第2話
それは六限目の授業が終わり、時計の針が午後四時を指した頃のことだった。
帰りのホームルームをするために戻ってくる担任がやってくるのを待つ、十分ほどの間に、その異変は突如として起こった。
「なっ、なんだ!?」
突如として視界が暗転する。
先ほどまでついていたはずの蛍光灯が消え、外に見えていたはずのあかね色の空が真っ黒な緞帳に変わる。
樹は慌てて周囲を確認する。
彼は一人立ち上がると、騒ぎ出した生徒達の間を通り抜け、ドアに手をかけた。
退路の確保のために行おうとしたのだが……スライド式のドアは、どれだけ力をかけても微動だにしなかった。
クロスしている前扉と後ろ扉の間のロックを確認するが、錠は上がったままだ。
それならと前側のドアへ向かおうとすれば、そこには自分と同じことを試したらしい楓の姿があった。
「樹君、そっちも?」
「うん、びくとも。一体何がなんだか……」
スイッチを入れても電気はつかず、スマホも完全に圏外になってしまっている。
クラス中が軽いパニックに陥りかけている中、樹は冷静に周囲を観察していた。
すると校内放送用のスピーカーがノイズを発しているのに気付く。
『…………か…………聞こえますか?』
そしてノイズはみるみるうちにクリアになっていき、声になって鼓膜を震わせた。
全員の視線がスピーカーに集中する。
『聞こえますか、異世界の勇者様方。まずは落ち着いて、私の話に耳を傾けてください』
そんなことを言われて落ち着けるはずがない。
だがなぜか、教室の中は一瞬のうちに静まりかえっていた。
『私はザリーフ王国第一王女であるカーシャ・フォン・ザリーフと申します。まずは単刀直入に結論だけ申しますと……あなた方は今から異世界のダンジョンへと転移することになります』
流麗なフルートを思わせる声音は、聞いているだけで心地が良くなるほどに美しい。
けれどスピーカーから紡がれる言葉は、どこまでも不穏であった。
異世界、今あの王女を名乗る人物は、異世界と言ったのか。
見回してみるが、周囲の反応から察するにどうやら聞き間違いではないらしい。
異世界へと転移。
しかも向かう先はダンジョン……いきなり言われても、あまりに現実味がない。
けれどだからこそ、今自分が置かれている場所が現実であることが理解できてしまう。
(ということは……もう、戻れないのか?)
美愛に起こされ、父に褒められ、母に小言を言われながらも続いていく日常。
振り幅は小さいのかもしれないがその分揺り戻しもない、ゆるやかだけれど平穏な日々の生活。
それが音を立てて崩れ去ろうとしているということに気付き、樹の喉の奥がヒクつく。
彼は自分の日常の戻りたいという気持ちが、想像していたよりもはるかに強いことに気付く。
退屈とすら思っていたはずの日常は、かけがえのないものだった。
恐らくあんな日々のことを、人は幸せと呼ぶのだろう。
樹は失う直前になって初めて、それに気付いた。
「異世界だって!?」
「そんなの嫌!」
「早く私達を帰しなさいよ!」
思わず声を上げそうになった樹がすんでのところで留まったのは、周りにいるクラスメイト達がそれよりも早く騒ぎ出したからだ。
人のふり見て我がふり直せ。樹は狂乱状態に陥っている周りを見ることで、少しだけ落ち着くことができた。
『気が動転するのも無理なからぬことだと思います。ですが一度転移が発動してしまった以上、それを覆すのは神であっても不可能です。残された時間も決して多くありません。ですので私から、ダンジョンについての説明をさせていただければと思います』
こちらの言葉はあちらに届いていないのか、王女を名乗る人物はこちらがはどれだけわめこうが構わず説明を続けていた。
皆も主張をしても意味がないと感じたのか、すぐに黙って話に耳を傾け始める。
その説明を聞きながら、樹は重要そうな情報をノートに要約していった。
1 これから自分達が飛ばされるのは、アードナム群島に存在しているダンジョンであり、未だ攻略が成されていないほどに難易度が高い。現在攻略が確認されているのは第五階層まで
2 元の世界に戻るためには、ダンジョンをクリアすることで手に入れることができる転移装置が必要
