第七話:ヒロインの笑顔の裏側
航くんに「年上女性がドキッとする瞬間」なんていう、心臓に悪いアドバイスをしてから数日。私の心は、まるで振り子のように、期待と不安の間を行ったり来たりしていた。彼の書く小説が目覚ましい進歩しているのは素直に嬉しいし、その一助になれている(かもしれない)ことには、ささやかな誇りも感じている。彼からの「弥生さんのおかげです!」「弥生さんの言葉はいつも勇気をくれます!」という純粋な感謝の言葉が、私の心を温かく満たしてくれる。
けれど、その一方で、彼との関係が「頼れるお姉さん」と「小説家志望の年下の男の子」という枠組みに、ますます固定化されていくような感覚も拭いきれなかった。彼は、私の言葉や存在を、あくまで創作の「インスピレーション源」として捉えているように見える。そこに、私個人への特別な感情…つまり、恋愛感情が入り込む余地は、今のところまるで見当たらない。
(…分かってる。期待しすぎちゃダメだって。でも、あの時の「弥生さんならどんな言葉が嬉しいですか?」っていう質問は、少しだけ期待しちゃったじゃない…)
でも、気づけば彼のことばかり考えてしまう。彼からのメッセージを心待ちにし、彼の小説のヒロイン(=私)と主人公の恋の行方に一喜一憂する。そして、最近では自分でも認めたくない厄介な感情が芽生え始めていることにも、薄々気づいていた。
それは、「嫉妬」だ。
航くんが、メッセージで学校のクラスメイトの女の子の話をしたり(もちろん、彼に他意はないのだろうけれど)、あるいは、楽しそうに友人たちと過ごしている様子を想像したりするだけで、胸の奥がチリッと痛む。彼が、私の知らない世界で、私の知らない顔を見せている。その事実が、どうしようもなく寂しくて、少しだけ腹立たしささえ覚える。
(…私、本当にどうかしてる…)
こんなにも、誰かのことで心が乱されるなんて、初めてだ。しかも、相手は五歳も年下の高校生。しっかりしなきゃ、と頭では思うのに、感情が言うことを聞いてくれない。このまま一人で抱え込んでいたら、本当におかしくなってしまいそうだ。
「…美咲に、話してみようかな…」
思い立ったが吉日。私は、大学の講義が終わるとすぐに、友人でありバイト仲間でもある早川美咲にメッセージを送った。『今日、バイトの後、少しだけ時間ある? ちょっと聞いてもらいたいことがあって…』と。すぐに『OK! 例のカフェで待ってる』と、頼もしい返事が来た。
バイトを終え、私たちは大学近くのお気に入りのカフェに向かった。窓際の席に座り、それぞれドリンクを注文する。美咲は、好奇心と心配が半々といった表情で、私を見つめている。
「で? 珍しく弥生から呼び出すなんて、一体どうしたのよ。まさかとは思うけど…例の年下くん絡み?」
席に着くなり、美咲は核心を突いてきた。本当に、この子の勘の鋭さには敵わない。
「…まあ、そんなところ」
私は、観念して小さく頷いた。カフェラテの泡を、ストローで意味もなくかき混ぜながら。
「やっぱりね! 顔に『悩み事あります』って書いてあるもん。で? 何か進展あったわけ?」
美咲は、身を乗り出して聞いてくる。その瞳は、ゴシップ好きの好奇心でキラキラしている。
私は、深呼吸を一つして、ここ最近の出来事と、自分の心境の変化を、正直に話し始めた。航くんとのメッセージのやり取りが増えていること、彼が私の些細なアドバイスを素直に受け止め、小説が格段に面白くなっていること、そして…彼に「年上女性がドキッとする瞬間」なんて聞かれて、激しく動揺してしまったこと。航くんの質問の真意が分からず、どう答えたらいいか困っていることも打ち明けた。
「…それでね、最近、彼が他の女の子の話とかしたり、私の知らないところで楽しそうにしてるの想像するだけで、なんか…モヤモヤしちゃって…」
