待ち人

しばらく、トリスタン卿は姿を見せなかった。


泉は、静かすぎた。


水面に波紋もなく、森の葉擦れと小鳥のさえずりだけが響いていた。


人魚は毎日、陽が昇っては沈むまで、水中からじっと見上げていた。


あのガーネットのブレスレットをきらりと揺らしながら、彼の姿を待ち続けていた。


そして、ある日の夕暮れ。
聞き慣れた竪琴の音色が、森の木立の隙間から微かに届いた。


人魚は、はっと目を見開いた。


そっと水面に顔を出す。

冷たい泉の水をぬらりと割って、少しだけ。


そこにいたのは、やはりトリスタン卿だった。


岸辺に腰を下ろし、静かに竪琴を奏でていた。



指は少し傷んでいるように見えたが、その音色はいつもと変わらず、優しく、美しかった。


その旋律に誘われるように、人魚はふらりと水面へ身を乗り出した。


けれど、彼が顔を向けた瞬間、スッと後ろへ引いた。


「……レディ。私です。トリスタンです。……何か、気に触ることでも?」


彼の声に、人魚はじっと睨みつける。



そして次の瞬間、彼の腰に下がった蜜酒の瓶をひったくり、

ぐい、と喉を鳴らして煽った。


「……! レディ、いけません……! そんなに一気に飲んでは……!」


『……おまえ、トリスタン、ずっと、こなかった。なぜ。なぜ。』


濡れた髪が頬に張りついたその顔は、怒っているようで、泣き出しそうでもあった。


トリスタンは、少しだけ目を伏せ、静かに跪いた。



「……申し訳ありません。色々と立て込んでおりまして……なかなか、こちらに来られなかったのです。」


その声に嘘はなかった。

でも、人魚は許さなかった。



小さな牙を剥き、トリスタンの腕にがぶりと噛みついた。


「……っ……!!」



痛みを堪えながらも、彼は怒らなかった。


人魚は不満げにぷいと顔を背ける。


ぷくりと膨れた頬に、尖らせた唇。


『…ともだち、おまえ、ひとり』


その言葉には、静かな嫉妬と、深い孤独が滲んでいた。



トリスタンはしばし黙した。


やがて、人魚は泉の中から、そっと何かを差し出した。


それは、一枚の鱗だった。


掌に乗るそれは、まるでオパールのように七色の輝きを放ち、陽光を映してゆらめいていた。


『…それ、たべる。おまえ、わたし、おなじ、なる…』


その一言に、トリスタンの胸の奥がじんと痺れた。


かつて読んだことのある古い書物の記憶が、淡く蘇る。


――人魚の鱗を食べ続けた者は、やがて人魚になる。


――その鱗を口に含めば、水の中で息ができる。


鱗は、彼女なりの「宥め」であり、「愛情」なのだと、彼は理解した。


だからトリスタンは、そっと微笑んだ。



そして、指先で鱗を受け取り、口に含む。

鱗は不思議な甘さがあった。


蜜のような、果実のような、けれどどこか懐かしい味がした。


そのまま、彼はゆっくりと身につけていたマントとチュニックを脱ぎ、白いシャツのまま水際に立った。


「私は盲ゆえ、泳ぎは不得手です。リードをお願いしても?」


その一言に、人魚は目をぱちぱちと瞬かせた。



そして、ほんの少し唇の端を持ち上げた。

それは、彼女なりの満足の表情だった。


人魚はすっと近づき、優しくトリスタンの手を取った。



ひんやりとした白い指先が、彼の掌を導く。


ふたりは静かに、泉へと身を沈めていく。


陽が落ちかけた空の下、
人と人魚――違う種のふたりの影が、水の奥へと溶けていった。


水底は、しんと静かで、
けれどどこまでも温かく、やさしい。


その時、トリスタンの心の中でふわりと湧いたのは、
かつてイゾルデに抱いた苦い恋とは違う、
もっと穏やかで、あたたかな――新しい恋の輪郭だった。

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