第10話

春の終わり、風がゆるむ午後。

桐谷は、古びた駅前の喫茶店にいた。

ここは、和樹がかつて「本当のことが話せる場所だ」と言っていた、図書館の近くの小さな店だった。


入口のベルが鳴る。

振り返ると、一回り背が伸びた少年が立っていた。

和樹だった。

ランドセルではなく、今は肩掛けの布バッグ。

シャツの袖をまくって、少しだけ笑った。


「お久しぶりです、先生。」


桐谷は立ち上がって、静かに頷いた。

「君の物語、読んだよ。」

「読んだじゃなくて―感じましたって言ってくれた方が嬉しいです。」


そう言って和樹は席に着いた。

2人はしばらく言葉を交わさず、テーブルの間にコーヒーの香りが漂ってきた。

やがて、桐谷が聞いた。


「・・・バイキンマンは、これからも悪として描かれ続けるのかな?」

和樹は少し考えてから、答えた。


「描かれ続けてもいいと思うんです。」

「でも、”別の視点がある”って知ってる人が一人でも増えたなら―バイキンマンは、もう少し自由になれる。」


それはまるで、彼自身のことを語っているようだった。


「君はこれからどうするんだ?」

「また、物語を書きます。。名前のないままで。誰かの声が、誰かの中で目を覚ますように。」


和樹はそう言って、そっと立ち上がった。

外は少しだけ、春のにおいがした。


「じゃあ、またどこかで。例えば、本の中で。」

「・・・ああ。必ず見つけるよ。」


そう言って別れた後、桐谷はカップの縁に残ったぬくもりに指を添えた。

そして、思った。


―語られなかった物語は消えるんじゃない。誰かの中で、静かに待っているだけなんだ。


おわり



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正義とは何か @ayumix

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