正義とは何か

@ayumix

第1話

桐谷正樹は、大学の非常勤講義を終えると、毎週決まって図書館の奥にある閲覧席に向かうのが習慣だった。

哲学と社会学を教えているが、近頃は学生たちの反応も薄く、講義中の彼自身の声すら、どこか遠くの誰かの話のように感じることもある。彼にとって図書館は、唯一時間の流れが均質で、思考が静かに呼吸できる場所だった。

その日も彼は、いつものように薄暗い閲覧席に腰を下ろし、『正義論』のページを静かにめくっていた。そこに、ほんのかすかな気配が差し込んだ。


「それ、面白い本ですか?」


声の主に気づくまで、少し時間がかかった。子供の声だった。顔を上げると、眼鏡をかけた小柄な男の子が、斜め向かいの席に座っていた。年のころは10歳前後か。ランドセルの代わりに小さなショルダーバックを肩にかけている。


「・・・。ああ、面白いと言えば面白い、かな。君、ここにいて大丈夫なのかい?」


「職員の人には許可をもらいました。読書が好きなので。ここは静かで集中できます。」


礼儀正しいが、どこか妙に大人びた口調だった。桐谷は内心、苦笑した。この年でロールズを読む老人のような子供に声を掛けられるとは。


「本を読むのが好きなんだね。」


「ええ。特に正義とか、善悪について、興味があります。」


子供の興味とは思えない答えに、桐谷は少しだけ姿勢を正した。こういう子供には、表面的なやり取りよりも、こちらが真剣になる方が良い。


「それなら、君にとって正義の味方って誰かな?」


そう訊いた時、少年は一拍おいて、意外な名を口にした。


「アンパンマンです。」


やはり。と桐谷は思った。だが、次の瞬間、少年が発した言葉に、手に持った本を思わず閉じてしまった。


「でも、あれは本当は悪だと思います。」


「・・・悪?」


少年は頷き、椅子にちょこんと座った。光の加減で、彼の眼鏡の奥の目がわずかに光った気がした。


「アンパンマンは、自分の顔をちぎって、空腹の人に食べさせるでしょう。でも、それは恩を与えることでもある。恩を与えることで、人々は彼を崇拝するようになる。誰かを助けるふりをして、心を支配しているのです。」


静かに語るその口調に、桐谷は背筋が冷えるのを感じた。目の前の少年が語っているのは、ただのアニメの話ではない。そこには明らかに、何かもっと深い構造を見ている者の視点があった。


―この子は一体何者なのか?

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