置き換えられた世界
エキセントリカ
第1話: 違和感
佐藤健太郎は、いつも通りに座った通勤電車の窓から、流れていく風景を漠然と眺めていた。早朝の電車はまだ空いており、彼はいつものように同じ位置の座席を確保していた。習慣とルーティン、それが彼の生活だった。四十二歳、IT企業の中間管理職。平凡と言えば平凡な人生だ。
ふと視線を上げると、向かいの中吊り広告が目に入る。いつも見慣れた飲料メーカーのロゴが、何か違和感を放っていた。青かったはずのロゴの色が、緑に変わっている。
「リニューアルしたのかな」
健太郎はそう思いながらも、どこか腑に落ちない感覚を抱いた。昨日まで青かったロゴが、突然緑に変わるだろうか。しかし他の乗客は誰も気にしている様子はない。自分の記憶違いかもしれないと思い、スマートフォンを取り出して確認しようとしたが、会社のメールが数件届いていることに気づき、その考えは頭から消えた。
会社に着くと、いつものようにエレベーターに乗り込む。ボタンに手を伸ばした瞬間、健太郎は再び違和感を覚えた。ボタンパネルの配置が、何か微妙に違う。「3」と「4」の位置が入れ替わっているような...。しかし、すぐに別の社員が乗り込み、彼のためらいを見て「何階ですか?」と尋ねられたため、慌てて「7階です」と答え、違和感をかき消した。
「気のせいだろう」
そう自分に言い聞かせながら、健太郎はデスクに向かった。今日もまた、数字と会議に埋もれた一日が始まる。
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「ただいま」
夜の9時を回った頃、健太郎は疲れ切った声で玄関から声をかけた。返事はない。リビングでは妻の明子がテレビを見ながら雑誌を読んでいる。夕食の片付けは終わっているようだ。
「おかえり」
明子は視線を雑誌から上げることなく返事をした。かつては「お疲れ様」と言ってくれた彼女の声が、いつからこんなに冷たくなったのか。健太郎は靴を脱ぎ、リビングを通り過ぎる。
「葵は?」
「自分の部屋。宿題をしてるんじゃないかしら」
中学二年生の娘・葵との会話も、最近はめっきり減っていた。反抗期というには早いが、父親の帰宅が遅いことにうんざりしているのだろう。健太郎は娘の部屋の前で立ち止まった。ノックしようか迷ったが、結局そのまま書斎に向かった。
健太郎は温めておいた夕食を一人で食べながら、今日の違和感を思い出していた。広告の色、エレベーターのボタン...それに加えて、部下の鈴木が髪型を変えていたのか、なんとなく違って見えた気がする。
「疲れているんだな」
そう呟きながら食事を終え、シャワーを浴びて早々に床についた。
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週末の朝。珍しく健太郎は家族と朝食を共にしていた。葵は健太郎の存在を意識的に無視しているようだったが、明子はいつもより会話に努めている様子だった。
「最近、なんだか冷蔵庫の位置に違和感があるのよね」
明子が突然言い出した言葉に、健太郎は思わず顔を上げた。
「どういう意味?」
「うーん、説明しにくいんだけど...冷蔵庫がほんの少し、いつもと違う位置にある気がするの。少し右に寄ったというか...」
健太郎は台所を見た。確かに冷蔵庫は、壁からちょっとだけ離れているように見える。でも、それはきっと彼女が掃除のために動かしたのだろう。
「気のせいだよ」
健太郎はそう答えたが、心の中では「自分も似たような違和感を感じている」と告白したい衝動を抑えていた。朝食後、リビングを見回すと、ソファとテーブルの位置関係も、わずかに違うように思えた。テレビの位置も少し右に寄っているような...。
テレビをつけると、ニュースが流れていた。「南米で奇妙な気象現象が発生」というテロップが画面下を流れる。アナウンサーの声が部屋に響く。
「専門家も原因を特定できない局所的な気象現象が、南米各地で報告されています。雲が渦巻き状に固まり、その下では時間の流れが遅くなる現象も観測されたとのことです」
健太郎は新聞に目を移し、ニュースに注意を払わなかった。海外の変な天気など、自分には関係ない。今日はたまの休日なのだから、少しでも仕事のことを忘れたかった。
「パパ、今日はどこかに行くの?」
久しぶりに葵から話しかけられ、健太郎は驚いた。娘の表情には、年頃の子らしい複雑な感情が混ざっていた。期待と諦め、それを隠そうとする無関心。
「そうだな...」
健太郎は答えに詰まった。実は午後から会社の資料を確認するつもりだったが、娘の表情を見て気が変わった。
「どこか行きたいところある?」
葵の目が少し輝いた。
「映画、観に行きたいな...」
明子が台所から顔を出した。「いいじゃない。私も久しぶりに映画館行きたかったの」
突然の家族サービスに戸惑いながらも、健太郎は頷いた。
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その夜、一人リビングにいた健太郎は、ふと壁に掛かる家族写真を見つめていた。不思議なことに、写真の中の自分たちの表情がいつもより明るく感じられる。特に自分と葵が親密に肩を寄せ合う様子は、実際の関係とは乖離があった。
「撮影時はまだ良かったのかな」
懐かしさと後悔が入り混じる感情を抱きながら、健太郎は就寝のために歩き出した。廊下を通りかかった時、葵の部屋から聞こえる独り言が耳に入る。
「何か変...全部違う気がする...」
健太郎は足を止めた。娘の言葉が、自分の中の不安と共鳴するように思えた。だが、彼は娘の部屋のドアをノックすることなく、自分の寝室へと向かった。明日からまた、忙しい日々が始まる。
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