定どおり、商談先との打ち合わせを終えた光雄はタクシーで仙台駅前のホテルにもどり、あらかじめ準備していた旅行かばんを手に取った。そして駅に向かい、午後四時三十一分仙台発の「はやぶさ32号」に乗った。午後五時三十九分に大宮に到着。乗り換えの時間を利用して大宮駅から野村貞夫に電話を入れ、商談が延びており、約束の時間に三十分ほど遅刻しそうだと告げた。そして午後六時五分発の「とき337号」に乗り替えて七時三十九分に新潟駅に到着。そこからタクシーを飛ばして信濃川をわたり、待ち合わせ場所である喫茶店で七時五十分に美波とおちあった。なるべく人目を避けるため、そのときも店には入らず、店の外からチャットアプリで連絡し店を出るようにうながした。
そしてそこから歩いて裏通りのラブホテルに向かった。チェックインの際、光雄は防犯カメラに顔が映らないよう、コートの襟を立てながら猫背にして声色も変えた。ホテルはあらかじめチェックインのときもチェックアウトのときも受付の係員と顔を合わす必要もなければ、出入りを近隣店舗の防犯カメラや車載カメラで撮影される恐れのない完全な裏通りにあるホテルを一か月以上前に下見して特定していた。一か月前というのは、あとあと新潟に来ていたという証拠が防犯カメラなどから出てくることを恐れ、通常の店舗や通りの防犯カメラの映像の保管期間が長くとも一か月であることを頭に入れたうえでのタイムラインだった。
チェックインがすむと光雄は心の動揺を気取られぬようやや大胆に美波の腰に手を添えながら、部屋までやさしくエスコートした。美波に警戒心はなかった。そしてドアを開け、美波を部屋に導いた。柔道経験者である光雄は、あとから部屋に入るとすぐに美波を背後から裸締めにした。美波は一瞬くぐもった声を上げただけで、ものの数秒でぐったりした。そしてベッドの上にうつ伏せにしたあと馬乗りになり、仙台のホテルから拝借してきた浴衣の紐で首をしめた。やがて美波の体が完全に動かなくなり、心臓の音も止まったことを確かめてから、物取りの仕業に見せるため、財布とスマホをショルダーバッグから抜き取った。
それからすぐに何食わぬ顔で部屋を出た。周囲の目を気にしながらホテルを出ると日本海から冷たい風がふきつけてくる。まるで光雄の前途を予感させるような冷たい北風だった。しかし、光雄はあわてることなく、人通りのない裏通りを当初の計画どおり、信濃川に向かって歩きはじめた。そして川沿いに出ると、まず美波のスマホを冷たい信濃川に投げ捨てた。晩秋の信濃川は波頭を立てながら滔々と流れている。そして大河は、まるで光雄の欲望の権化のように美波のスマホをぺろりと飲みこんだ。あとひと月もすれば、川面は冷たい氷におおわれるはずだった。
そして大通りに向かって歩き、あらかじめタクシーアプリで手配していたタクシーに飛び乗った。時計を見たら午後八時十一分である。予定より一分遅れたが、計画に支障はなかった。光雄はタクシーの中から野村貞夫にもう一度電話をして、さらに三十分ほど遅れそうだと告げた。そして新潟駅に着くと、やや駆け足で新幹線乗り場に向かって構内を横切った。幸いその時間の新潟駅は人通りもまばらだった。そして予定どおり八時二十三分新潟駅発の「とき348号」に乗車することができた。八時四十五分頃、チャットアプリで、「今日はやはり抜け出せそうにない、キャンセルさせてくれ」、というメッセージを二万円分の電子マネーといっしょに野村貞夫に送った。野村貞夫からはその五分後に、「残念だけどせっかくなのでもう少し飲んでから帰ることにするよ」、という返信が届いた。光雄はそのメッセージを確認後、すぐにそのトークルームを削除した。
午後十時九分大宮発の「やまびこ223号」に乗り替えてから、午後十一時四十六分に仙台に到着し、そこから歩いて駅前のビジネスホテルに戻った。部屋に入るとようやく一息つけた。正直いうと部屋に入るまでは誰かにつけられているのではないか、誰かに不審がられているのではないかという猜疑心が彼の心を支配していた。しかしようやくねぐらにもどったことで、大仕事をやりとげたという充足感が彼の心を正気にもどしていった。同時にどっと疲れも感じたのでベッドに横たわった。このまま大の字になって眠りたい気分だったが、まだ仕事は終わっていないのだと自分に言い聞かせるように立ち上がって、コートを脱いだ。そしてホテルの内線電話からマッサージを依頼した。その際、担当者の記憶に残るよう、わざと部屋番号と名前を告げ、あたかもそれまでの時間もホテル内にいたことを強調するために、
