第18話「私は女優になりたい」

朝のHR。


担任が配った一枚のプリントに、教室中の空気がわずかに重たくなった。


「来週中に、記入して提出すること。——進路調査票ね。将来の夢や志望進路、保護者のサインも忘れずに」


その言葉に、クラスメイトたちはそれぞれの表情を浮かべた。

余裕の笑みを浮かべる子、溜息をつく子、そっと目を逸らす子。


その中で、葉山ほのかは静かにプリントを見つめていた。


用紙の上段にある、「将来の夢」という欄。

そこに筆が、まったく進まなかった。


(……夢、か)


文化祭で演じたジュリエット。

はじめて挑戦したオーディション。

震えた日、泣いた夜、それでも「次は頑張りたい」と思えたあの日——


あれは“夢”と言えるのだろうか。

それとも、ただの「一時の熱」だったのだろうか。


「ほのか。おかえり」


家に帰ると、食卓の上にはプリントが置かれていた。


父がちらりと進路調査票に目を通しながら言う。


「まあ、大学くらいは出といた方がいいよ。学歴って、後から効いてくるし」


母も頷く。


「将来の選択肢は広いほうがいいもの。演劇は高校の思い出で充分でしょ?」


「……うん、そうだね」


(違うのに)


心のどこかで、叫びそうになる自分を、奥歯で噛んで抑え込んだ。


(“思い出”にしたくない。“夢”にしたいって、思ってるのに)


次の日の放課後。


そのまま帰る気にはなれず、ほのかは、無意識のうちに結月の教室をのぞいていた。


「ほのかちゃん?」


「……帰り、一緒にいい?」


ふたり、並んで歩く帰り道。


雨上がりのアスファルトは少し湿っていて、夕日が水たまりをオレンジ色に染めていた。


「進路調査票、配られたよね」


「うん。夢の欄、書いた?」


「まだ。……書けなかった」


「そっか」


風がそよぐ。


「結月は、ずっと“女優”が夢だった?」


「……ううん、違うかも」


「え?」


「“気づいたら夢になってた”って方が近いかも。最初は“憧れ”だったけど、誰かに見てもらって、背中を押されて……そして、手放せなくなった」


結月は、ほのかを見つめながら、言葉を続けた。


「夢って、“やってみたい”って思った時点で、もう芽が出てると思うんだ」


「……じゃあさ」


ほのかは立ち止まる。

夕陽が彼女の横顔を照らしていた。


「わたし……“やってみたい”って思ったの。もっと、演じてみたいって。これって……夢、かな?」


結月は、ふっと微笑んだ。


「夢だよ。もう、ちゃんと芽が出てる。あとは、育てるかどうかだけ」


その夜、ほのかは机に向かい、ペンを取った。


震える指で、ゆっくりと日記を開く。


『わたしは——女優になりたい』


一言書いたあと、しばらくページを見つめていた。


でも、不思議と涙は出なかった。


代わりに、胸の奥が少しだけ、あたたかくなった。


翌日。進路調査票の提出日。


教室では、それぞれが思い思いの夢を口にする発表の時間になっていた。


「僕は、体育教師になりたいです!」


「私は、保育士を目指しています」


「……美術大学に進んで、デザインの仕事を」


順番が、ほのかに回ってきた。


(言えるかな)


手のひらが汗ばんでいる。


昨日の夜、何度も言葉を反芻したはずなのに、今にも喉が詰まりそうだった。


でも——


(結月が言ってくれた。“育てるかどうかだけ”だって)


背筋を伸ばす。


そして、教室の前に立った。


「わたしは——」


少し、間をおく。


「女優になりたいです」


一瞬、教室が静まりかえる。


「えっ……マジ?」


「……あの文化祭の?」


「ジュリエットの子……?」


囁きが、ざわめきへと変わる。


でも、ほのかはもう俯かなかった。


正面からその声を受け止めて、笑顔のまま深く一礼した。


「ありがとうございます」


そのとき、教室の後ろで——

誰より先に、誰より嬉しそうに拍手を送っていたのは、


結月だった。


その拍手は、大きくはないけれど、真っ直ぐで。

何よりも力強く、ほのかの心を抱きしめてくれるようだった。


その日の夜。


結月のノートには、こんな一文が書かれていた。


『夢は、声にした瞬間から始まる。誰かのためじゃなく、自分のために選んだ道は、きっと嘘じゃない。』


そしてその下には、ほのかの笑顔と、拍手を送る自分の姿が、そっと描かれていた。


——その掌が、誰かの夢のスタートラインを、確かに後押ししていた。

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