三章 ハザードバス

「本日も城ヶ内タウンバスをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。次は、城ヶ内公園前。城ヶ内公園前」

 昼下がりのバス車内は、まばらに人が散っていて両手で数えられるほどしか乗っていない。それが平日ともなると、見慣れた客しか乗せることはなく、大体は決まったバス停で乗り降りが発生する。しかし、いつ何時でもイレギュラーというのは発生するもので、ほとんど乗り降りが発生しないバス停に、立ち尽くしている人影が三つ見えた。

 バスを停車させ扉を開くと、小さい女の子と男性が手を繋いで乗車してきた。

「いずみ、今日もプリン持って行ってやろうな」

「うん。でも、やまとも気を付けてね」

 何やらいずみと呼ばれている女の子は元気がない様子で、やまとという男性が慰めているのである。最近は子供が事件や事故に巻き込まれるニュースもあるし、娘が産まれてからは特に子供の暗い顔を見るのは気分が悪くなるのだ。俺はちょっとでも元気が出ればと思い、いずみに話しかけてみる。

「お嬢ちゃん。ほら、飴ちゃんあげるよ」

 いずみは少し驚きながらも、礼儀正しくお礼を言って席に座ってしまった。

少し時間を取ってしまい、急いで出発しようとしたが、バス停にいた筈のもう一人がなかなか乗り込んでこない。道もそれほど広いわけではなく、あまり長居することも出来ない為、一言声を掛けてから扉を閉めることにした

「お客さん、もう出発しますよ」

そう声を掛けた時、霊感がないと話題になっている、片名という新人詐欺霊能者が下車しようとする。マスコミから逃げる為に引っ越してきたのか、最近はよくこのバスを利用している。俺は常連というよしみもあり、少しだけエールを送ることにした。

「最近はいろんなところに取り上げられていて大変ですね。いろいろあると思いますけど、頑張ってください」

「あぁ、どうも。ありがとうございます」

有名人が乗車していたことに気を取られていると、目出し帽を被った男が片名を押しのけて車内に飛び込んできた。

「ちょっと、他のお客さんもいますし、駆け込み乗車は危険なのでおやめください」

 厳しい口調で咎めると、男は突然ナイフを突き立ててきた。

「おい、そこのお前。席に戻れ」

 片名はすぐに状況を察知して、地面につけた片足を再度バスの床に戻す。それを確認した男は、俺に指示を出してきた。

「出せ。変なことするなよ、お前は黙ってバスを走らせてればいい」

 突然の事で何が起きたのか飲み込めずに固まっていると、男は怒声を上げる。

「早く出せよ、刺しちまうぞ!」

 どこかで聞いたことがある声だが、男の気迫に押されてそんなことを気にしている余裕などない。急いでバスを発車させると、男は乗客の方へ向き直り、携帯電話を出すように指示した。

「スムーズに回収できるように全員先に出しとけよ。隠しても無駄だぞ、どうせ人数も多くない、体中探すことも出来る。大人しく出しておいた方が身のためだぞ」

 目出し帽に携帯電話の回収と、かなり計画的なバスジャックだ。男は最初に俺に携帯電話を出すように言う。

「規則で持ち込みは禁止されているので、持ってないです」

 そう言うと、男は俺の首元にナイフを突き立てた。

「嘘言うんじゃねぇ! お前が携帯を持ち込んでるのは知ってるんだ。とっととしないとほんとに刺しちまうぞ!」

 図星を突かれた俺は、それ以上無駄な抵抗はせず、大人しく携帯を男に渡す。でも、なぜこの男は俺が携帯を持ち込んでいると知っていたのだろうか。そんなことを考えつつも、俺は男が乗客の携帯回収を始めるタイミングで、行き先表示機にSOS表記を出そうと手を伸ばす。