「今ちょうど風呂から出たところだがマッサージをお願いできないか」
とやや芝居がかったぞんざいな口調で依頼した。担当者は恐縮した様子で、
「あいにく予約でいっぱいなので、一時間後でよいでしょうか?」
というので、
「明日の朝早いんだ、じゃあ今回はあきらめまるよ」と言って電話を切った。その後、着替えを用意してホテルの大浴場に行き、ひと風呂浴びた。凶器として使用した浴衣の紐は、脱衣所の使用済のタオルや浴衣を収集する籠に投げ入れた。そしてその横の棚においてあった真新しい浴衣と紐を手に取って体に巻いた。
風呂に浸かると、自然とため息がこぼれた。ただしそれは後悔や懺悔の念から生まれたものではなく、すべてのミッションを完璧にやり遂げたという安堵と充足感と優越感からあふれ出た勝利を確信するための吐息だった。
――いずれにせよ、こうして野村光雄は、文字通り分刻みの神業的な殺人計画を完璧になしとげたのである。
上原美波の遺体はその夜、ホテルの清掃員に発見された。正しく言うと、美波はまだ死んでいなかった。いったん心肺停止したはずだが、その後奇跡的に蘇生していた。光雄にしてみればそれは彼が計画し実施した完璧な殺害計画における唯一の誤算だった。しかし心肺停止時間が長かったため、脳死状態になっていた。もしかすると意識が戻るのではないかと、光雄は気が気じゃなかったが、それから三日後に、野村光雄にしてみれば、無事、上原美波は死んでくれた。事件のことは、直後からすぐにニュースとなってテレビやネットで報道された。警察は怨恨と物取りと両方の線で洗った。上司である野村光雄にも新潟県警の捜査員が事情聴取に訪れた。疑いの目は光雄にも向けられた。しかし、美波は会社の同僚や友人だけでなく親にも自分との関係を話していなかった。さすがは自分が見込んだB型の女であるとあらためて感じ入ったほどである。さらに光雄には完璧なアリバイがあった。野村光雄は実際に事件のあった日の前後二日間かけて仙台駅ちかくのビジネスホテルに宿泊していた。しかも事件当日の夜はホテル専属のマッサージ師が内線で会話をしたことを記憶しているはずである。そして少なくとも午後四時まで光雄は仙台市内の取引先と面着の商談をしていた。さらに決定的なのは犯行のあった時刻に、野村光雄という人物は仙台市内のバーに午後十時すぎまでいたのである。そのことを見ず知らずのバーテンダーが証言していた。野村貞夫は光雄が送付した電子マネーで、うまい具合に十時過ぎまでチビチビ飲み、しかも義理堅いことに残ったボトルを野村光雄名でキープしてくれていた。野村貞夫は、まったく自分の役割を認識しないままに、脚本どおり光雄の替え玉役をまっとうしたのである。
光雄は依然自分のアリバイ工作には自画自賛したいほどの充足感をおぼえていた。しかしその慢心も時を追うごとに増殖する犯罪者としての呵責と恐怖を完全に払拭するまでにはいたらず、さすがに事件後数日はまんじりともできない夜が続いた。
事件が公になった後、光雄は、すぐに美波の実家を訪れ、心配する上司を装いつつ母親の様子を探った。通夜と葬儀にも列席し、なにくれと気遣う様子を見せながら、その一挙手一投足に目をくばった。しかし腰の低い母親は突然の娘の死に動転しながらも、上司の親切にしきりと恐縮するだけで、すくなくとも光雄を犯人として疑う様子もなければ娘が誰かと不倫関係にあることすら匂わせるような様子も一切なかった。