3 ダンジョンの中には魔物と呼ばれる、異形の化け物が存在している。ダンジョンを進むためには、魔物を倒して先へ進む必要がある
4 各員が飛ばされる場所はランダムであり、近くにクラスメイトがいる場合もそうでない場合もある
5 現在持っているものは転移の際にそのまま持っていくことになる
6 各員は転移の際、安全地帯と呼ばれる魔物が出現しないエリアへと飛ばされる。そして安全地帯では、ダンジョン攻略に必要な補給物資が提供される。安全地帯はダンジョン内に定期的に配置されているので、ここで休息を取りながら補給を行い、ダンジョン攻略に挑むのがもっとも効率がいいということ
(ふむふむ、なるほど……)
いきなり丸腰で戦うことになるのかと思いビビっていたが、どうやらそういうわけではないようだ。武器が手に入るのであれば戦いもずいぶんと楽になるだろう。
(仕様から考えるなら、基本的には仲間を募ってパーティーを作って、複数人で戦った方が生き残る確率は高そうだよね)
ゲームと違い人数制限などがあるわけでもないので、できることなら仲間を増やして複数人で動いた方が生存確率は上がりそうだ。
今後どうすれば生き残れるかを考えているうちに……樹の思考にノイズがかかる。
何か違和感があった。
先ほどまで自分は、元の世界に強く帰りたいと思っていたはずだ。
けれど今は不思議なことに、異世界に行くという超常現象をさも当然のように受け止め、生き延びるための術について考えている。
与えられた情報の全てを、疑うこともなくさも当然のように鵜呑みにするなど、基本的に疑り深い逆張りオタクである樹からすればありえないことだ。
(思考誘導……かな? ダンジョンを攻略しなければ帰れないって刷り込みみたいなものを植え付けられてるとか)
いきなり自分達に干渉することができるだけの力を持っている人間がただの善意で声をかけてきてくれていると考えるほど、樹はお人好しではない。
そもそもあの王女はなぜ、ダンジョンの転移装置が最奥にあることを知っているのか。
自分達が転移するダンジョンの細かい仕様を知っているのもよくよく考えればおかしなことだし、このダンジョンを攻略するのを当たり前と考えさせられるような何かも不愉快だ。
ひょっとすると自分達が転移したのも、この王女とやらの差し金かもしれない。
『それでは皆様がダンジョンの最奥に辿り着くことができるのを、心から願っております』
(とりあえず王国のことは信じずに進んでいくしかないか……ダンジョンの情報も意図的な歯抜けがあると考えて、油断せずに行こう)
急ぎ自分の席に戻り、ダンジョン探索に必要そうな物を探し始める。
他のクラスメイト達も同じことをし始めているが、他の生徒達の確認するだけの余裕は今の樹にはなかった。
学生鞄の中に荷物を整理し、その中にジャージを突っ込んだところで、スピーカーがブツッと音を立てて消えた。
そして次の瞬間、今度は一気に視界が明るくなる。
その光源は上ではなく下。
急ぎ見下ろしてみれば、クラスメイト一人一人の足下に幾何学模様の魔法陣が浮かび上がっている。
そして輝きは目を開けていられないほどに強くなってゆく。
己が思考誘導を受けていると気付くことができたからか、彼の帰りたいという気持ちはますます強くなっていた。
なんとしてでも、帰るのだ。たとえ何を犠牲にするとしても。
決意を新たにした樹は意識を失う。
そして教室そのものが跳んでいった――。
その日、阿炎高校一年六組の生徒三十一人全員が教室ごと消失するという事件が起こる。
火事や地震が起きたわけでもなく、ただ一年六組の教室だけがごっそりと抜け落ちてしまったのだ。
校舎の三階であったために倒壊することこそなかったものの、下の二階にいた生徒達はバラバラと落ちてくる建材の下敷きとなり重体を負う。
後に『跳ぶ教室事件』と呼ばれるこの事件が一体何者によって引き起こされたものなのか。
日本中のマスコミが調査に乗り出し情報を集めたものの、その原因は終ぞ判明せず、事件は迷宮入りとなるのであった……。
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