「おい、岩本。間違えても変なことするなよ。乗客の命がどうなってもいいのか」

名前を呼ばれ、バックミラー越しに目が合い、何をしようとしていたかも言い当てられた。嫌な汗が全身から吹き出し、機械に伸ばした手を反射的に引っ込める。

男は再び車両の後部へと歩みを進め、携帯電話の回収を再開する。奴はいったい何者なのか、今の一瞬でそれに頭の中を支配され、他の事は一切考えられなくなってしまった。


 男は携帯電話が入っている袋を下車扉の前に放り投げ、再び客席の方へと歩みを進めようとする。そのとき俺の頭には、一人の人物が浮かんでいた。

 永松。

 下の名前は忘れたが、交通事故を起こして最近会社をクビになった男だ。永松はとても勤勉で、運転手の仕事を気に入っていた。いつでも利用者の安全を第一に考えており、仕事仲間から信頼はされていたものの、その熱意から気味悪がられるほどだった。そこまで仕事に熱心になれない俺の事を嫌っていて、何度か休憩室で愚痴られているのを耳にしたこともある。最低限の仕事はするし、特に波風立てない俺の事を嫌っているのは、永松くらいだ。

まだ確証は得られていないが、このまま黙っていても状況が勝手に好転してくれることはない。いつまでも様子を窺ってもいられないと思った俺は、落ち着かせるために話をすることにした。

「お前、永松か?」

 名前を呼ばれ、男は驚いた様子で振り返る。

「さすがのお前でも気が付いたか。まあ、気付かないほうがおかしいか」

 永松はそう言うと、被っていた目出し帽を脱いで素顔を晒すと、車両後部から驚愕の声が二つ上がる。

「運転手さん!?」

「お前は、花の!」

 片名とやまとだった。片名は目を見開いて席から立ち上がり、ゆっくりと永松に近づく。やまとは対照的に、女児を抱きしめ永松を睨みつける。

「なんで運転手さんがバスジャックなんてしているんですか?」

 片名とやまとの顔を確認した永松は、急いで脱いだばかりの目出し帽を被り直し、を振り回す。

「近づくな! 仕方ないだろ、こうでもしないと、もう俺の居場所はどこにもないんだ!」

 永松に歩み寄っていた片名は足を止め、永松の言動に驚きを隠せない様子だ。戸惑っている片名の後ろから、永松とは別の怒号が飛んできた。

「花を殺したくせによくそんなことが言えるな!」

 声の主は、いずみを抱きしめているやまとだった。花を殺した? 俺は話がイマイチ理解できなかったが、とにかく、やまとと永松は同じ空間に居たらまずい、ということだけは理解できた。

「殺したんじゃない! あれは、あの子が突然飛び出してきて……」

 永松は自分が今バスジャックしていることを忘れてしまったかのように、その場に立ち尽くして、当時の情景を思い出すようにしながら話している。その話を遮り、やまとが震える声で威嚇するように言った。

「なんで二度もお前に子供を殺されなきゃならないんだ! 降ろしてくれ、あんたの顔なんて見たくないんだ!」

 やまとの言葉を聞いてから、永松はまるで魂を抜かれたようにピタリと止まってしまった。それを見て乗客が口々に心配の声を漏らすと、何かに取り憑かれたように突然ナイフを振り回し始める。

「降ろさない降ろさない! 絶対にバスは止めない!」

 無暗やたらにを振り回す永松に、乗客は悲鳴を上げ、片名を盾のように先頭に置いた。

「ちょっと、あなた霊能者なんでしょ。あの人どうにかしてよ!」

「いやいや、俺霊能者ね。生身の人間とかどうしようもないから!」

 片名を先頭に、乗客はバス後方でひとまとまりになり、防御の陣形を固めている。しかし、永松はそれに近づく様子はなく、誰もいなくなったバスの真ん中でナイフを振り回しているだけだった。しばらくすると体力が尽きたのか、永松は動きを止めて膝に手を付いた。ようやく落ち着いた。俺は一人蚊帳の外だったが、乗客と一緒に肩の力を抜く。しかし、たった一人だけ、永松の隙を逃すまいと近づく人物がいた。そのやまとの動きに永松が気付き、すぐにナイフを向ける。

「お前のせいで花は」

 やまとは獲物を狙う肉食獣のような目で永松を睨む。対する永松は、ナイフを持っているというのに獲物のように怯えてしまっている。

「違うんだ。ちゃんと安全確認はしてたし、轢いた感触を覚えてからすぐにバスを停車させた。救急車も呼んだし、出来る限りの事はしたんだ。申し訳ないと思ってるよ」

 永松のそのセリフを聞いて、俺はようやくその事故を思い出した。

『子役の少女がバスに撥ねられ死亡』

 大見出しに惹かれて目を通してみたが、バス側に不手際はなく、少女の飛び出しと分かり、それ以外は特筆する点もなかった為すぐにページを捲ってしまったのだ。

「あれ、永松だったのか」

 俺は自分の同僚が事故を起こしたのにも関わらず、今日になるまでその事実を知らなかった。社内でもあまりすすんで話される話題ではなかったし、まさかよりにもよって永松がとは考えもしなかった。霊媒師はそんな俺と、全く同じ反応をしていた。

