ささらさらさら。

柴又又

第1話

 夫が浮気した。

 弁護士事務所にてその言葉を耳に流し込まれた。

 肌が張り付いている。喉に渇きを覚え鳴らしてもただ苦く苦しい。

 気付いていなかった。何を告げられているのか理解できなかった。だけれど、それが事実である事は理解できた。

(どうして? なぜ?)

 夫の顔を――怒りとか憎しみとか、もっとそんな強烈な感情に囚われるかと考えていた。考えていたよりも濁りを帯びて。ただ只管に喉から言葉を紡げられないだけだった。

(本当なの? 何か言って? どうして何も言わないの?)

 ただただ静寂の中――その沈黙の長さだけが肯定を促し、耳元で鳴り響く心臓の音が耳鳴となり痛いだけ。

 夫と名を呼び慕っていた男性の項垂れた姿を眺めて言葉を失うただそれだけだった。

(何か言ってよ……)

 視線の向こう側。

 向こう側にはスーツ姿の端正だけれど草臥れた男性が、その隣には嗚咽を漏らす女性が座り込んでいた。その間には隙間があり、その間は私の隣にも確かに存在していた。

「うちは離婚します。貴女はどうしますか?」

 そう告げられて、ただただ静かだった。夫が私を眺めている。懇願するように眺めている。言葉を待ち体を震わせている。まるでチワワのように。


 急にそんな言葉を浴びせられても――机の上に並べられた写真。無造作に置かれたUSBフラッシュメモリ。

 映像を映していないのは……きっと残酷な優しさなのだろうなと。その苦さと言ったら堪らない。頭を打ち据え心臓を穿ち苦しめる。

 ソレガジジツデアリウケイレルナラコタエハヒトツシカナイ。

 だって貴方は私以外を愛したのだから……。

 起こってしまった現象を受け入れて差し出す答えは一つしかない。

「……離婚します」

「待ってくれ‼」

 良く考えてもいなかったし、今後の事とか未来とか明日とか今後とか両親とか何も考えていなかった。口から自然とその言葉が漏れていた。感情の起伏がなかった。

「私の妻が申し訳ありませんでした。私は妻には慰謝料を請求しませんので、妻には私の分も容赦なく慰謝料を請求して下さい。私は相手にも慰謝料は請求しない代わりに、貴女に多めに払って頂きます。この度は誠に申し訳ありませんでした」


 なぜこの人が私に謝るのだろう。

 悪いのはこの人ではないのに。どうして慰謝料をいらないと告げたのだろう。痛くないのだろうか。苦しくないのだろうか。それが不思議だった。なぜだか私は笑っていた。きっと引きつった苦笑いだったのだろうな。

 相手と連絡先を交換して別れた。

 夫は私の後をとぼとぼと歩き続いて来たけれど……途中でタクシーを拾って置き去りにした。一緒にいたくなかった。ホテルに泊まった。ずっと眠れずに夜が明け、うとうとしているとチェックアウト後の清掃係の方がドアを開き、その音で我に返った。

 机の上に置かれた資料と。

 事細かに書かれた詳細と。

 逃れようのない事実と現実と。


 スマホには夫からの着信が何件も表示されており。

 裏切られた事実に変わりはなく――スマホを掴み投げ……られなくて。

 ただ何となく、これからどうすればいいのか考えられなくて、浮気相手の旦那さんに、どうすればいいのか聞きたくて連絡を取っていた。

「お電話ありがとうございます。あの? ……もしもし?」

「……あっはい……あの、失礼致します。昨日は……あのっ。昨日の妻、あの妻の方です……」

「あっ……はい。何か不満がございましたか? どうかされましたか?」

「いえ、不満等は特に……ただ……ただ……私は……どうすればいいでしょうか? 貴方はどうしていますか? 何をすればいいのでしょうか?」

「……今何処ですか? 少しお話を致しませんか?」

「今は……」

 居場所を伝えると近くのカフェで落ち合う事となった。

 数十分後に現れた男性は昨日と同じ服装で、中途半端にヒゲが生え、シャツも昨日よりよれよれで。それを清潔ではないと感じつつも、今の自分も似たようなものだと初めて気が付いた。


