第17話「過去と向き合う時」

スマホの画面が、静かに点灯する。


《#音桜高校ロミオ役 正体は朝比奈結月?》


《比較画像あり》《演技一致率90%超え》《元・国民的女優説》


まるでネットが結月を“証明しようとする”かのように、タグ付きの投稿が増えていた。


放課後の教室にも、静かなざわめきが流れる。


「なあ、朝野さんって……」


「え、もしかしてほんとに……?」


「似てるっていうか、そっくりすぎない?」


声は直接ではない。けれど、聞こえてくる。


刺すような視線。

振り返れば目をそらす、気づかないふり。


(……始まった)


朝野結——いや、朝比奈結月は、机に視線を落としたまま、小さく息を吸った。


その日、空はどこまでも晴れていた。

けれど、心の中には雨雲のような影が広がっていた。


(やっぱり、隠しきれなかった)


わかっていたことだ。

バレたくない、でも、本気で“生きたい”と思ってしまった舞台。


それは、矛盾だった。


学校の階段を下りる途中。

ふと、背後から名前を呼ばれる。


「——結」


振り返ると、そこにはほのかがいた。

少し息を切らせた様子で、駆けつけてきた彼女は、真剣な目で見つめてくる。


「SNS、……見た。すごい騒がれてる」


「うん。知ってる」


「みんな、なんとなく気づき始めてる。クラスでも、“あの人じゃないか”って声が出てる」


結月は笑った。だけど、それは少しだけ痛々しい笑みだった。


「ねぇ、ほのかちゃん。私って、誰なんだろうね」


「……?」


「“朝野結”って誰? “朝比奈結月”って、まだここにいるの? どっちも、私で、どっちも本当で、どっちも……すごく苦しい」


ぽつり、ぽつりとこぼれる言葉は、まるで過去の断片が流れ出すようだった。


子役時代。

小さな身体に詰め込まれた「大人の理想」と「仕事のプロ意識」。


泣きたくても泣けなかった。

自分の“感情”は、役にとって邪魔だから。


「いい子」でいれば褒められる。

「笑っていれば安心される」。

けれど、その笑顔は、自分のものではなかった。


(私は、“わたし”を失ったまま、女優になった)


そして、ようやく手に入れた“普通の高校生活”。


やっと出会えた“本気で笑える友達”。


「だから、今さら——“朝比奈結月です”なんて言ったら、全部、壊れちゃう気がして……」


ほのかは黙っていた。

けれど、目だけは真っ直ぐに、結月を見つめていた。


やがて、そっと手を伸ばす。


「じゃあ、私は——」


結月がはっと顔を上げる。


「私は、“地味で透明感のある転校生・朝野結”の友達でいさせて」


「……え?」


「あなたが“朝野結”でいたいなら、私はその名前で呼ぶよ。“女優”でも、“元国民的”でもない。“今ここにいるあなた”の隣でいたい」


言葉のひとつひとつが、じんわりと心に染み込んでいく。


「ほのかちゃん……」


「秘密にしていたこと、責めたりしないよ。だって、あのときの結月の演技……あれは、“誰かになろう”としたんじゃなくて、“本当の自分を見せた”演技だったから」


そう、あの舞台で流した涙。

あれは脚本にも演出にもなかった、“心のまま”のアドリブだった。


「私は……あの瞬間に救われた。だから、今度は私があなたを支える番だよ」


その夜、結月は久しぶりに、テレビをつけた。


バラエティ番組で、過去の名シーン特集。


その中に、一瞬だけ、かつての自分が映った。


「……こんなに幼かったっけ」


マイクを持って笑う、自分。

スタッフに礼を言い、観客に手を振る自分。


(でも、どこか……顔が、硬い)


今のほうが、不器用で、目立たなくて、完璧じゃないけど——


(あの頃より、ずっと自由だ)


ピコン、と通知が鳴る。


《藤堂玲央さんが「朝比奈結月」タグ付きの投稿をリポストしました》


——藤堂玲央。


同じ事務所で、かつて共演した少年俳優。

今やドラマ主演を重ねる実力派。

そして、何より結月の“過去”をよく知る、数少ない人物。


「……玲央くん……」


その名が動き出したことで、結月の中で“過去”の扉が、ゆっくりと軋みながら開き始めていた。


その晩、ノートを広げる。


ページの端には、今日の一文。


『過去は消せない。けれど、未来はまだ選べる。私は、私の名前を、好きになりたいと思った。』


下には、制服姿の自分と、隣で笑うほのかのイラスト。


“朝野結”として、

“朝比奈結月”として、

どちらの名前も肯定できる日が来るように——


少女は今、静かに覚悟を決めようとしていた。


——秘密が明かされる日は、すぐそこに迫っている。

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