夢骸のレクヴァリア

由佐水月

第1話 力無き者

ユメクイ――突如として現れた、人類の天敵。

その牙は肉を裂き、爪は骨を砕き、命を喰らう。


だが、それで終わりではなかった。

喰われた者は“死ぬ”ことなく、ノクシス・レム――通称レムウイルスに感染する。

感染者は数日のうちに「同じ化け物」と化し、再び人を襲う。


喰らい、喰われ、感染させ、増殖する――終わりなき連鎖。

人類は、悪夢の渦に呑まれた。


都市は崩壊し、国家は機能を失い、人々は避難所に押し込められた。

地平を覆う叫びと血の海。

子どもが泣き、母が叫び、兵士は絶望に膝をつく。

テレビもラジオも、ある日突然、何も伝えなくなった。


全ての元凶、―“ナイトメア”。

ユメクイの頂点に君臨する存在にして、悪夢の核。


人類は滅びかけた。

だが、抗う者たちが現れた。


《ガーディアンズ》。

彼らは、ユメクイの血液中にごく微量存在する、抗ウイルス因子――レクヴァリアを発見する。

それは、唯一ユメクイに抗うための鍵だった。


命を削る覚悟と引き換えに、彼らはその因子を自らの肉体に宿し、命を削りながら“悪夢”に立ち向かった。

血を吐き、肉を裂き、仲間の死体を越えて。


そして――幾多の死闘の果て、彼らは遂に、ナイトメアを“封印”することに成功した。


だが、それはほとんど全てを失った末の奇跡だった。

ガーディアンズの多くは帰らず、残されたのは、廃墟となった都市と、焼け爛れた空だけだった。


それから数年。

世界に平穏が訪れ、人類は希望を取り戻したかに見えた。


だが――


悪夢は終わっていなかった。


ナイトメア封印から十年。

再び、ユメクイが現れた。

今度は都市の中に。避難区域の真下に。


政府は非常事態宣言を発令。

そして、新たな訓練機構を創設した。


その名は――《レグナアーク》。

若者たちにユメクイの血を打ち込み、レクヴァリア因子を覚醒させる。

命を削り、希望を繋ぐ、“兵器”としての未来。


この日もまた、彼らの訓練は続いていた。

だが――

その中に、たった一人だけ。


どれだけ訓練を重ねても、何度血を打たれても、まったく“反応”を示さない者がいた。


リド・ノクス。十六歳。


翡翠のように澄んだ瞳と、淡い緑の髪。

静謐なその容姿は、まるで“優しさ”を具現化したようだった。


けれど――この場所において、それは致命的な“罪”だった。


「おいおい、また失敗か? 何回目だよ、“無能ノクス様”」


「ここは訓練機構だぞ? 保育園じゃねえんだよ」


「剣の素振りもロクにできないって、どうやってユメクイ倒すつもり? まさか“笑顔”で説得?」


「いっそ食われてくれた方が、全体の士気が上がるんじゃね?」


訓練場。朝の剣技訓練。

訓練場の土は、踏み固められた泥の匂いが漂い、

木剣のぶつかり合う音と、怒声が絶え間なく響いていた。

鉄の匂い、汗の匂い、乾いた土の粉塵――

すべてが、生きるための戦場の縮図だった。


冷たい空気の中、リドはひとり黙って木剣を構えていた。

誰よりも早く来て、黙々と振るっていた。


でもそれは、誰にも届かない努力だった。


「おい、リドが来るぞ」

「チッ……また空気が淀む」

「疫病神、隔離してくんねーかな」


リドが歩くだけで、周囲がざわつく。

誰かが舌打ちをし、誰かが笑い、誰かが背を向ける。


それが“日常”だった。


「無能ノクスのお通りだー! 道開けろ、死神が通るぞ!」


「空気が重くなったわ、貴方のせいね」


優雅な声が空気を裂く。

一人の少女が、扇を広げて口元を隠しながら近づいてくる。


リリス・ギル・ライム。十七歳。

名門貴族ギル・ライム家の令嬢。

金色のツインテール、薄紅の瞳。

完璧な制服姿、優雅な所作、非の打ち所のない“淑女”。


だがその目は、毒より冷たく、嘲笑より鋭い。


「まだ“場違い”って言葉、理解できてなかったのかしら?」

「庶民の身分で幻想抱いて――ああ、哀れな虫。いえ、虫以下ですわね」


語尾にすら、悪意が滲んでいた。

リドは目を伏せたまま、何も言わない。

否、言えなかった。


「お願いだから、戦場で私たちの邪魔だけはしないでくださいな?

