手のない時には端歩を突け
生姜焼き
第1話
店内は賑やかだった。
ジョッキがぶつかる音、弾んだ声が飛び交い、誰かが大笑いするたびに席のあちこちで笑いが連鎖していく。
酔いが回った人たちは、遠慮なく盛り上がっていた。肩を組んで歌ったり、何か威勢のいいことを言おうとして噛んでしまったが、それすらも面白がって笑い合う。
そんな様子を見ていると、不意に思う。
ああやって心の底からはしゃげたら、きっともっと楽しいんだろうなと。
こういう雰囲気は嫌いじゃない。だけど、輪の真ん中にはなれない。
手を叩いて笑う人たちの少し後ろで、ただその光景を味わう。
そういう距離感が、いつの間にか自分の「居場所」になっていた。
「誰や、こんなに頼んだやつ!」
テーブルの上に次々と運ばれてくる大皿を見て、三浦課長が叫んだ。
そこには、こんがり揚がった唐揚げが、山のように盛られていた。ざっと数えても、優に二十個は超えている。
「西山か?」
「えっ、僕じゃないです!」
急に名前を呼ばれて、びくっと肩が跳ねた。
心当たりがまったくなかっただけに、思わず声が裏返る。
「あ……すみません。僕です……」
申し訳なさそうに手を挙げたのは、営業部の後輩の加藤だった。
「唐揚げさっきも来とったじゃろ。なんでまたこんなに頼んだんや」
「すみません。美味しかったので5個だけ追加で注文したつもりだったんですが……」
一瞬沈黙の後、場は爆笑に包まれた。
「いや、誰が5個と5皿間違えるんや!」
「あんまり居酒屋の唐揚げってバラ売りしてないのよ!」
「やば、これ全部食べるの!?」
「どこの大食い大会や」
方々から飛び交うツッコミ、平謝りの加藤、唐揚げで埋め尽くされたテーブル。
そんな様子を見ていると、さすがに少し噴き出してしまった。
「……営業部の皆さんって面白いですね」
ふと、隣から声がして、肩がぴくりと動く。
「あ……高橋さん……」
「隣、いいですか?席取られちゃってて……」
「も、もちろんです」
マーケティング部の先輩の高橋佳奈さん。
派手な人ではないが、すれ違うたび目を引かれる人だ。
丁寧な会釈、品のある所作、その静かな雰囲気。
ただ隣に座られただけなのに、不思議な緊張が体に広がった。
「マーケティング部ではこういう飲み会はないんですか」
できるだけ自然体を装いながら尋ねてみる。
「たまにあります。でも、こんなに賑やかなのは久しぶりかもです。」
笑い声の渦に目を細めるようにして言ったその横顔は、どこか楽しそうで、少しだけ戸惑っているようにも見えた。
「営業部ってやっぱり飲めて、ナンボ、みたいな世界なんですか」
「まあ、そりゃあ飲めた方が楽ですよね。でも、僕はそんなに……」
正直、強くはない。けど、ここで「弱いです」と言うのも格好がつかない気がして、曖昧に笑う。
「そうなんですね。営業部って飲み会が多いイメージだから、てっきり西山さんも慣れてるのかと」
「いやいや、全然……。僕はこういう時も、わりと隅っこにいる方が多くて」
そう答えた瞬間、彼女の表情がほんの少しだけ明るくなったように感じた。
「私もです。飲み会自体は好きなんですけど、ああいうテンションに入っていくのはちょっと苦手で」
「あ、わかります。見てる分には楽しいけど、なんか自分があそこに混ざってはしゃぐのは出来そうにないなっていうか、一歩引いちゃうっていうか……」
彼女は「わかる」と小さく笑った。
「わかります。私も自分なりには楽しんでいるつもりなんですけどね」
「さっき隅っこが多いって言いましたけど、むしろ僕は好き好んで隅っこにいる気がします」
苦笑いしながらそう答えると、高橋さんは一瞬目を丸くして固まった。
けれど、それはすぐにふわりとした笑みに変わる。
「ふふ、私もです。……なんか、ちょっと安心しました」
彼女は少しだけ視線を落としながら、口元に穏やかな笑みを残す。
「こういう時、皆さんみたいに盛り上がれるのが普通なのかなって、ちょっと思ってたんです。でも、隅っこが落ち着く人もちゃんといるんだなって」
その言葉に、胸のあたりがふっと軽くなるのを感じた。
「僕もです。高橋さんみたいな人がいて、ちょっとほっとしました」
高橋さんはゆっくりと2回頷くと、不意にグラスを持ち上げた。
その動きに、なんとなくつられるように、俺もグラスに手を伸ばしていた。
「じゃあ、隅っこ同士ってことで、乾杯しましょうか」
「あ、はい……!」
慌ててグラスを持ち上げる。カラン、と氷が小さく鳴った。
向かい合ったグラスが小さく音を立てて重なり合う。
その瞬間、今日の景色が少しだけ、あたたかく変わった気がした。
——今日の飲み会、来てよかった。
そんなことを思いながら、グラスを口に運んだ。
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