そこまで話して、私は俯いた。自分の感情を言葉にするのは、やはり恥ずかしい。
「…私、やっぱりおかしいのかな。年下の男の子相手に、こんなふうに思うなんて…」
私の告白を聞き終えた美咲は、しばらくの間、何も言わずに、じっと私の顔を見ていた。そして、やがて、大きな大きなため息をついた。
「はぁー…。弥生、あんたねぇ…」
その声には、呆れと、同情と、そしてほんの少しの面白がる気持ちが混じっていた。
「おかしいも何も、それ、完全に恋しちゃってるってことでしょ!」
バシッ!と美咲の手がテーブルを叩いた。
「恋…」
分かっていたけれど、改めて断言されると、やはり衝撃が大きい。顔が、カッと熱くなる。
「だって、そうでしょ? あいつのことで頭がいっぱいで、メッセージ一つでドキドキして、他の女の子の影にヤキモチ妬いて…。それ、どう考えても、ただの『弟分』に対する感情じゃないわよ。完全に、恋する乙女の症状じゃん」
「で、でも…相手は高校生で、五歳も年下で…」
「だから、それが何だって言うのよ! 前も言ったでしょ、好きになるのに年齢なんて関係ないって!」
美咲は、きっぱりと言い放つ。その潔さが、今の私には眩しい。
「…でも…彼は、私のことなんて、全然意識してないと思う。ただの、都合のいいアドバイス役、くらいにしか…。『ドキッとする瞬間』なんて聞いてきたのも、全部、小説のためなんだよ?」
弱気な言葉が、また口をついて出る。自信がないのだ。彼が、私と同じ気持ちでいてくれるなんて、到底思えない。
「都合のいいアドバイス役ねぇ…。本当にそうかしら?」
美咲は、意味深な笑みを浮かべて、私の顔を覗き込んできた。
「その航くんって子だって、弥生のこと、ただのアドバイス役なんて思ってないんじゃないの? 少しは、弥生のことを異性として見てるからこそ、あんたの意見を参考にしたいって思ってるんじゃないの?」
「え?」
「だって、考えてみなさいよ。ただのアドバイス役に、そんなプライベートな質問したり、『取材』とか言って二人きりで出かけようとしたりする? しかも、弥生の弱点とかまで聞いてきて、『魅力的だ』なんて言うんでしょ? あれだけあんたの反応を気にしてる彼が、本当に小説のためだけだと思う?」
「そ、それは、キャラクターとして、って言ってたけど…」
美咲はニヤリと笑い、そして少し意地悪そうに言った。
「これさ、もう航くんが実は鈍感系主人公じゃなくて『フリ』だったら、あんた完全にもてあそばれてる感じよね。ま、そんな事はないんだろうけどさ。」
「も、もてあそばれてる…!? ま、まさか、航くんがそんなこと…! でも、美咲にそう言われると、ちょっと不安になるかも…。あの子、本当にピュアだと思うけど…。でも、彼の言動に一喜一憂しちゃってるのは、否定できないかな…。」
私は慌てて付け加えた。
「はいはい、その『キャラクターとして』が怪しいのよ。男の子なんて、単純なんだから。興味のない相手に、そんなこと言わないって。それに、弥生も、航くんのこと、ただの相談相手ってだけじゃないんでしょ? あいつの才能に惹かれてるだけじゃなくて、あいつ自身に惹かれてるんでしょ?」
美咲は、妙に自信ありげに言った。彼女の言葉は、私の心の奥底を見透かしているようだ。
「…本当に、そうかなあ…」
「そうだって! 多分、彼も弥生のことが気になってるんだよ。でも、年下だから、どうアプローチしていいか分からなくて、『取材』とか『小説のため』とか、色々と言い訳してるだけなんじゃないの? 弥生が、あいつに少し隙を見せれば、あいつももっと踏み込んでくるかもしれないわよ」
美咲の言葉は、まるでラブコメの解説のようだ。でも、もし本当にそうだとしたら…?