 昨日と同じよれよれの服――落ちかけた化粧、寝不足で視界が痛くて。

 私を眺めて自分の姿を鑑みたのか、相手の男性もお店や私に対して少し申し訳なさそうな表情をして縮こまっていた。

「すみません……こんな格好で」

「いえ……私も、似たようなものですので、すみません」

 少しの沈黙の後、少しずつ少しずつ言葉を汲み交わし始めた。これからどうすればいいのか一緒に考えてくれた。まずは両親に連絡を入れた。両親は私の話を聞いて一度実家へと戻って来なさいと心配してくれた。それから相手とはどうするのかと質問攻めにあい、今は忙しいからと一度通話を切った。

 心配してくれてありがたいのに、内に無い答えを必要に求められるのが苦痛だった。

「いいご両親ですね」


 そう告げられて少し恥ずかしかった。普通の両親だけれど確かに今の私と比べれば随分と立派な両親なのだろう。少なくとも今もまだ夫婦で添い遂げている。

「次は、どうすればいいでしょうか?」

「……離婚、なさるのですよね?」

「はい」

「離婚届はもう……?」

「いえ……何処へ行けば良いのでしょうか?」

「市役所へ行けば頂けますよ」

「貴方はもう頂いたのですか?」

「えぇ……。ただ妻がなかなか了承してくれないもので……」

「そうなのですね。奥さんとは長いのですか?」

 なんとなくそう言葉を投げていた。ひどい言葉だったのかもしれない。ノンデリ発言だったのかもしれない。相手は少し困惑した後に、馴れ初めを語ってくれた。

 小学生の頃からの付き合いなのだと語ってくれた。男性は妻との思い出を懐かしく苦く痛そうに語ってくれた。それはとてもとても尊くてそして……涙を流す男性を眺めて、壊れてしまって二度と元には戻せないものだと実感した。


 それは私も同じだ――彼のワイシャツを干すのが好きだった。彼が料理を美味しく食べてくれるのが好きだった。いってらっしょいと言葉を投げるのが好きだった。彼と歩くのが好きだった。彼のニオイが好きだった。落ち込んだ時励ましてくれて優しかった。旅行での思い出も結婚式の思い出も、失敗した経験も喧嘩した時の歯がゆさも、全部全部愛しいもののはずだった。それなのに……それなのに今はその全てが砂屑のように零れおちてすり抜けて。すくってもすくってもサラサラと。

「……すみません」

「いいんです……いいんです」

 気が付くと私も耐えられていなかった。涙が溢れて止められなくて。男性の手を握り本当は大声で泣きたいのだけれど、大人だからそれはもうできなくて、お店にも迷惑だからと我慢して、二人共それを理解していて、ただただ強く手を握り合って涙に耐えて抗うに。

 察して静かにしてくれているカフェの方々に申し訳が立たなくて。

「貴方は……どうして慰謝料を放棄したのですか?」

 落ち着いてからそう問うと男性は。

「愛情はお金では買えません。それに、そのお金を、嫌悪してしまうと、思うから」

 愛情はお金では買えない。それは理解できたけれど、お金を嫌悪するのは理解できなかった。相手に重荷を背負わせ苦しめる事で自らを慰める。そのための慰謝料だと考えている。


 これ以上はお店に迷惑だからとお店を後にして。でも一人にはなりたくなくて、それは相手も同じで、何処か落ち着ける場所はないかと。

 すみません。すみませんと男性はそう語るばかりで私もすみません、すみませんと同じ言葉を必要に繰り返すばかりで。

 押し寄せて来た実感は大波のように。

 痛くて痛くて堪らない。それをどうにかしたいのに、それをどうにかする術を知らない。眩む足取りを支えられていて、収まると溢れ出していて、そのどれもが無意味で、浮気資料の映像が何度も脳裏を流れ、何が許せないのかも理解できず……見上げると、同じ痛みに顔をしかめた男だけがいた。

 自然と唇を重ねていた。私から求めていた。それが間違いだとかダメな行為だとか、そんなことは考えてもいなかった。もうどうでも良かった。ただ虚しくて空虚で。そして一人にはなりたくなかった。