「え、あれ、運転手さんだったのか」

「そうだ。本当に当たり屋に遭遇したみたいなものだったんだ。周りにいた人たちも、少女が道路に飛び出すのを見ていたから、状況からして自殺で間違いない。こればかりはどうすることも出来ないからと、俺は特にお咎めなしだった」

「花が自殺する訳ないよ!」

 名前を呼んではいるが、今度はやまとではなく、いずみだった。

「違うんだ。ただ、避けれなくて」

 永松はただ力なく呟くだけだったが、それに反していずみは力強く言った。

「自殺なんてしない。だって、まだプリン返してなかったもん」

やまとは悔しげな表情をして、いずみを抱きしめる。しばらく沈黙が続き、それを破ったのは永松だった。

「あの子の顔が忘れられないんだ。ぶつかる瞬間に、あの子、俺の目を見てたんだ。あれから何も手に付かなくなった。仕事中でもあの子の顔が浮かんできて、まともに仕事なんて出来ない」

 俺は永松の話を聞き、汗のせいで滑りが良くなった手で、再度ハンドルをしっかりと握り直す。同じ運転手として、その光景を想像してしまえば、運転から意識を逸らすことなどもうできない。

「それだけでも辛かったのに、数日経ってから局長にクビを宣告されたんだ」

 永松は力なく話し続ける。

「勿論処分がないと思ってたわけじゃない。でも自殺だったし、周りも慰めてくれてた。局長だって最初は労ってくれてたんだ。なのにあいつ、轢いてしまったが子役で、世間からの声が怖いからって理由で俺の事をクビにしやがった」

 落ち着いた様子で話していたかと思うと、いきなり俺の方を見てナイフを向け、怒鳴り声をあげた。

「最初は会社だけに復讐してやろうと思ってたんだ。また俺と同じような事故が起きれば、飛び込みじゃなく運転手の不注意だったら、今度こそ会社の信頼は地に落ちる。局長もただじゃすまない。ターゲット選びは簡単だったよ。誰がどの時間帯に、どの路線を走っているかなんて分かっているからな。それでお前だよ、岩本。会社に復讐するついでに、不真面目で適当に仕事をしているお前に、俺と同じ気持ちを味わわせてやるんだ!」

 永松は振り返り、一番近くにいた霊能者を捕まえて首元にナイフを突き立てる。

「おい、国道に出ろ。出たら速度を落とすなよ。この時間帯なら人が多いはずだから、すぐに終わる」

 永松は俺に、会社への復讐として人を轢かせるつもりらしい。そうと分かっていても、乗客が人質に取られている今、何も抵抗しようがない。だが、国道に出てしまえば、人を轢いてしまうのは時間の問題だ。

「運転手さん、こんなことやめましょうよ! 前はすごい優しかったじゃないですか。あの日、運転手さんが轢いちゃった女の子と、俺同じ番組に出てたんですよ! テレビなんて初めてだから緊張してたけど、あの一言のおかげでめっちゃ肩の力抜いて出来たんですよ!」

 片名の言葉に反応して、やまとが目を見開いた。永松も驚いた様子で、片名を捕まえる力が緩む。その隙に永松の拘束から抜け、ナイフを取り上げようと掴み合いになる。

 かなり危険な状況に他の乗客も割って入ることが出来ず、緊張した面持ちでそれをただ眺めているだけだった。しかし、一人だけその掴み合いに飛び込んでいくものがいた。やまとだ。

 やまとは永松を背中から取り押さえ、何とか動きを封じるが、片名はなかなかナイフを取り上げられずにいる。

「離してください! もうこんなことやめましょう!」

 やまとが参戦したことで、二対一の乱闘になり、誰が怪我をしてもおかしくない状態だった。他の乗客に囲まれているいずみは、心配そうにその様子を見守っている。早くナイフを取り上げてくれ。俺はそうして願うことしかできずにいると、暗い道を灯すように、外部への連絡手段を思いついた。

