第1話「転校生、朝野結 登場」
四月の朝、春の陽射しが差し込む校門前に、その少女は立っていた。
「……ふう」
深く息を吐き、メガネを押し上げる。鏡のように整えられた三つ編み。ノーメイクに見せかけた絶妙な“すっぴん風”の肌。猫背気味に縮こまった背中。そして――
「よし、“地味”完了」
朝野結。今日から音桜学園に通う“地味系転校生”だ。
……その正体が、28歳の元・国民的女優、朝比奈結月だということを、誰が想像するだろう。
「“制服で登校”って、ほんとに実在したんだなぁ……」
呟いたその声には、どこか芝居がかっているような、演技と現実の境界線を遊ぶ響きがあった。
——これは、彼女の“第2の人生”、その幕開けの朝。
「それでは今日からこのクラスに転入してくる生徒を紹介します」
教壇に立つ担任の声が教室に響く。
「朝野結さんです。じゃあ自己紹介、どうぞ」
「……あ、朝野……結です。よ、よろしくお願いします」
棒読みのようで、それでいて不自然に聞こえない。視線を泳がせ、声は控えめ。完璧な“地味演技”だ。
「地味~」「細っ」「大人しそ~」とヒソヒソ声が飛ぶ中、クラスの一角ではある少女が目を見開いていた。
——葉山ほのか。エキストラ女優にして、結月の“青春指南役”。
(え……演技、うますぎない? いや、“地味”の演技って……何……?)
彼女はすでに知っている。この転校生の正体を。
いや、知っている“はず”なのに——その完璧すぎる変身に、今この瞬間でさえも混乱していた。
(ていうか……目立たなさすぎて逆に目立つってば!)
ほのかの心の叫びが届くことは、もちろんない。
「ふぅ……クリア」
転校生紹介のホームルームが終わり、席に着いた朝野結――結月は、こっそりとガッツポーズをしていた。
目立たない。注目されない。浮かない。誰も興味を持たない。
それは芸能界のトップを走ってきた彼女にとって、人生で初めて手に入れた“無関心”の空間だった。
(これが、普通の高校生かぁ……)
クラスメイトたちは、もう彼女に目もくれず、それぞれの話に夢中になっている。昼ドラのような注目ではない、淡々とした日常の空気。
しかしその“日常”に、一人だけ、目を離せない少女がいた。
ほのかだ。
(なんでこっち見てるの!? やめてぇぇ、視線が刺さるぅぅ!)
「……葉山さん」
休み時間、結月は誰にも聞こえない声で彼女に囁いた。
「話しかけないで。お願い」
「は、はいぃぃぃっ!?」
何もしていないのにビビられる。この反応すらも、計算通り。演技とは恐ろしい。
「放課後、屋上で。お願い、来て」
そう言い残して、結月は席に戻った。颯爽と……ではなく、猫背気味に。あくまで“地味キャラ”で。
(放課後って……これ、ミステリードラマでよく見る“裏で待ってる”やつでは!?)
ほのかは頭を抱えた。
「……来てくれてありがとう」
夕焼けに染まる屋上。そこに立つ結月は、眼鏡を外し、そっと三つ編みをほどいていた。
「……や、やっぱり……本物だぁぁぁぁ!!」
「しーっ! 声、抑えて! ばれるでしょ!」
「す、すみません! でも、その髪! その目! あの朝比奈結月様そのものでぇぇ!」
「だから変装なの!」
怒っているわけではないが、どこか必死なトーン。結月はため息をついて、ぽつりと呟いた。
「ねえ、葉山さん。私……この学校で、“普通の高校生”をやりたいの」
その目は、真っ直ぐだった。
「制服着て、下駄箱で靴履いて、先生に怒られて、昼休みにバカみたいなことして笑って……。そんな毎日が、どんなに眩しいか、わかる?」
ほのかは、言葉を失っていた。
「お願い。あなたしか、頼れないの。どうか……私の“青春の相棒”になってくれない?」
ふざけているようで、ふざけていない。
国民的女優が、今この瞬間だけは、一人の“少女”として願っている。
「わ、私でよければ……で、でも……協力って、具体的には……?」
「うん。クラスのこととか、学校のルールとか、色々教えて。あと、私がうっかり“女優っぽく”なったら止めて」
「そ、そんな難易度高い仕事、聞いてないっ!」
「報酬は……青春の1ページ、ってことで」
結月が笑った。
その笑顔は、テレビで見るそれより、ずっと優しくて、ずっと不器用で——
「……はい、わかりました、結月さん。じゃなくて、“朝野さん”」
「うん、よろしくね、葉山さん。あ、これからは“結”って呼んで」
「じゃ、じゃあ私は“ほのか”で……」
ふたりは、まるで秘密を共有する同志のように、小さく笑い合った。
そして、この日から——
国民的女優・朝比奈結月は、“地味系転校生・朝野結”として、誰にも知られず、誰にもバレずに。
全力で、人生初の“青春”を生き始める。
——未熟で、愛おしい物語が、いま始まる。
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