(序)日本列島と奥州
我が国の歴史を考える上で、ベースとなるのは「島国」だということ。
古くは北海道はサハリンと、九州北部は朝鮮半島と繋がっていた。日本の周辺には
四つのプレートが折り重なっており、盛り上がったところが日本、ずり落ちたところが日本海、ざっくり言えばそんなところであろう。
当時の『この国』とは歴代皇居の置かれた大和・山城・摂津・河内・和泉の『五畿』を指す。諸国は五畿を中心にして放射線状に、西に「山陰道」「山陽道」、南に「南海道」「西海道」、東には「北陸道」「東山道」「東海道」の『七道』に分けられた。
日本海は大きな湖のように「
交わるところが
越前、越後とは三国を越す手前と後ろのこと。越には
峻険な山脈と三関によって仕切られた東側は『東国』(関東)と呼ばれた。
更に『坂東』とは足柄峠・碓氷峠以東のこと、武蔵(東京・埼玉)、相模(神奈川)、
上総、下総、安房(千葉)、上野(群馬)、下野(栃木)、常陸(茨城)の八つの国を
『関八州』と定めた。
そこから日本列島は北に折れ曲がり、その先は奥の国、即ち『奥州』である。
日本の歴史は弥生時代から始まる。
日本書紀も古事記も神代から記述されてはいるが、高千穂の峰に降り立った神(天孫降臨)とは大陸から日向(宮崎)に渡来した一族のこと、東征を続けて大和(奈良)に王朝を立ち上げた。
当時のこの国には一万年以上も前から土着していた民族がいた。これを縄文人とし
よう。渡来人たちは長い年月をかけて縄文人と融合を重ねた。出雲神話に出てくる
「因幡の白うさぎ」の話は、朝鮮半島から戦に敗れて逃れてきた人々を優しく受け
入れたことで、大陸の文明がこの国にもたらされたことを示していると思われる。
この渡来人と融合した人々を弥生人と呼ぶことにしよう。弥生人は進んだ文化を以
って畿内に勢力を広げていく。
一方で、奥州や九州など辺境の地では融合が進まずに縄文独自の文化が続いた。
畿内の人々(弥生人)が 「のっぺり顔」で、アイヌ民族や薩摩隼人に縄文人特有の彫りが深く毛深い人たちが多いのも恐らくはそういうことではないだろうか。
※筆者は歴史学者でもなければ考古学者でもない。所説あり、学術的に言え
ば正しい解釈ではないかもしれないが、小説を共有して頂く上でざっくりと
した表現を用いていることをご容赦願いたい
奥州では平和な縄文の文化が続いていた。
ところが「金」が発見されたことで朝廷の関心が向けられる。金の産地を確保しようと畿内から役人を始め多くの人間が送り込まれた。
奥州の民は自分たちの土地を守るため、狩猟や馬術などを鍛え上げて強力な戦闘集団を結成する。畿内ではこれらの抵抗勢力を『
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