 それは相手の男性も同じだったのだろう――申し訳なさと苦しみの間で藻掻いている。もう二度と戻らない事実に抗う術を持たない。覆らない。無くならない。それが虚しくて悲しかった。

 夫が私の知らない女性と行為を行った事実。

 妻が貴方の知らない男性と行為を行った事実。

 その事実だけが確かな証拠として残り、そのどれもが胸の内を八つ裂きにするだけはする。


 ホテルを眺め戸惑い、入り口へと向かい戸惑い、部屋へと入り戸惑う。

 これはダメだと二人とも理解しているから戸惑うのに、でもここで一人になったらそれこそ耐えられなくて進のもやめられない。

 お風呂にも入らず、楽しむこともできず、それは相手も同じようで、ただ入って来たと――。

 雨は止まず、まつ毛が触れ合う感触だけが妙なリアルを引きつれて。

 愛し合うとは程遠い。超えてしまった一線と踏み込んでしまったその先と。もう戻れない一線と、ただただ虚しいだけの関係。それでも他に慰め合う術を知らない。酔う瞬間だけに痛みを忘れてただそれだけを求めて。

「……貴女がいなかったら、ダメだったかもしれない」

 そう告げる男性に頬を寄せて。また痛みに襲われて求めて。

「私も同じです」

 ただ違ったのは男性の接し方が愛情深かったと言う事実だけ。


 傷んだ傷口を無理やりに塞ぐからすぐダメになる。

「責任は取りますから……」

 そう告げる男性に。

「取って下さるのですか?」

 そう答えていた。あんなに善良だと信じていた夫でも浮気をする。私にはもう……。

 自分達のひどい恰好を眺めお風呂へと。背後から抱きしめられてその肌の温もりに救われる。

「すみません……」

「謝らないで下さい」

 振り返り口元へと唇を寄せる。ヒゲがチクチクとして痛み。喉元へと唇を寄せる。胸元へと唇を這わせる。伸びて来た手が体を包み込み撫でられて。

 何度も何度も何度も苦しくなるたびに求め合い……だけれどいくら無理やりに傷口を瘡蓋で覆っても剥げたらよりただ痛むだけ。

 それをお互い理解していても離れる事ができず。延長に延長に、延長に延長に――。

 それでも朝は訪れず。

 着信を灯すスマホを投げつけるだけ……。


 何度も何度も場所を変えホテルを変えて――交わり交わり交わり交わり。食事と交わり、吐いてまた交わり喉の奥へと押し込めてまた吐き出し押し込めて。

 指の形を撫でながら映画館のその中へ。疲れ切り動けなくてうるさい音と身を寄せ合う体温の中だけが――やっと眠りへと落ちられる場所。

 ろくに知りもしない男の鼓動の中だけが安息の場所だなんて。

 それでも私には、この人以外の苦痛を和らげる薬を知らなかった。


 男性が務めている会社の近くに間借りした部屋へと押しかけて。自宅への帰宅を拒否するばかり。脳裏を過る幸せの残り香を嗅ぐのに耐えられそうもなく。実家に帰らなかったのは、どんな顔をすればいいのか判断できなかったから。きっと心配してくれている。それを理解していたから余計に恥ずかしく。両親に今の自分の表情を知られたくもなかった。

 求めて来るのを拒まなかった。私も辛い時は求め、彼にそれを拒まなかった。


 お互いを慈しまぬばかりに。

 深く息をするように。

 ただ抱き合い深く息を吐き、狂ったように力尽きた後だけが安息の時間と場所で。


 朝玄関で仕事へと向かう彼を見送る――強く抱き締められて何度も唇を奪われて、何度も求めて求めあげて。見上げて求めて。肌の白さに滲む赤だけが、それだけが貴方と私の傷跡を明白にする。

「……早く帰って来て下さい」

 そう告げて見送る――見送り食器を片付けながら彼の形が残ったお腹を撫でる。

 離れると不安になり早く帰ってきて欲しくて、会いたくて、そんな彼を考えながら。

(私の旦那様って彼だっけ?)

