第5話:バーチャル喫茶・春風で、静かな春のひととき:
カランコロン。
夕暮れ色のバーチャル空間に、
やさしいベルの音が響いた。
私は、カウンターのクロスを整えながら顔をあげた。
──知らない人だ。
扉の向こうから、
すこし無表情な男性のアバターが入ってきた。
黒髪に、黒いジャケット。
シンプルで飾り気のない見た目。
でも、
どこか、遠いところから来たみたいな空気をまとっていた。
「いらっしゃいませっ」
私は、いつも通りに声をかけた。
男性は、
ほんのすこしだけ、表情をやわらげた。
「コーヒーを、ください。」
低く、やさしい声だった。
私は、
こくんとうなずいてカップを用意した。
ユウくんが、
カフェオレを飲みながらちらりとその男性を見た。
「──あの人、前に、どこかで見た気がする。」
ユウくんが、ぽつりとつぶやいた。
私は、
カップにコーヒーをそっと注ぎながら、耳をすませた。
カウンターに置いたコーヒーを、
男性は静かに受け取った。
香ばしい湯気が、ふわりと立ちのぼる。
「……いい香りですね。」
そうつぶやいた男性は、
カップを両手で包み込むように持った。
ふと──
私は気づいた。
男性のアバター名。
【ハルノ】。
どこかで、見たことがある名前だった。
──あ。
脳裏に、
ふわりと過去の映像がよみがえった。
かつて、人気を集めたVTuber。
でも、突然活動を終えた、あの人。
店長さんが、
奥から静かに出てきて、にこっと笑った。
「おかえりなさい。」
ハルノさんは、
ふっと目を細めた。
「……お邪魔します。」
たったそれだけのやり取りだったけど、
胸の奥がじんわりあたたかくなった。
「この場所、変わらないですね。」
ハルノさんは、
ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
ユウくんが、
小さな声で私にささやいた。
「──やっぱり。あの人、元VTuberだよ。」
私は、
うん、と小さくうなずいた。
でも、
それ以上、何も言わなかった。
ここでは、
誰も過去を責めたりしない。
誰かがどんな時間を過ごしてきたかも、
きっと大事なものなんだって、知っているから。
ハルノさんは、
静かにコーヒーを飲みながら、ぽつりと言った。
「……ここに来るのは、久しぶりです。」
「また来てくれて、うれしいですっ!」
私は、思わず声を張った。
ハルノさんは、
すこし驚いたように目を丸くして、
──そして、ふっと笑った。
「ありがとう。」
その笑顔は、
とても、やさしかった。
ジュワジュワと、
心のなかに、あたたかい音が広がる。
カウンターの上に、
コーヒーの湯気と、
ちいさな春風がそっと舞った。
「また、来てもいいですか?」
「もちろんっ!」
私は、思いきりうなずいた。
ここは、
どんな人でも迎える場所。
夢を追う人も、
夢を手放した人も、
また、新しい夢を見つけたい人も。
バーチャル喫茶・春風で。
春の香りに包まれながら、
私たちは、そっと心をつないでいく。
──また、あしたも。
誰かの今日に、
そっと春風を届けられますように。
カップの中で、
ふわりと春色の香りが広がった。
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