やがてひと月がすぎ、捜査は行きずりの物取りの犯行の線に傾きかけていた。というのも、美波には、事件直後からとある週刊誌が「一流企業美人OLの性の闇」と題して美波が日常的に売春行為を行っていた可能性を示唆する記事を掲載した。記事の中身はほぼでたらめだった。週刊誌の記者は光雄のところにも取材に来た。話さえおもしろおかしければ真実などどうでもいいと考えるような品のない三十過ぎの男だった。記者は顔を合わせるなり露骨に美波の売春の噂をもちだした。光雄は、美波に限ってそんなことは絶対にないと激しく怒った。そして美波がいかに品行方正でまじめで身持ちの堅い女性であるかを熱弁した。そう話すことが、読者のスケベ心をくすぐり、記事をさらに面白くそしてもっともらしくさせることを光雄は記者の目を見るうちに悟っていた。そして、この記事は思惑通りの反響を得て光雄に幸いし、結果として捜査の行方そのものに影響を与えることとなった。
半年たつと新潟県警の捜査本部も解散となった。やがて一年がたち、野村光雄は、内面もすっかり平静さをとりもどしつつあった。実際、もはや逮捕への恐怖や罪の意識が薄れただけでなく、自分がおかした犯罪そのものがまるでいつかどこかで見た映画かドラマのワンシーンのようにすっかり他人事に思えるようになっていた。
この一年、光雄の人生は大きく好転した。長女は美波の死の直後に待望のドナーからの臓器提供を受けることができた。そして、無事心肺同時移植手術を終え、いまでは元気に中学校に通い、体育の授業にも出席できるようになっている。また先日、本部長から呼ばれ、次期本部長昇進への内示を受けた。女性関係も充実している。さすがに未婚女性の愛人は、もうこりごりだったが、既婚の女性ならお互い秘密を抱えている立場なので痴情のもつれに発展する可能性はひくいはずだと考え、いまはSNSで知り合った二人の既婚者と匿名でつきあっている。――すべては順風満帆といえた。
しかしその生活も、光雄の知らぬところでほころびが生じ始めていた。野村貞夫という名前と顔がほんの少しばかり脚光をあびる出来事が起きたのである。野村貞夫はSNSなど一切やらない根っからのアナログタイプの人間なので、なにごともなければその名前や顔が世間に知れることはないはずだった。しかし東北のとある町で連続して起きたボヤ騒ぎが光雄の計算を狂わせた。そのボヤ騒ぎは放火だった。その放火魔を見つけ、警察に通報し、表彰を受けたガードマンがいた。ほかならぬ野村貞夫だった。その記事は地方の新聞にしか掲載されなかった。だから東京に住んでいる野村光雄の耳目に触れることはなかったが、警察内部の会報「警察通信」に写真入りで掲載された。それは新潟県警の捜査関係者の目にも触れた。
新潟県警の新米刑事は、その写真を見るなり、誰かと似ていることに気がついた。野村光雄にとって運の悪いことに、その新米刑事は、たまたま光雄の事情聴取に立ち会っていた。しかも好奇心旺盛だった。そして持ち前の好奇心が鎌首をもたげ、野村光雄と野村貞夫はもしかすると双子か兄弟ではないかという漠然とした疑問をいだいた。しかし調べてみると二人の間に血縁関係はまったくないことがすぐにわかった。そのことを先輩刑事に告げると、先輩刑事は新米刑事のとりとめのない行動にあきれつつ、なにかきな臭い匂いを刑事の勘で感じ取った。そして事件のことには一切ふれることなく、逮捕された放火魔の新潟県内の余罪を追っているという名目で、宮城県警に依頼して野村貞夫に直接会う算段をつけた。その日は、ちょうど上原美波の一周忌の日だったので、二人の刑事は、午前中に神奈川にある美波の実家を弔問し、その足で仙台に向かう計画を立てた。
しかし野村光雄はそのことを知らない。
上原美波の命日に野村光雄は、神奈川にある美波の実家を訪れた。そこには美波の母親が一人で暮らしている。朝から風の強い日だった。
上原美波の実家は相模川の支流沿いに立つこじんまりとした一軒家の借家である。美波はこの家で生を受け、父親が四歳のときに亡くなってから、二年前に一人暮らしを始めるまでこの家に母親と二人で住み続けた。
野村光雄は、背広姿で果物籠を下げていた。玄関で呼び鈴を押すとしばらくして美波の母親の声がした。インターホン越しの母親親の声は生前の電話越しの美波の声によく似ていて、いつもその声を聞くとドキッとしてしまう。気を落ち着けようと大きく深呼吸をすると、玄関の扉が開いた。ほんの少し目を合わせ愛想笑いを浮かべる母親の案内で玄関を上がり、小さなリビングに通された。昭和五十年代ごろの典型的な間取りのリビングであり、長椅子とテレビ、そしてピアノと戸棚があった。そして今はもう鳴ることもないアップライトピアノの上と戸棚の奥には無邪気に笑う美波と両親の写真がいっぱいに飾られている。