 そんな錯覚さえ――蹲り痛みに悶えて指を這わせて責めて逃げ惑う。


 逃れられない現実でもあって。

 彼が離婚するために集めたより詳細な調査資料を見つけてしまって。映像を切り捨てる選択肢もできず、止める選択もできず、流れた映像にまた穿たれて。

 関係は一年前ぐらいからあって。


 早く帰って来て欲しくて。

 時間が待ち遠しくて。苦しくて何もできなくて。それが情けなくて。しっかりしなければいけないのに。痛くて動けなくて。早く帰って来て欲しくて。

 お昼になったら帰って来てくれて耐えられなくて甘えてしまって。早くその胸の中へと収まりたくて。収まると動けなくて。彼のワイシャツを滲ませてしまって。私は一体何が悲しいのだろうと。私は一体何が苦しいのだろうかと。早く私を……壊して欲しくて。

 脱いで脱がせて取り出して――無理やり収めるからただただ痛くて。

 彼はお昼を食べに帰ってきたのに。

「……ごめんなさい。ごめんなさい」

 そう謝ると彼は肯定するように私を抱きしめてくれた。

「大丈夫大丈夫」

「私ばっかりこんな迷惑かけて」

 離れないように強く抱きしめてくれて。大丈夫だと告げてくれて。彼だって辛いはずなのに。私ばかり甘えてしまって。何度も口付けを受けて、やっと落ち着いて。この体勢だけが平穏で。

「ごめんなさい」

 見上げると顔色は悪く――それでも微笑む彼がいて。また罪悪感に囚われて。彼だって辛いのに。

「君がこうして甘えてくれるから。俺も楽になれる」

 優しくて。どうしようもなくて。お昼が終わって欲しくなくて。仕事に戻り向かう彼を見送って。何もできなくて。情けなくて。体も心も思う通りに動いてくれなくて。

 そんな自分がどうしようもなく惨めで情けなくて。

 ここにいていいのかと悩んで。

 ポタポタと……垂れる雫を指と足でなぞるしかない。


 彼が仕事を終えるのが待ち遠しくて。迷惑をかけているのがわかっているのに。なんでこんなに苦しいのか。一人になりたくなくて。でも一人になったら耐えられそうになくて。

 彼が戻り訪れる安らぎと彼がいなくなり訪れる苦痛を何度も行き来して。

 元夫との思い出が脳裏を過り、悲しみなのか怒りなのか沸々と沸き上がる感情と理性に体がバラバラになりそうで。そのすべてが無意味で。無価値で。どうにもならなくて。飲み込むしかなくて。

 彼との関係も間違えで。自分の存在が。まるで必要ないみたいに。

 何の価値もなくて。何の価値もなくて。今までのすべてが無駄で無意味で。

 沸き上がる怒りや憎しみ、そして悲しみも。そのすべてに意味など無くて。

 もうどうにもならなくて。惨めにメソメソと泣いている自分が恥ずかしいのに。体が思う通りに動いてくれないなんて。


 そんな私を……彼が一晩中抱きしめてくれて。

 私は何をやっているのだろうかと。もうどうにもならなくて。もうどうにもならなくて。それが現実で。それが事実で。何をしても覆らない現実で。受け止めなければいけない現実で。息をするのも困難で。

 追い付いて来た思い出と理性と事実がぐるぐるぐるぐるぐるぐる。


 彼の顔を眺めて。その姿を眺めて。私って本当に馬鹿だなって。自分の事ばかりで。

 真っ先に抱きしめてくれる彼を。

 私と同じ苦しみを味わっている彼を。

 その痛みから救ってあげたいのに。

 彼を胸の中へと抱きしめて。受け止めて。頭を撫でて。同じ痛みを共感しているのだと感じたくて。受け入れて欲しくて。それなのにバラバラで。歪な関係だけがそこにあって……。それはお互いの間にあって。

 どうにもならなくて。日々が過ぎるばかりで。どうにもならなくて。


 一人で閉じこもる私を見兼ねて……。

 気持ちの整理が訪れるようにと色々な場所へと連れ出してくれて。

 崖の上にある灯台へ行ったり、海へ行ったり、神社を訪れたり、電車で旅行をしたり、乗船したり。

 取り繕っていたものが少しずつ少しずつ剥がれていって。

 敬語をやめたり、謝るのをやめたり、少し踏み込んで冗談を語ったり、少しポカポカと叩いたり。素を眺めさせて。眺めて。体温だけは必要に重ねて。それでも囚われていて。体温だけを重ねて。早く埋めて欲しくて。

