助け合い

祐里

 初夏に差し掛かる頃、隣の古い空き家に女性が引っ越してきた。挨拶を交わした翌日にはもう、「昨日見たよ」「きれいな人だったな」などと近所で噂になっていた。

 家内は「お隣にはなるべく親切にしないと」と言い、私も賛成した。社会生活を送るにあたり、助け合いは重要だ。


 隣の庭は一面雑草だらけだったが、前を通りかかると半分くらい土が見えていた。視線を滑らせた私は、隅のほうに隣人の女性がいることに気付いた。

「こんにちは」

「あ、こんにちは。ごめんなさい、こんな格好で」

 しゃがんだ姿勢から立ち上がり、長袖シャツに付いた草を摘みながら彼女は言った。

「草むしり大変そうですね。私がやりましょうか」

「えっ……、いいんですか?」

「新しい人には親切にしてあげようって、うちで話してるんですよ」

「そうなんですか。では、すみませんが……」

 こうして私は、近所の誰よりも早く彼女と知り合いになった。


 くぐもった音のドアベルを鳴らして、今日も私は彼女の家を訪ねた。

 二人で話をしながら縁側で麦茶をいただく時間を、私はとても気に入っている。

「先に行ってきれいにしておけと主人が言うので、一人でやっているんです。楠本さんが手伝ってくれて助かりました」

「ここに来てからもう一ヶ月ですよね? ご主人、休みの日も来ないんですか?」

「ええ。でも主人はそんなのお構いなし。女の寂しい気持ちがわからないの」

 彼女が細い首筋に手を当てながら、息を吐いた。頬の薄紅色が色っぽく見えた。


「美紗恵、明日の朝から二十分早く出るから」

 ある日、私は家内にそう告げた。のんびりと朝の散歩をする彼女に合わせて家を出るほうが、フルタイムの仕事のせいで忙しく動く家内との時間より、よほど有意義だ。

「えっ、二十分早く?」

「ああ。ゴミ捨てはしてやってるんだから、それくらいいいだろう」

「……ええ。じゃあお弁当と朝ご飯、二十分早く作るようにするわ」

 家内が了承してくれてよかった。殴ると手が痛くなってしまう。

 翌朝、私はシューズボックスの脇に置かれたゴミ袋を持ち、玄関ドアを開けた。

 彼女の家と同じようなドアベルの音が聞こえた気がしたが、急いでいたため、すぐに意識の外に追いやった。


「この辺に危険な場所ってあります? 落ち着いたら子供を作りたいので、もしあるなら知っておきたいんです」

「危険な……、それなら町内会館の裏の沼かな。けっこう深いんですよ。誰かが落ちても死体が上がらないって。ただの噂ですけどね。実際、子供には危険だと思いますよ。柵もないし」

「まあ、怖い。……あ、来週末、主人が来ることになったんです。でも、怖いの」

 ゆるく結ばれた髪のおくれ毛が、朝の風に揺れている。

「怖い? 何で?」

 尋ねる私に、彼女は歩きながらゆっくりと視線を合わせた。

「壁とかお風呂とか、汚れが取れないところがあって……怒られちゃう……」

「そんなの古い家なんだからしょうがないですよ」

「うちの主人、言い訳が通用しないので……」

 言い訳も何も、事実ではないか。何とか助けてやりたいと私が考えを巡らせ始めると、彼女のゆったりした七分袖から傷が見えた。

「ん? 傷?」

「あ、これは……、何でもないです」

 彼女は慌てて隠したが、尖った何かで強く擦られた跡のように見えた。

「私に何かできることがあれば、やりますよ」

「……本当ですか?」と彼女は細い声で言った。


 とうとう彼女の夫が来る日になった。私は少々の緊張感を覚えている。危険な場所に二人を案内することになったからだ。

 午後から雨になるという予報は当たりそうだ。分厚い雲の下、私は笑顔で彼を迎えた。特筆すべきところもない、ごく普通の男性だった。

 彼女の顔にはいつもの柔らかな笑みはない。時々目が泳ぎ、夫の顔を見るという動作を繰り返している。

「では行きましょうか」

 二人は軽くうなずいてから、私の後ろを歩き始める。

「雨、降るかな」

「折りたたみ傘あるわよ」

 振り返ると、彼女が斜めがけバッグから明るいピンクの傘を取り出していた。

「二つ持ってきたか?」

「……一つだけ」

「人数は三人だろう?」

 怒りをあらわにした声。

「きっと大丈夫ですよ、雨は」

 思わず振り返り、口を挟む。

「それならいいのですが」

 全く、それくらいで怒るなんて。そんな苛立ちを抱えながら、私は沼の水際まで二人を案内した。

「一昨日土砂降りだったから、水かさが増しているんです。柵もないし、大人でも雨が降ると近付かない」

「確かに危険そうだ。子供ができたら絶対に近付かせないようにしよう」

 水辺の草を踏んで隣に並ぶ彼の言葉に、私は嫌悪感を覚えた。彼女がこんな下衆な男とセックスするところなど、想像したくない。


「さて、次は事故が多い交差点……あ、雨だ」

「何だ、やっぱり降って」

 彼はそこまでしか言えなかった。私に背中を押され、沼に落ちてしまったから。

 私は彼が溺れる様をじっと見ていた。懸命に顔を出そうとしながらもだんだん沈んでいき、そのうち水泡も上がらなくなった。

「よし、これで……」

「美紗恵さんはいい人なのに」

「えっ? 美紗恵って」

 私はそこまでしか言えなかった。後ろから肩を突き飛ばされたから。

 なぜ私が、と考えながらも必死に地上へ上がろうともがく中で、彼女の笑顔とピンク色が目に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

助け合い 祐里 @yukie_miumiu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