 どんな車両にもついている、危険を外部に知らせるための機能。バスという特殊な乗り物に乗っていると、咄嗟にマニュアル通りの対処を意識してしまう。そのせいで見逃していたのだ。

 バックミラーで永松が片名たちに気を取られているのを確認して、ハザードランプのボタンを押す。

 俺は一仕事やり終えた気でいたが、まだ永松からはナイフを奪えていない状況だった。そうしてバックミラーにばかり気を取られていたせいで、目の前の信号が赤に変わっていることを見落としてしまっていた。急ブレーキをかけると、掴み合いをしていた三人は勢いに耐えられず床に倒れ、後方にいる乗客は悲鳴を上げた。慌てて乗客の安全確認と謝罪をする。

 掴み合いをしていた三人を見ると、片名だけがすぐに動き出した。しばらくして永松も体を起こしたが、その手はやまとの腹に伸びている。そして、やまとだけは一向に体を起こそうとしない。

 永松はやまとに伸びていた手を見て、それから血に染まったナイフを落とした。

 俺に遅れてその様子に気付いた片名が近寄ると、顔を真っ青にして呟いた。

「やばい。刺さってる」

 その言葉を聞いた瞬間、俺がその状況を理解するよりも先に、いずみが泣き叫びながらやまとに駆け寄る。

 俺はゆっくりとハンドルに頭を乗せ、一瞬でも安心した自分を恨んだ。片名はそれ以上何も喋れない様子で、他の乗客も黙ってその惨状を見守っていた。すると、見守られているやまとがいずみの手を握り、しんどそうに喋り始める。

「いずみ。花は自殺だったんだ」

 泣きじゃくるいずみには、その言葉など聞こえていないようだったが、それでもやまとは喋り続ける。

「花は自殺だった。子役をしていた花は、心霊番組の呪われた少女役で出演して、それがヤラセだってバレて、子供なのに散々ネットで叩かれたんだ。それに耐えきれなかった花は、あの日、黙って俺たちの前から姿を消して、バスに飛び込んだ」

 やまとはいずみから、項垂れている永松に視線を移し、体を起こして言った。

「ごめんな、永松さん。でも、あんたが花を轢いたのと、俺の事を刺したのは事実だ」

 力なく跪いていた永松は、その言葉を聞くと、ナイフを拾い上げて振り回し始める。

「自殺だったんじゃないか! 俺じゃない、俺は被害者だ!」

 そうして半狂乱で暴れる永松の前に、片名がいずみとやまとを守るようにして割って入る。

「あれは、俺の責任でもあるんだ」

 片名は背後にいるいずみを一瞥してから、永松に向き直る。

「俺がすんなり諦めて年長者の二人に任せたら、もっと上手くやってくれてたかもしれなかったのに。あの時はヤラセって分かって、調子に乗っちゃったんだよ!」

 永松は片名の話を聞いている間も、ずっとナイフを向けていた。俺はバスを完全に停車させ、永松を説得することにする。

「永松。もうこんなことやめにしないか」

 俺の発言に永松は上手く釣られてくれて、こちらに振り向いた。

「会社への復讐と言ったって、上手くいっても局長が変わるだけで、お前への処分が覆ることもないし、お前が好きだった運転手の仕事に戻れるわけじゃない。罪を犯す前に別のバス会社へ行けば、また雇ってもらえるかもしれないだろう」

 永松は俺の説得に耳を貸してくれているようだった。俯いて話を聞いていた永松は、顔を上げて話し始める。

「俺も同じようなものだった。いじめを受けて引き篭もってたんだ。最初の一年だけ高校に通って、それ以降はもう無理だった。両親とも話し合って、しばらくは何もせずに家に置いてくれることになったんだ。でもな、人間って言うのは一度怠惰に溺れると、そこから抜け出すのが難しくて仕方がなくなる。そのまま俺は十九まで惰性を貪った」

 同じ職場で働いていたが、関りがなくてそんなこと知らなかった。身の上話と聞いていたから、俺の知らない話をされるのは分かり切っていたが、少女と永松の境遇が似ていることに驚いた。境遇の似た者を轢いてしまうのは、普通の人を轢いてしまうよりも心に大きな傷をつけたことだろう。