一旦長椅子に腰掛けた光雄だったが、美波のまばゆいばかりの笑顔の視線たちから目を逸らすため、立ち上がって、窓辺に向かって歩いた。そしてガラス窓越しに小さな陽当たりの悪い庭を眺めた。手入れが行き届かないのか、申し訳程度に植えられた数本の庭木もだいぶ荒れていた。一人で暮らすにはこの家はやはり手に余るように思われた。前日に電話で母親と話したところでは、母親は来月にも家を出て、小さなアパートに引っ越すらしい。野村光雄は、伸び放題の南天の木にシジュウカラが数羽さっきから飛来してきては、反対方向に飛んでいくのをじっと眺めつつ、がらにもなく感傷的な気分になった。
やがて、美波の母親がお盆にお茶と和菓子を載せて、台所から顔を出した。
母親はリビングでお茶をすすめようとしたが、光雄は、仏様に線香をあげさせて欲しいと申し出た。そして母親に促され、仏壇のある和室に通された。そこで光雄は、うやうやしく果物籠と香典袋を母親に渡すと、美波とその父親の位牌を祀る仏壇に向かって座った。美波のお骨は納骨されることなくまだ仏壇におかれていた。そしてそのとなりには美波の骨箱に寄り添うように小さな骨壺があった。母親は娘の体面を慮ってか自分からはなにも話そうとしないので、あえて光雄から問いただすことも差し控えたが、おそらく美波のお腹にいた子供の骨なのだろう。つまり――光雄自身の子供なのである。そばに飾られた美波のあどけない、それでいて少し寂しそうな笑顔の遺影と重ねながら見るとさすがに胸が締めつけられた。
線香が終わった光雄は、顔を上げるとあらためて伏し目がちな母親の顔を見た。自分とさほど歳が変わらぬはずだが、目の下のクマや白髪が目立つようになり、この一年の間にまるで十ほど年老いていて見えた。しかし腰が低く人のよい印象は以前と同じだった。
母親は畳の上で深々と頭を下げた後、光雄にお茶をすすめた。光雄は正座をしたまま、おもむろにそのお茶をすすった。
「やはりそろそろ納骨した方がよいでしょうね」
母親は目を伏せたまま何度かうなずいた。
「––––でも、受け入れてくれるお墓ももともとないですし、それにやっぱり美波がほんとうに遠くに行ってしまうような気がして––––淋しいです」
「よろしければ僕のほうでどこか近くの納骨堂をさがしましょうか?」
本音をいえば美波の肉体はその骨も灰もすべて一刻も早くこの世界から消してしまいたかった。
「ええ、自分ではどうしてもふんぎりがつかなくて––––それがいいのかもしれません。なにから何まで、なんてお礼を言えばいいのか––––」
「いえいえ、上司として当然のことです」
母親はもう一度深々と頭を下げた後、顔を上げて美波の遺影をじっと見つめた。そしてボソッとつぶやいた。
「ほんとに美波はかわいそう」
「ほんとです」
「被害者なのにまるで加害者のような扱いを受けて。あの子が悪いことをしたんでしょうか?一生懸命勉強して、自分で働いて大学も出て一流企業に入って真面目に働いていただけじゃないですか。なんで見ず知らずの世間の人からいわれのない誹謗中傷をうけなきゃならないんでしょう?」
「ほんとに、僕もくやしいですよ。世間ってやつはほんとに無責任です。必死になって抗弁すればするほど、おもしろおかしくとりあげて笑いものにするんですから」
「あの子は二度殺されたようなもんです」
「二度目の殺人は僕にも責任はあると思います」
「それをいえば、わたしも同罪です。母親なのになにもしてあげられなかった……」
「せめて、美波さんにはあの世で少しでも早く安らかに成仏してほしいです。――どこまで意味があるかわかりませんが、出版社には、もう一度僕から記事の訂正を求めてみます––––納骨堂も手配しておきますね」
母親は黙ってうなずいた。そして仏壇の上の壁にかけられた男性の写真を見上げながら、
