始末屋

utah.

ep.1 始末屋の一撃

ノーグリッドの朝は、今日も灰色に濁っていた。


霧が濃い。

港の潮風が、街の隅々に湿気を運び、古びた建物の壁に薄く滲みをつくっている。


誰も大声を出さず、車のクラクションすら控えめに聞こえる町だ。


そんな静かな街並みの中で、時任廉は一人、屋上に伏せ、準備を進めていた。

手馴れた手つきで、スナイパーライフルのボルトを引き、装填を確認する。


銃の脇には、真鍮色に鈍く光る細い鍵──レヴナキーがセットされていた。


深呼吸一つ。


顔を上げ、廉はスコープを覗き込む。


遠く、住宅地の一角。


二階建ての一軒家のベランダに、今日の標的が姿を現す。


──最初の敵は、家族の父に扮したナリカワリ。

ステージ2後半。

まだ完全には成り代わっていないが、放置すればすぐにでも人間と区別がつかなくなる。


廉は、改めて目を凝らす。


男は、一見すれば普通の父親にしか見えない。


部屋着のまま、コーヒーカップを持ってベランダに出て、家族に向かって穏やかに笑っている。



──だが。


張り付いたような笑顔。頬の動きに、わずかな齟齬。

なにより、肩に黒く澱んだ影のようなものが、吸い付くように存在している。

普通の人間には見えないそれを、廉だけがはっきりと視認できている。


間違いない。あれはナリカワリだ。


2日前の出来事を、廉は思い出していた。


その日も、廉は「双樹堂」でコーヒーを飲んでいた。

ネルドリップで丁寧に淹れられた一杯。酸味とコクのバランスが心地よく、彼の日常の一部になっている。


カウンターに座る彼の前に、戸隠重人が静かに封筒を置いた。

何も言わず、ただ軽く頷く。


それが、依頼の合図だった。


封筒には、

──写真一枚。

──簡単なメモ書き。

──そして、一片のレヴナキー。

メモには、簡潔な指示があった。


『対象:斉藤家の父親。真蔵。

表面上の変化なし。ただし笑顔に違和感。

肩に黒い澱みを確認。ステージ2後半。』


それだけ。

だが、廉には十分だった。


コーヒーを飲み干し、封筒を胸ポケットに仕舞い、店を出た。


任務の準備は、日常の延長線上にある。

南西から吹き込む潮風が、廉の頬を撫でる。


空はまだ曇天。太陽は雲に隠れ、光は街に柔らかな陰を落としている。

スコープ越しの男は、子どもの頭を撫でようとしていた。


優しげな仕草。だが、そこにもわずかな不自然さがある。


ほんの少し、指の動きがぎこちない。


人間が無意識に行う柔らかな動作を、ナリカワリは完璧には再現できない。

それが、ステージ2後半の特徴だ。


廉は深く息を吸った。


呼吸を整える。

吸って、吐く。


心臓の鼓動を意識する。

トリガーに指をかける。


冷たい金属の感触が、指先に伝わる。

この瞬間、廉の世界には一切の雑音がなかった。


聞こえるのは、自分の鼓動だけ。


スコープの先、男の眉間に小さな焦点が結ばれる。

……静かだった。


まるで時間が止まったかのように、世界が凍りついていた。

潮風も、霧も、街の喧騒も、全てが遠ざかる。


ただ、廉と、標的と、引き金だけが存在していた。


鼓動と息が重なる、その瞬間──。




廉は、静かに、引き金を絞り始めた。




(第一話・了)

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