「そんな俺を見かねて、役所で働いていた母さんが、俺のために仕事を持ってきてくれたんだ。それが、バスの運転手だった。運転免許さえ持っていれば、学歴は不問で雇ってくれるってことで、高校中退の俺でも採用された。最も、母さんが普段から真面目に働いてくれていたおかげが大きいことは、重々承知だがな」

 さっきまで永松を恐怖の目で見ていた乗客も、少しだけ同情をその目に宿している。

「母さんが持ってきてくれた仕事で、ヘマをするわけにはいかない。まあ、一番は嬉しかったんだ。いじめられている時は自分が惨めで仕方なかったのに、バスの運転手として働きだした途端、乗客たちは『若いのに偉いね』と言って褒めてくれた。真面目に働けば、その分だけ先輩や同僚から凄いと褒められた。それが嬉しかったんだ」

 ようやくなぜ永松がそこまでして、運転手の仕事を好んでいたのか理解できた。そのような経験がない俺には、きっと気持ちは理解できないのだろう。

「高校も卒業できなかった俺でも、ちゃんと受け入れてくれる場所があるって、ここが俺の居場所だって確信した。だから今まで真面目に勤め上げることが出来たんだ。俺は、ここにしか居場所がないんだよ」

 べそをかく子供のように、永松は鼻をすすりながら話す。そして、ようやくナイフを持っている手から力を抜いた。

 バス車内が安堵に包まれる。永松の戦意を喪失させることに成功した。説得が成功したのだ。片名は悔しそうにいずみとやまとを見て、すぐに車外に連れ出せるよう、他の乗客に協力を仰いだ。俺の肩の荷も下りたというものだ。

 ようやく一件落着だ。俺は体の至る所から汗が滲み出ていた。こめかみから雫が制服に落ち、くっきりとその後を残している。

 救急車を呼ぶために、乗車扉に置かれた袋から携帯電話を取り出そうとしたとき、背後からサイレンと共に一台のパトカーが姿を現した。それを確認した永松は、血相を変えて声を荒げた。

「なんで警察が来たんだ、どういうことだ岩本!」

 しくじった。ハザードランプの異常に気が付いた警察が駆け付けたのだ。

『前のバス、問題がないのなら、ハザードランプを消して、走行を続けてください。その状態では交通の妨げになります』

「ハザードを焚いてたのか!」

 永松の消えかけた火に油を注いでしまった。否、今回はガソリンだ。消えかけていた筈の炎は、瞬く間に簡単には消せない火柱となる。気力を無くしたはずの永松は、再びその手にナイフを握りしめていた。

「岩本、最初からこうするつもりだったんだな。少しは根性のあるやつだと思って見直した俺が馬鹿だった! この卑怯者!」

 返す言葉も見当たらない。念の為と思い、軽い気持ちで押してしまったハザードは、取り返しのつかない結果へと導いてくれた。

「待て永松。誤解だ。ハザードを切り忘れてたんだ、今ならまだ誤魔化しが効く、見逃してもらえるはずだ。そこまで興奮する必要はないだろう」

「そんな言い訳がまかり通ると思うな! そうして止まれば、警察に俺を引き渡すつもりだろう。そうだな、卑怯なお前が考えそうな手だ!」

 もうダメだ。俺は永松にとって敵になってしまった。もう俺が何と言おうが、それはただの言い訳でしかなく、永松の耳に届くことは決してない。

「頼む永松、落ち着いてくれ、本当にお前を警察に突き出す気なんてなかったんだ」

 もう俺の声は永松に届かない。そう分かっていても、弁明せずにはいられなかった。バックミラー越しに永松を見ていると、視界の端に片名が映り込んでいる。

 片名と乗客は、いずみとやまとを降車扉付近まで運んでいた。警察車両が停車するよりも前に、片名は意味の分からない言葉を呟き、変な動きをし始めた。

「#“‘()$’‘&!%”$%#!」

 突然の片名の行動に、永松は気を取られる。

「何してるんだ、大人しくしろ!」

 怒鳴りつけられても、片名はその動きを止めない。完全に永松の視線が片名に引き付けられている。

 俺はすぐに運転席から立ち上がり、永松に飛び蹴りをおみまいしてやった。永松は俺の蹴りで客席の近くに吹き飛び、ナイフも手放した。それを見た片名と乗客たちは、すぐに永松に飛び掛かり、動きを封じてしまう。今度はナイフも持っていない為、安心して見ていられる。