「…じゃあ、私は、どうすればいいのかな…?」
期待と不安が入り混じった気持ちで、私は尋ねた。
「決まってるじゃない」
美咲は、ニヤリと笑って言った。
「さっさと、告っちゃえばいいのよ。…まあ、いきなり告白はハードル高いか。じゃあ、まずは航くんにもっと分かりやすくアピールしてみなさいよ。『頼れるお姉さん』の仮面なんか脱ぎ捨てて、『あなたのことが気になってるのよ』って、態度で示しなさい!」
「アピール!?」
「そう! 弥生はね、もっと自分の魅力に自信を持つべきだよ。完璧じゃなくても、ちょっとドジで、怖がりで、でも優しくて一生懸命なあんたを、きっと航くんも好きになってくれる。…ううん、もしかしたら、もう好きになってるかもよ?」
「そんなこと…」
「できる、できない、じゃないの。やるの!」
美咲は、私の言葉を遮って、力強く言った。
「嬉しい時は、素直に喜んで、もっとはしゃいでみたり。不安な時は、『ちょっと心配だな』って、甘えてみたり。ヤキモチ妬いたら、『他の子と仲良くしないでほしいな』って、可愛く拗ねてみせたりとかさ。あいつに『弥生さん、もしかして俺のこと…?』って思わせるくらい、積極的に行ってみなさいよ!」
美咲の言葉は、まるで魔法のように、私の心に染み込んできた。
自信なんて、全然ないけれど。素直になるのは、すごく怖いけれど。
でも…。
このまま、何もせずに、後悔するのは、もっと嫌だ。
彼が、他の誰かのものになってしまうのを見るのは、もっともっと嫌だ。
(少しだけ、頑張ってみようかな…)
完璧じゃなくていい。不器用でもいい。
航くんの前で、もう少しだけ、本当の自分を見せてみよう。
彼に、私の気持ちが、少しでも伝わるように。
それが、彼との関係を、良い方向に変えるきっかけになるかもしれないのだから。
「…うん。分かった。少しだけ…頑張ってみる。まずは、航くんに、もっと私の気持ちが伝わるように、素直になってみる」
私は、意を決して、そう答えた。
「よし! その意気よ!」
美咲は、満足そうに頷いて、私の肩を力強く叩いた。
「もし、また何かあったら、いつでも聞くからね! 弥生の恋、全力で応援するから!」
「…ありがとう、美咲」
私は、心からの感謝を込めて、友人に微笑みかけた。
一人で抱え込んでいた重い気持ちが、少しだけ軽くなったような気がした。
カフェからの帰り道、空は綺麗な夕焼けに染まっていた。
私の心の中も、まだ不安や戸惑いはあるけれど、ほんの少しだけ、前向きな光が差し込んできたような気がした。
「素直になる」、か。
言うのは簡単だけど、実行するのは難しい。
でも、やってみなければ、何も変わらない。
私は、スマホを取り出し、航くんへのメッセージ画面を開いた。
『航くん、今日もお疲れ様(^^) 執筆、捗ってるかな?』
いつも通りの、当たり障りのないメッセージ。
でも、その最後に、ほんの少しだけ、勇気を出して付け加えてみた。
『…私も、航くんの小説、早く続きが読みたいな。…それと、航くんの声も、少し聞きたいかも…なんてね。今度、また「取材」に付き合ってくれたら嬉しいな。今度は、私が航くんを取材しちゃおうかな? なんてねっ』
照れ隠しに、おどけた顔の絵文字を一つ添えて。
送信ボタンを押す指が、やっぱり少しだけ震えた。
でも、これでいいのだ。これが、今の私にできる、精一杯の「素直」なのだから。
彼からの返信を待ちながら、私は、空の色と同じように、少しずつ変わり始めていくであろう、自分の恋の行方に、思いを馳せるのだった。彼が、このメッセージにどう反応してくれるのか、期待と不安で胸がいっぱいだった。
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