第28話 フィジカルでギスギス展開を回避する

「みーきーさん! 進捗どうですか?」


 小道具製作班のところに、石田いしだ実咲みさきちゃん委員長学園祭実行委員が見回りにやってきた。クラス全体の進捗状況や、必要な備品を管理するのも委員長の仕事とのこと。誰か彼女に給料を支払って欲しい。


「いい感じです。さっきまた一つお墓が出来ました」

「なんで敬語?」


 なんか実行委員モードの委員長の絡み方が、前の世界の職場の上司と似ていて、条件反射で敬語になってしまう。ちなみに私はこのところ、放課後は委員長の補佐的な仕事をしている。「喫茶店」部分の言い出しっぺだったこともあり、自ら手を挙げたのだが、そのこともあって尚のこと委員長を「上司」として見てしまうようになっていた。


「あ、委員長さん。ポスカの黒だけ無くなりそう」


 とあおい。店内のコンセプトが「お化け屋敷」ということもあって、暗めの色の塗料だけ極端に減りが早い。


「黒のポスカね。あと水彩絵具は…… 大丈夫そうね。相川あいかわさんから小道具班の全体を通して何かある?」


 床に座って結愛ゆあ卒塔婆そとば作りを手伝っていた相川さんが、委員長に呼ばれて立つ。そして委員長の隣に来て小道具班のリーダーとして報告を行うのだが、この時の相川さんの立っている位置が良くなかった。


 相川さんの背後の机に置かれた、“絵の具が付いた筆を洗うあのバケツ”。筆洗ひっせん器って言うんだっけ? ともかく、机の上の“絵の具が付いた筆を洗うあのバケツ”に、相川さんの肘が触れたのだった。


 私にはその光景がスローモーションのように見えた。バケツの中には当然、絵の具がいっぱい溶け込んだ水が。そしてバケツが倒れる先には、床に座ってポスカでぬりぬりしている葵がいた。


 トロッコ問題。「放っておけば自然とそうなる」みたいな事象について、あるがままを受け入れるのか、介入するべきかを考える思考実験だ。


 私はなんとなく、一周目の世界の小道具班で何が起こったのか、分かった気がした。多分このままバケツが倒れて、葵が絵の具入りの水をかぶってしまうのだ。


 女の子が絵の具まみれになっているのは、実際に見るとかなり悲惨な絵面えづらだ。もちろん相川さんは謝ったと思うが、そこにいるのは派手な子グループの女子と、絵の具まみれでも怒ったりできないぼっちの女子。だから結愛が弱い立場の葵の側について、なにか厳しいことを言ったのだろう。


 でもこの班に私がいる二周目のこの世界では、そんなことにはならない。何故なら私はトロッコ問題で、ノータイムで分岐器レバーを切り替えるタイプの人間だからだ。


「ふんっ!」


 名作アメフト漫画『アイシールド21』によると、人の反応速度の限界は大体0.11秒らしい。だがこの時の私の反応速度は、明らかに0.11秒を超えていた、と思う。私は、今にも倒れようとするバケツを、神速の超反応でキャッチしていた。


 しかしバケツはキャッチしても、慣性で中の水はこぼれようとしている。だからこれは自分の体で受けた。汚れても良いように体操着を着ているから問題無い。下の葵が頭からかぶるよりは、遥かにマシだ。


「…… あっ! 源さん大丈夫!? ごめんなさい、私」


 しばしの沈黙があって、遅れて状況を理解した様子の相川さんが謝ってくる。なんとかバケツはキャッチ出来たけど、私の体操着のTシャツは、絵の具入りの水で汚れた部分がマーブル模様になっていた。


「全然大丈夫! それよりこれ、逆にちょっとお洒落じゃない?」


 私はTシャツのマーブル模様になった部分を、得意気に見せてみる。こういう時、ギャルに擬態していて良かったと思う。クラスでは大人しい感じのキャラの葵が汚れるより、ギャルのシャツがちょっと汚れた方が、絵面的に悲惨じゃない。すぐに明るいムードを取り戻すことが出来る。


「ちょっと。気を付けなよ」


 ところが、結愛がそう口にした瞬間、せっかく明るくなりそうだった空気が凍り付きそうになった。多分結愛としては「ちょっとw 気を付けなよw」みたいなノリだったと思うのだが、彼女の言葉からは圧倒的に“草”が欠けている。ただ、こっちも伊達に十何年も結愛の親友をやっている訳ではない。


「じゃあお詫びとして、一緒にジュースでも買いに行ってもらおうかな?」

「え? それくらいなら全然」


 明るい表情で結愛に便乗して、結愛の無表情の怖さを中和する作戦。結果、「全然大したこと無いよ」っていう空気を作り出すことが出来た。大事なのはテンポ感。少しでも間を空けると微妙な空気になってしまうが、結愛の親友としての長年の経験と、社会人だった頃の記憶で、体が勝手に反応するように「ギスギスさせない対応」を選ぶことが出来た。