せめて死ぬなら、最初に。貴方が盾になってくれれば、私たちの生存率、上がりますもの」


訓練生たちがどっと笑う。

嘲りは、もはや“日課”だった。


「ねぇ、“無能”。いつまで居座るつもり?」


「“無能”って名前に改名してくれ。マジで呼びやすいわ」


「飯の支給、もったいねーよな。こいつ抜けたら、俺たちの食費ちょっと増えるんじゃね?」


リドは、俯いたまま拳を握る。

だが、その手は震えていた。


喉が詰まり、声が出ない。

言いたい言葉が喉まで来るのに、口が動かない。


――言っても無駄だ。

どうせまた、笑われる。

どうせまた、否定される。


彼は、すでに“言葉を持つこと”さえ諦めかけていた。


「……リド君」


その時だった。

一つの声が、冷たい空気に静かに落ちた。


ソフィア・ナーシャ。十八歳。

教会育ちの孤児。庶民出身ながら優秀な成績を収める努力家。

藍色の髪を一つに束ね、水色の瞳でリドを見つめる。


彼女だけが、唯一。

この地獄で、彼の“名を呼んでくれる”存在だった。


「大丈夫……? 今日も、ちゃんと頑張ってたよ。私は、見てたから」


リドは、ほんのわずかにだけ、肩の力を抜いた。

その言葉は、唯一、心を支えてくれる光だった。


だが――


「ソフィア、お前……いい加減にしろよ」


冷たい声が割って入る。

鋭い眼差し、刈り上げた黒髪。

鍛え抜かれた体躯と、隙のない姿勢。


オリバー・アルバート。二十歳。

旧軍系名家の出身。

成績・戦績ともに最上位。

だがその内面は、徹底した現実主義と冷徹な排除主義でできていた。


「努力してる“だけ”の無能を庇うな。お前まで、同類だと思われる」


「でも彼は――リド君は……」


ソフィアの声は細い。だが確かな意志があった。

リドの肩が、小さく揺れる。


けれど、オリバーは目を細め、切り捨てるように言った。


「“結果が出ない努力”は、ただの浪費だ。

 戦場じゃ、理想で生きてる奴から死ぬ。……それが現実だ」


それは冷たい正論だった。

正しく、だからこそ残酷。

ソフィアは何も言い返せず、唇を噛んだ。


リドは何も言わなかった。言えなかった。

正しい声は、いつだって自分を否定する。

優しさは、いつだって壊される。


彼はまた、木剣を握り直す。

けれど――その手は、まだ震えていた。


何度も何度も素振りを繰り返しているはずなのに。

掌には豆も潰瘍もできて、握るだけで痛いのに。

何ひとつ、報われない。


力がない。

才能もない。

希望もない。


ただ、名前だけが残されている。

それすら、他人の口では“無能ノクス”に変えられて。


「……っ」


喉の奥で何かが詰まる。

涙ではなかった。怒りでもなかった。

それは、“音にならない感情”だった。


痛みはある。

でも、それを叫ぶ声は出ない。


彼の中の何かは、もう、とっくに壊れていた。


それでも――立っていた。


訓練場の隅。

誰にも話しかけられず、誰にも気づかれず、誰の視線も受けない場所。

ひとり、木剣を振り続ける少年。


彼の名は、リド・ノクス。


かつて、“人類の希望”と呼ばれた因子・レクヴァリアに、

まったく反応を示さなかった唯一の存在。


彼は、ここに“いるだけ”で疎まれ、

“生きているだけ”で蔑まれる。


笑われ、嘲られ、足蹴にされ、

それでも一度も反抗したことはなかった。


無力だった。

無能だった。


けれど、それでも――彼は立っている。


拳を握って。

歯を食いしばって。

声にならない絶望を飲み込んで。


訓練生たちは、その姿に目もくれない。

誰も彼の名前を呼ばず、誰も彼の存在を認めない。

ただ、あざけりと嘲笑だけが残る。


「……はは」


リドの口から、小さく漏れたのは、

皮肉でもなく、笑いでもなく――諦めの息だった。


こんな日が、また始まる。

こんな朝が、また繰り返される。

明日も、明後日も。


そしてそのまま、

誰にも必要とされないまま、死ぬのだろう。


(でも……)


まだ、名前を呼ばれたい。

まだ、誰かの何かになりたい。

まだ……知らないものを、知りたい。


痛みの中で、生を叫ぶような、かすかな願い。


それが、彼の中に“まだ”残っていた。



――――


頭上を、灰色の雲が流れていく。

どこか遠くで、訓練の開始を告げる号令が鳴った。


それでも、誰も彼を呼ばない。

教官すら、彼の存在を“空気”と同じものとして扱っていた。


少年は、静かに木剣を拾い上げる。

土にまみれたそれを、黙って握り直す。


そして――立ち上がった。


今日もまた、言葉を飲み込み、

痛みを飲み込み、

絶望を飲み込みながら。


ただ、“そこに”いることを許されるために。


世界の終焉と再生の狭間で、

誰よりも無力で、

誰よりも“何か”を宿していた少年。


――彼はまだ、自分の運命を知らない。


彼の中に、まだ誰も知らない“何か”が息づいていることも。

世界の片隅で、静かにその目覚めを待っていることも。


やがて来る第二の悪夢の胎動に、

誰よりも無力だった少年が、最も深く関わることになることも――


今はただ――


地獄の中心で、

誰にも知られず、

ただ、息をしている。

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