 何度癒されても時折訪れる痛みに悶えて求めて求められて。

 大事にしてくれているのがわかって。ちょっとした仕草で大切にしてくれているのが理解できてしまって。それが途方もなく悲しくて。

 そのどの仕草にも誰かに与えていた面影がり、そしてどの仕草にも誰かが重なっていて。

 それを押し殺して噛み殺して。


 お皿を取り渡してくれる仕草が。お箸を手渡してくれる仕草が。お皿を下げてくれたり、いつの間にか洗濯機を回していてくれたり、何度も唇を寄せてくれたり、抱きしめさせてくれたり、抱きしめてくれたり。こちらの仕草を眺めて、胸の内へと抱きしめてくれて。中へと並々と注いでくれて薬を飲まなくていいと言ってくれて。

 脱いだ靴をそろえてくれたり、飲み物をそっと用意してくれたり。

 おかしいの。言い合いをしているのに笑っているの。

 怒っているのに、笑っているの。

 怒っている途中に唇を寄せられて。それはとても卑怯で。フグみたいに頬を膨らませて。何も言葉が投げられなくて。にらみつけるとまた頬に唇を寄せられて。それはずるくて。

 出会いの話だけができなくて……。

 面影が重なって……。

 それに見ないふりをして……。


 一度実家へと帰って。

 両親は心配そうに出迎えてくれた。大丈夫って伝えた。

 お父さん。お母さん。ありがとう。

 何日か過ごしたけれど、早く彼の元へと戻りたい自分でいっぱいだった。

 ごめんね。お父さんお母さん。私、ダメだった。


 元夫とも話をつけた。

 元夫も草臥れていた。この人がなぜ傷ついた顔をするのかが理解できなかった。

 書いたまま放置していた離婚届を差し出すと元夫の手は震えていた。

 浮気の経緯を伺った。半年前からだと告げられた。

(どうして最後まで嘘をつくの?)

 でももうどうでも良かった。

 仕事の後輩で仕事終わりに飲んで帰る事となり、羽目を外しすぎて一線を越えてしまったと元夫は語った。大きな商談を二人でこなし成功して舞い上がっていたのだと。

 それが越えてはいけない一線であった事を、深く考えてはいなかったのだと。

 それで私がどれだけ傷つくのかを考えられなかったのだと……。

 私は所詮――貴方を支えているつもりになっていただけのただのピエロだった。

 そのお祝いを私として欲しかった。料理に腕を振るわせて欲しかった。お祝いの言葉を送りたかった。いっぱい愛情を込めたかった。

 でもそれは多分、私の我儘だったのかな。

 一度超えられた線は易々と超えられて慣れてゆく。


 昔話をした。付き合い始めた頃の話。初デートの話。一緒にテスト勉強をした時の話。ファーストキスの話。初めての話。積み上げて来た一つ一つの話。あの頃はこんな事があったね。あんな事があったね。あの時は辛かったよね。あの時は楽しかったよね。夫婦になった時の話。プロポーズの言葉。結婚式。一緒にいようと決めた夜。誓いの言葉。

(私を幸せにしてくれるって言ってたよね)

「……あの時は君が。でも」

(ねぇ? 今の私って、幸せ?)

 その一つ一つが割れてしまって欠片のようで、触れるたびに何処か痛くて苦しくて。ささくれ立って指を刺し。良い思い出も悪い思い出もあるはずなのに、そのどちらもただ滲むだけ。

(私のせいなのかな……。私に悪い所があったのかな……)

 おかしいの。

(貴方には私が幸せに見えるの? これが、幸せなの?)

 思い出の言葉すら途切れて残ったのは重い沈黙だけ。

「……もう一度、やり直してもらえないだろうか」

 その言葉に何も返せなかった。

(私が悪いんだよね? 貴方が浮気したのは……。私が悪いんだよね?)