「泉さんもごめんなさい。絵の具かかってない?」

「うん、大丈夫」


 相川さんが、危なかった葵にも謝る。葵が無事だったことが、何よりも私を安心させた。


…………

……


「私が奢るのに……」


 相川さんはそう言うけど、階段横のちょっとしたスペースにある自動販売機で、私と葵は各自で自分のジュースを買った。


「いや『一緒にジュースを買いに行こう』ってことだったじゃん」

「そうだっけ?」


 「誰もジュースを奢ってもらうなんて言ってないぜ」みたいに格好良く決めたかったが、そういった微妙な言い回しは、リアルだとあまり気付かれないんだなって思った。


「なんか源さんって、たまにすごい大人だよね」

「わかる」


 相川さんと葵がそんなことを言う。ただ私としては、自分のことをアラサーにしてはだいぶ子供っぽいと思っているので、いたたまれない気持ちになった。30歳になったらもっと大人になるものだと、私は思っていた。


「あ、ちなみに結愛様が好きなジュースはこれね。あいつと、あと橋本さんにも持って行ってあげてよ」

「ありがとう。本当にごめんね」

「大丈夫だって」


 私が二人分のジュースを買って渡すと、相川さんは教室に戻っていった。


 ふいに、葵と二人きりになる。この自動販売機スペースは教室から少し離れたところにあり、昼休み以外はほとんど人がこなかった。少しだけ聞こえてくる学園祭の準備に勤しむ生徒たちの喧騒を聞きながら、ここで葵とジュースを飲んでいると、なんだか心が安らいでいくのを感じた。未来のギスギスに怯えて、ずっと気を張っていたからかもしれない。


「あ、みーちゃん。腕に絵の具付いてる」


 見ると、さっきバケツからこぼれたのであろう絵の具で、腕の一部分が茶色に汚れていた。それを見て葵が、


「なんかチョコみたいだね」


 可愛いね。私はう○ちみたいだと思ったよ。


「えーチョコに見えるかなぁ? 舐める?」

「えぇ!?……うん」


 葵の小さな手が私の腕も持ち上げて……っていやいやいやいや。


「いやいや、冗談だよ?」

「え、あ! そうだよね!」


 あのまま放っておいたら本当に舐めたのだろうか。いやさすがに葵も冗談でやったはず。私がそんなことを考えていると葵は、


「あの、急に変なこと言うけど…… わたし、みーちゃんが、たまに未来から来た人なんじゃないかなって思うことがあって」


 ……ほう。続きを聞こう。葵が本当に「未来人だ!」って思ってる訳ではないことは、彼女の表情からなんとなく伝わってきた。


「なんかみーちゃんって、いつも周りに気を配ってるから。それがなんか、破滅を回避するためにタイムリープして来たみたいな、アニメの主人公っぽいなって」


 紙パックのジュースを持って、少し俯きながら葵は、


「みーちゃんってみんなに優しいよね」


 なんだろう、葵のこの感じ。一見、独占欲が強い恋人が言うような「みんなに優しくしないで!」みたいな意味に捉えられなくもないが、ちょっと違う気がする。嫉妬心って言えるほど強い感情でもなくて、ただの感想に近い。でも葵は、私のそういうところを、どちらかと言えばあまり良いとも思っていないような。


「あ、ごめん……わたし、何言ってるんだろう。あの、今のは違くて!」


 言ってから葵は、自分が結構恥ずかしいことを口にしてしまったことに気が付いたのだろう。確かに、こんななんでもない時に友達に言う台詞としては、センチメンタルが過剰かもしれない。でも私はそんな葵の腕を掴んで、


「わかった、じゃあこれからは葵にだけ優しくする」


 オタクに優しいギャルって、結局はみんなに優しいギャル定期…… みたいなことをよく耳にする。でもこれは大きな間違いだ。例えばそのギャルがオタクくんのことを好きなら、オタクくんにだけ特別優しいギャルは成立するのだ。


 性欲を伴う恋愛感情じゃないけれど、私は葵のことが好きだ。だから私は、葵にとってのオタクに優しいギャルになれると思う。でも……、


「ううん…… みーちゃんは、みんなに優しいみーちゃんがいい」

「わかった。じゃあ私は、みんなにも優しくする」

 

 多分葵も本当に「自分にだけ優しくして!」なんて望んでいる訳じゃなくて、なんかちょっと口をついて出ちゃっただけなんだと思う。このところ学園祭の準備が忙しくて、この前家に呼んで以降、あまり葵に構ってあげられなかったからかも。嫉妬心とかじゃなくて、なんとなく放っておかれるともやもやする気持ちは、ちょっと分かる気もする。


 しかしまさか葵がこんなことを言うとは。一周目の世界では考えられなかったことだ。


 なんだか私はこの二周目の世界で、葵を歪めている気がする。前の世界の葵を知っているから、そんな錯覚に陥る。本当だったら葵は、今も一人で教室でラノベを読んでいるような女の子だったはずだ。でもこの世界の、こんなに寂しがり屋な感じのことを言う葵は、一人の学校生活に耐えられるのだろうか。


 未来から来て、葵の深いところに手を突っ込んで、変容させてしまっている。そう考えると、不思議と私は心が踊った。私はトロッコのレバーを切り替えるタイプだから。

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