プロローグ(後編)
> 「高校って、楽しい?」
唐突な質問に、葉山ほのかは目を瞬かせた。
エキストラとして参加していた現場で、まさか朝比奈結月本人から話しかけられるとは思っていなかった。しかも、そんな世間話のような質問を。
> 「え、えっと……た、たのしい……です。たぶん……?」
> 「“たぶん”? なんで、“たぶん”? たのしくないの?」
結月は興味津々といった様子で身を乗り出す。重圧感のある美貌とオーラが間近にあるにもかかわらず、言動はまるで普通の女の子そのものだった。
> 「い、いえ、たのしいですけど、なんか、やっぱり……ちょっと大変なことも多いというか……」
> 「ふむふむ。具体的には?」
ほのかは完全にペースを乱されていた。
普段は存在感すら薄い自分が、なぜか国民的女優に問い詰められている。そして彼女はまるでそれを心から楽しんでいるように見えた。
> 「テストとか、友だち関係とか……あと、部活とかも。でも、行事はけっこう好きです。文化祭とか、体育祭とか」
> 「体育祭、やってみたいなぁ」
ポツリと漏れた結月のその声は、ほんの少しだけ、寂しげだった。
◆
——結月には、高校に通った記憶がない。
正確には、「在籍」はしていた。だが、校舎に足を踏み入れた日は一度もなかった。
10代のほとんどを撮影現場で過ごし、台本とカメラとスタッフに囲まれて生きてきた。世間では“リアルな演技”と賞賛されたその演技も、彼女にとっては“想像”の産物だった。
学生服を着るシーン。誰かと廊下で話すシーン。放課後の教室。
すべて台本の中にしか存在しなかった。現実の空気を、肌で感じたことはなかった。
> 「文化祭とかでさ、クラスTシャツ作ったりするの? 出し物って何やるの?」
> 「あ、はい。Tシャツは毎年つくってて、去年はお化け屋敷でした」
> 「お化け屋敷! やば、めっちゃ楽しそう!」
子役時代の彼女を知る人は、想像もつかないだろう。無邪気に目を輝かせて高校生活に憧れるこの女性を。
ほのかは、そんな結月の姿を見て、ふとある疑問が湧いてきた。
——この人、本当に高校に行きたかったんじゃないか?
◆
結月はその夜、部屋の窓を開けて風に吹かれながら、深呼吸をした。
思い返せば、子どもの頃は「天才」と呼ばれることがただのプレッシャーでしかなかった。母親もマネージャーも、期待をかける人たちは皆、結月が“普通”であることを許してくれなかった。
その中で役者としてのプロ意識を育て、やがてそれが自分の“生きる術”になった。
でも——
> 「私、結局“やったふり”しかしてこなかったんじゃないかな」
制服を着て、下駄箱で靴を履き替えて、先生に怒られて、帰りに寄り道して。
そんな“誰もがやっていること”が、自分には一度もなかった。
そんな“普通”が、彼女にとっては“夢”だった。
> 「……やってみようか」
そう呟いた瞬間、彼女の目にほんの少し、光が差した。
◆
それからの結月の行動は早かった。
信頼している元マネージャーにだけ事情を話し、匿名・別名義で高校に編入するためのルートを探り始めた。表の名義は休業中のまま。あくまで“変装した地味系転校生”として、普通の高校に通う——という大胆な計画。
最終的に彼女が目をつけたのは、ほのかの通う「私立音桜学園」。芸能人の子弟や文化系に強い生徒も多く、少し変わった生徒がいてもあまり目立たないのが特徴だ。
そして、ある日。
> 「君の学校、私も通っていい?」
とんでもない発言が、ほのかの耳に届いた。
> 「……え、えぇぇぇぇっ!?」
> 「ダメ?」
> 「だ、ダメとかじゃなくて! えっ……? ほんとに……!?」
> 「うん。本気。私は……青春ってやつが、したいんだ」
その目は、嘘じゃなかった。
ほのかはその時、初めて“女優・朝比奈結月”ではなく、一人の人間としての彼女を見た気がした。
寂しさと憧れ。未練と希望。過去と未来。
彼女の中で渦巻くそれらが、「普通の高校生活」というたった一つの夢に収束していく——そんな気がした。
> 「協力してくれる? 私の青春の……相棒になってくれる?」
少しだけ、おどけたように差し出されたその手に、ほのかは思わず手を伸ばしていた。
> 「は……はい! よろしくお願いします……!」
思いがけず握手のような形になってしまったが、結月は満足そうに微笑んだ。
こうして——
伝説の大女優は、高校生になることを決意した。
全力で、バレずに。
全力で、楽しむために。
> ——朝比奈結月、地味系転校生として高校デビューします。
その日、彼女の“第2の青春”が、静かに幕を開けた。
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