第10話「結月、舞台に立つ!?」
文化祭本番まで、あと三日。
クラスの空気は、緊張と高揚感が入り混じっていた。
舞台装置は完成し、衣装も配布済み。照明・音響・立ち位置まで調整を重ね、残すは仕上げの通し稽古——のはずだった。
そのとき、担任が駆け込んできた。
「大変だ! 桐原さん、インフルエンザでダウンしたって!」
「えええええええ!?!?」
教室がパニックになるのに、1秒もかからなかった。
「嘘でしょ!?」「主演だよ!?」「今さら演出も脚本も変えられないよ!?」
ざわつく中、ほのかは真っ青な顔で立ち上がる。
「るなちゃん……そんな……」
演出、主演、台詞回し。すべてを把握していたのが、桐原るなだった。
そのピースが欠けた今、舞台全体が崩れ落ちそうな緊張感に包まれる。
「代役、どうする!? 他にロミオやれる人いないよ!」
「脚本書き直す? いや、もう時間が……!」
混乱の中で誰かが口にした言葉が、教室の空気を変えた。
「……結月なら」
ぽつりと、ほのかが呟いた。
「えっ?」
「結……演技、すっごく上手だから……」
その一言に、教室中の視線が、一斉に結月へ向けられる。
(あっ……やっちゃった)
ほのかは口を抑えるが、もう遅い。
「朝野さんって、そんなに演技できるの?」
「いやでも、ちょっと見てみたいかも……」
「もしかして前にやってた? 演劇部とか?」
ざわざわと期待の熱が集まる。
結月は、一瞬だけ目を閉じた。
そして、静かに口を開いた。
「……いいよ。代役ってことなら、私がやる」
「マジで!?」
「ありがと、助かる……!」
「やばい、ちょっと鳥肌……!」
周囲がどよめくなか、結月はそっとほのかの手を取って教室の外に連れ出す。
廊下の隅、人の気配が届かない場所で。
「……私、人生で舞台に立つの、初めてかもしれない」
「えっ……?」
「演技はしてきた。でも、それは“カメラの前”で。“生の舞台”って、別世界だから」
「結……」
「でも、逃げたくない。るなちゃんのために、みんなのために……そして、自分のためにも」
その目には、かすかな迷いと、それ以上に強い決意があった。
その日から、結月は裏で“変身”を始めた。
演じるのは「転校生のままの自分」ではなく、「舞台上のロミオ」でもなく。
——「誰にも正体がバレない“ロミオ”」
衣装には小さな改造を加え、顔立ちが分かりにくいようにウィッグとメイクを仕込む。
照明の調整も自分で行い、顔の影が舞台上で程よく落ちるように設定。
「なんか……本気すぎて逆に安心してきた」
ほのかは横でぽつりと呟いた。
「メイクで目元の輪郭を消して、ライトで印象を分散。声は一段落として、意図的に“自然”を削る……バレる可能性、かなり減るはず」
「なにそのプロの技術講座……」
「舞台で“目立たない”って、実は一番難しいの」
そう言って、結月は小さく笑った。
だがその笑顔の奥にあるのは、張り詰めた緊張だった。
通し稽古当日。
結月が演じる“ロミオ”が舞台に現れると、教室にいた全員が息を飲んだ。
「……ほんとに、朝野さん?」
「雰囲気全然違う……!」
「なんか……カリスマあるっていうか……」
動きは慎重で、台詞の間合いも完璧。なのに“やりすぎてない”。
演技を知る者ほど、それが“本物”だと分かってしまう。
「やば……まじでプロじゃん……」
その一言がこぼれたとき——
教室の端にいた男子生徒が、ぽつりと呟いた。
「……この転校生……どこかで見たことある気がするんだよな」
その声は、誰にも届かなかったようでいて。
確かに、その場に“影”を落としていた。
稽古後、ほのかは結月に声をかけた。
「結……すごかった」
「ありがと」
「でも、やっぱり怖くない?」
「……うん。怖い。正直、“バレるかも”って思ってる」
「じゃあ、どうして……」
「多分ね、私は——」
結月は、体育館の暗がりを見つめながら言った。
「“隠す”ことばかりが青春じゃないって、やっと気づいたのかもしれない」
「……」
「本当は、“伝えたい”んだ。誰かに、なにかを」
その背中は、どこか儚くて、それでいて、少しだけ大人びて見えた。
ほのかはそっと、結月の隣に並んだ。
「じゃあさ、結。舞台の上では、全部、伝えちゃえばいいよ」
「……え?」
「正体は隠してていい。でも、想いは隠さなくていい。舞台の光の中で、自分の“好き”を伝えていいんだよ」
結月は目を見開いて、そして——少しだけ、涙ぐんだ。
「……ありがとう、先生」
「生徒の方が天才すぎて、指導料請求したい気分だよ」
ふたりの笑い声が、体育館の暗がりに溶けていった。
結月のノート、今夜の記録。
『舞台に立つことになった。誰かの代わりじゃない。私の気持ちを、誰かに届けるために』
そのページの隅に描かれた小さなロミオは、マントを翻して舞台の中央に立っていた。
——そしてその向こうに、小さな吹き出し。
「この子……どこかで見たような……?」
ページの外側では、誰かが、真実に近づいていた。
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