 そこで、警察官が遅れてバスの扉を叩く。

『大丈夫ですか、すぐに扉を開けてください!』

 前後の扉の前に一人ずつ警官が立ち、強く叩いて大声で叫んでいる。後方の警察官は折り重なっている乗客と、刺されているやまとを見たからか、とても焦っている様子だ。

 俺は急いで運転席に戻り、扉の開閉ボタンを押す。扉が開いた瞬間、二人の警察官が慌てて車内に飛び込んできて、重なっている乗客を一人一人剝がしていく。

「一体何があったんですか!」

 俺は警察官に説明する前に、急いで救急車を呼んだ。


 警察官に事情を説明する前に、乗客の下に埋もれていた永松が見つかり、その手に血がベッタリとついていたことから、あっけなく捕まってしまった。

 救急車もすぐに到着し、いずみとやまとを乗せて近くの病院に行ってしまった。

 乗客の事情聴取はその場で簡単に行われ、一件落着方と思っていたが、運転手の俺は細かく当時の状況を聞かれるらしい。一人では上手く説明しきれるか不安だった為、片名を捕まえて一緒に事情聴取を受けることにした。


 あれから数日が経った。やまとが無事だったという知らせは、いずみがお見舞いにバスを利用するついでに教えてくれた。永松の事情や花の自殺など、辛い事実を知ったいずみはしばらく事件の事は考えたくないと言っていた。あの子にとって今回の事件で唯一救いだったのは、まだやまとが生きている事だけかもしれない。

 片名は乗客の前に立つなど勇敢な姿を見せたおかげで、擁護派が現れ話題は一旦収まったのだそう。しかし、今回の事件の発端となった責任を感じているらしく、詐欺霊媒師商法は止めて、真っ当に働くため就活中らしいが、なかなか上手くいっていないそうだ。霊媒師をしていて獲得したスキルが、永松の気を引いたあの踊りしかないと愚痴っていた。


職場に復帰すると、普段はあまり関わらない同僚たちが一気に俺の事を囲み、事の顛末を訪ねてくる。そうして俺の周りに集まった奴らは、この前までの俺と同じように、永松の件の詳細を知らない奴ばかりだ。

 逆を言うと、永松の事をよく知っている者たちは、俺に冷たい視線を投げかけている。一言一句、失言がないかどうかを監視されているような気分だ。

「ああ、大変だったよ。まあでも、いい経験になったかな」

 勤勉な永松に味方が多いのは頷ける。そして、ひょうひょうとしている俺に味方が少ないのも頷ける。やはり世の中で生きて行くには、敵を作らないよりも、味方を作った方がいいのかもしれない。

 そんなしょうもないことを考えて、今日もハンドルを握る。


「本日も城ヶ内タウンバスをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。次は、城ヶ内市役所。城ヶ内市役所」

 昼下がりのバス車内は、まばらに人が散っていて両手で数えられるほどしか乗っていない。あんな事件が起きても、世界は当たり前のように平常運転を続けているのだ。

見慣れた客の姿はほとんどなく、少し寂しい気持ちになりながらも、ハンドルに狂いが無いよう慎重に運転する。いつ何時でも、イレギュラーというものは発生するもので、普段はほとんど人の乗り降りがないバス停に、立ち尽くしている人影が二つ見えた。

 バスを停車させ扉を開くと、主婦と思しき女性と共に、幼い女の子が元気よく飛び乗って来た。

「こら、危ないでしょ。こっちおいで」

『扉が閉まります。ご注意ください』

 車内アナウンスを流し、扉を閉める。今回は駆け込み乗車をしてくる男の姿はなかった。車両中央部では、先程乗り込んできた親子が楽しげに会話をしている。きっと永松は、こんな景色を見てやりがいを感じていたのだろう。

 意地を張るように固めた意志は、いまだに解けず心に残っている。俺の運転するバスは、今日も市民の日常を乗せて安全に運行中だ。

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ハザードバス 仁子伊里 @niko_nikoiri

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