第38話

 ――震えてなんかいられない。怖いなんて思わない。今やらなきゃいけないことなんだ。

 エルナは目の前の光景を見ながら、心を奮い立たせていた。ずっと絡み付いていた恐怖心を拭い去るために。

 とうとう、魔獣がカテルナに襲い掛かった。氷の障壁が、カテルナの前で破片を飛び散らせ、かろうじてその攻撃を防いでいる。


「じゃあ……行ってくるね」


 エルナはごくりとつばを飲み込んで、レイスに言った。


「無理はしないで……こっちは任せときなさい」


 お互いに頷きあってから、茂みを飛び出した。魔獣の爪が、ほんの少しずつ障壁に食い込んでいく。障壁の決壊はすでに目前まで迫っている。

 ――急がなくちゃ……。

 震える腕をつねって、エルナは魔獣に向かってまっすぐに駆け出す。

 レイスはカテルナに向かい走りながら、魔導円陣を組む。いつになく早口で、雷属性の障壁を組み上げる。


 カテルナがちらりとレイスを一瞥し、ふっと笑みを浮かべた。カテルナの背後に回って障壁を展開する。カテルナの障壁に比べれば、貧弱な障壁だが、魔獣によって弱体化されたカテルナの障壁を補助するには十分な役割を果たす。


「――手助けするわ。がたがた震えて足を引っ張るなんて、私のプライドが許さないのよ!」


 魔獣の咆哮がびりびりと頬を撫でる。

 レイスがカテルナの障壁の補助をしている隙に、エルナは魔獣の背中側に回って、その場に座りこんだ。地面にはまだカテルナの組んだ円陣が光の筋を走らせている。


 ――私が魔法を詠唱する唯一の方法。他者の形成した円陣を再詠唱する。それだけなのだ。

 エルナはフィオナを呼び出し、意識を集中した。


「――魔導円陣復唱……」


 エルナは目を閉じ、円陣の光を辿り、カテルナの唱えた呪文のスペルを引き出す。

 ――我が……うちに秘め……し泉の氷……の結晶よ、我、果て……に在りし天河の氷……獄によりて彼の……者を封じん。

 自分でも信じられないほど心が落ち着いていた。カテルナの紡いだ氷系高等魔法のスペルがフィオナを通して自分にも流れ込んでくる。

 目を開き、カテルナの魔導円陣に重ねるように自分の円陣を組み上げる。


「――我がうちに秘めし、泉の氷の結晶よ、我、果てに在りし天河の氷獄によりて彼の者を封じん…………」


 カテルナの魔導円陣から、エルナの魔導円陣へ精霊が転移していく。落ちついて、ただ復唱するだけではなく、自分に合わせながら丁寧に呪文を紡ぐ。

 だが、円陣内の光の筋の中に黒い濁りがちらちらと現れ始める。エルナとカテルナの詠唱のずれが黒い濁りとなって出てきている。


 ――除去をする余裕がない。円陣の構築を止めれば、余計にずれは大きくなっていく。どうすれば……。

 焦りがエルナの集中力を散らす。エルナは息を止めて、方法を模索しながら、詠唱を続ける。このままではカテルナの作った円陣も崩壊しかねない。


「――補助するわ。エルナは詠唱に集中しなさい」


 振りかえるといつのまにかラフィーネがすぐそばに立っていた。地面に手をついて、すぐ傍ではルシルがすでに詠唱補助の準備に入っている。


「お、お願いします!」


 目の前の魔獣は、レイスの張った障壁を砕き、またカテルナの障壁に爪を食いこませていた。


「目を閉じて詠唱に集中するの。カテルナなら大丈夫だから」


 ラフィーネの言う通り、エルナは目を閉じて、前方に広がる円陣に意識を集中した。自分の描いた円陣にカテルナの描いた円陣の精霊が流れ込み、ラフィーネが乱れた形を正しく整えていく。


「――魔導円陣詠唱。我がうちに秘めし、泉の氷の結晶よ、我、果てに在りし天河の氷獄によりて彼の者を封じん」


 カテルナの描いた魔導円陣にエルナの魔導円陣が完全に重なる。エルナの声に合わせて、地面に無数の光がほとばしる。


「――氷獄の陣」


 激しく光の柱が魔獣の足元から天に向かって伸びた。突風がエルナたちを包み、エルナは堪らず腕を顔の前にやった。

 腕の隙間から魔獣の姿が見えた。いくつかの氷柱が魔獣の周りを包むように伸び、大きな氷の檻が形成されていく。中の魔獣も凍てつく風で四肢を凍らせ、動きを止めていた。

 辺り一面が凍りついていた。中庭に僅かに残った芝には霜が降り、へし折れた樹木も凍りついて白くなっている。


「――で、できたの?」


 エルナ自身、自分のしたことにまったく実感が持てず、現実味のない目の前の光景をただぼんやり眺めていた。


「そうよ。あなたがやったのよ」


 ぽんぽんとラフィーネがエルナの頭を撫でた。振りかえるとラフィーネはくすりと笑い、それからカテルナの名を呼んだ。


「カテルナ!」


 巨大の氷の檻の向こうにカテルナとレイスの姿が見えた。カテルナはニッと笑みを浮かべて拳を上げて応えた。


「大丈夫よ。この子は気を失っちゃったけど」


 レイスはカテルナの胸の中ですやすやと眠っていた。


「補助とはいえ、カテルナの障壁に合わせて限界まで魔獣の攻撃を防いでいたんだ。仕方ないよ」


 ラフィーネはカテルナの傍でぺたりと座りこんだ。ラフィーネ自身も力を使い切ったのかすでにふらふらだった。


「さてと、これからどうするかだな」


 カテルナが鋭い視線を魔獣に向けた。流れ込む冷気が辺り一体を包み、カテルナたちの息は白く空に上っていた。

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