「でも、そうなったら娘も淋しがるでしょうね。この子の亡くなった父親と同じで、ほんとうに独りよがりの淋しがり屋だったもんですから。――血は争えませんね」
「血ですか––––そういえば美波さんの血液型は、確か––––B型でしたね」
それまで伏し目がちだった母親が一瞬きょとんとした顔をした。
「いえ、いえ、B型じゃありませんよ。A型です。父親と同じA型ですよ」
「そ、そうでしたか、だれかと勘違いしていたようです」
――そういえば、はっきり美波自身の口から自分がB型であると聞いたことはなかった。
たしかあれは初めて彼女から相談を受けた日、つまり自分の女にしようとはっきり意識した日、光雄は彼女に対して「君はB型じゃないか?」と聞いた。それに対して彼女は、笑ってうなずいたが、あれば単に自分の歓心を買うために適当に調子を合わせただけだったのだ。
――野村光雄は自分の知らない上原美波の別な一面を見た気がして、なにか最初から大きな間違いをおかしたような嫌な予感をおぼえた。
「まあ、たしかにマイペースなところもありましたからね」
母親は湯呑にお茶を注ぎながらすこし思い出し笑いをうかべた。
「でもね、あれできまじめなところもありましてね。日記も毎日つけてたんですよ。遺品の整理をしていたときに初めて知ったんですけどね……」
野村光雄はうしろから頭をなぐられたようなショックをうけ、目の前が一瞬真っ暗になった。
「に、日記ですか……」
「ええ」
「もしかして事件にかかわることも書かれてたりしたのでは――」
「さあ、もしかするとそういうこともあるかもしれませんが、なんていうんでしょ、娘のプライバシーを覗き見するようで気が引けるんですよ、今でも。それにまだ娘の死を受け入れられないっていうか、娘の日記を正視する勇気がないのです」
「わかります……では、まだ中身をご覧になっていないのですか?」
「ええ」
野村光雄の頭の中に一筋の光明がさしこんだ。
「あの、実はわたし、美波のことで部長さんにも言わなかったことがあるんです」
「なんでしょう?」
といいながら、きっとお腹の子のことだとおもった。しかし予想に反した。
「実は、美波は臓器バンクに登録していて、心臓と肺を移植したんです」
一瞬、光雄は母親がなにを言っているのかわからず、頭が混乱した。しかし、さっきの血液型の話しと結びつけると、きわめて絶望的な憶測がかぎりなく現実的な仮説となって光雄の頭を旋回した。
(まさか!)
もちろん、長女の心肺同時移植と美波の死はほとんど同じタイミングだったので、もしかしてそのドナーが美波ではないかという不吉な予感は当時もまったくないわけではなかった。しかし、心臓移植は基本的に血液型不一致の場合は認められてないと聞かされており、美波はB型で長女がA型なので、それはありえないとはなから切り捨てていた。しかし、美波がA型なのであれば、その可能性は否定できないし、むしろ状況から考えてきわめて高い可能性があると思ったほうがよい。だとしたら――美波は生きている。よりによって自分の最愛の娘の体の中で――しかも光雄がどんなに悪知恵を絞っても決して取り除くことのできないやり方で!
光雄は、自分でもあきれるほどに狼狽し、その動揺が片手の震えに現れていた。光雄は懸命に冷静になろうとして、反対の手で震える手をおさえながら、自分の身の安全を確保するための突破口を見出そうとした。
「と、とにかく、では、わたしに、その日記を拝見させていただけないでしょうか」
「いえ、それが……」
母親は下を向いたまま口ごもった。
「ど、どうしたんです?」
ガラス戸が虎落笛の音にあわせてガタガタ鳴った。
「実は今朝、新潟県警の方も見えましたね。その話をしたら、ぜひ拝見させてほしいっておっしゃるもんですから」
「――押収されたのですか?」
「ええ」
光雄の頭の中は完全に暗転した。
「きっと犯人の手がかりを見つけてくれると信じてます」
母親は淋しそうな表情で眼の下に笑い皺を刻みながらも、うつろになった野村光雄の目をまっすぐ見すえてそういった。
『了』
B型の女 床崎比些志 @ikazack
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