 貴方の幸せに、私はいないのね。

 私には、この痛みは、耐えられない。

「……さようなら」

 告げられる言葉はただそれだけで。

 その言葉を聞いて元夫は聞くに堪えない罵詈雑言を並べた。腕を掴まれて警察を呼ばれてやっと離れられて、もう会わないと誓った。

 俺がいないと稼ぎも無い癖に。俺から離れて生きていけるのか。

 綺麗に伸ばしたワイシャツも、貴方を思い作った料理の数々も……すべてが無駄だった。

 離婚届を市役所へと提出して。眩しさを失った思い出をゴミ箱へと落とした。

 あの女性を抱きに行けばいいのに……。

 自分を責めて落ちて込んで、あなた達を怨んで怒りを抱え、憎しみに身を包んで、自らが同じ過ちを犯している事実にふさぎ込むしかない。

 もう何もない。私には何もない。この感情以外に何もない。

 それでも、一人では生きて行けない。


 帰ると彼は家にいて。居間でコーヒーを飲んでいた。

 喉の鳴る音がして。近づくと不安そうに不満そうに葛藤を味わっているかのようで、それを悟られたくないのか無表情で。何も気にしていないふりをしていて。前の私だったら気付けなかったのかもしれないなんて。

 どうして不機嫌なのかと嫌な気持ちにもなったのかもしれないだなんて。

(私が元夫と会うから不安だったのよね?)

 それがわかってしまう。

 彼の気持ちが理解できてしまう。

(大丈夫。大丈夫よ)


 唇を寄せると手を掴まれて。今すぐにでも強く抱きしめたいのにとそれを抑えるように留まった彼。手を離して、ゆっくりと腰へと回る腕に絡めとられて。不安そうに。拒否されないかと探るように。優しくて。それが心に染み入るようで。全てがどうでも良くなって。救われてしまって。

「……ごめん。急に掴んで」

 柔らかく包み込まれてゆく。

「ううん。いいの。もっと強くして……」

 腕に重なる手の平の跡。痛みすら心地良い。

「いい?」

「……はい。ここをいっぱいに満たして下さい」

 その日は必要に求められた。離さぬとばかりに求められた。手放したくないと語らぬばかりに求められて。もう俺の物だと語らぬばかりに求められて。それなのに何処か優しくて。自分本位ではなくて。子犬みたいで。熱を帯びて溢れ。ゆらゆらと揺らめいて熱く。

 温かみの中で揺らめいて。喜びの中で揺らめいて。

 自分が欠けて壊れていて。


 もう果てたはずなのに――彼は私を寄せて離れず。耳元で打ち鳴らされるリップ音に悶えて。あまりにも満たされて満たされているのにゆらゆらと。ただ繋がるだけではない睦みの揺り籠の中にいて。

「……もっと」

 そう告げると強く強く胸の内へと収められて。密着させられて。

 私はその時、蛹から孵ってやっと濡れた羽が乾いたような気がした。

 朝目覚めて彼の上。甘えるように身を寄せて。

 もう離れられない。離れない。欲しい。


 次第に元夫に対しての怒りや憎しみが薄まり始め、そのどれもがどうでもよくなって。

 元夫や彼の元妻から定期的に振り込まれる慰謝料を眺めて彼の言葉を思い出し。

 振り込まれるお金を彼と私の生活にも使いたくないと感じるようになり。生じた嫌悪は一入で。お金はお金なのに。それは理解しているのに。彼に触れさせたくないなんて。彼との思い出の中に僅かでも混ざって欲しくないなんて。


 しばらくして彼の元妻が訪ねて来て。私の敵が訪ねて来て。正々堂々と追い返してやりたかったのに……。彼は私を隠して会わせてはくれなかった。

 少し話をしてくると外へと行ってしまった。

 なんて嫌なものなのだろう。彼の優しさが憎らしかった。元妻が傷つかぬように私を隠したのだろう。もちろん私に危害が及ばぬように隠したのも理解できる。ただ元妻にもその配慮を与えた彼には堪らない苛立ちを覚えた。

 勘違いしないでほしい。嫌いなわけじゃないのよ。

 同時に――私が元夫と話をした時、彼はこんな感情を抱いていたのだろうなと何となく理解して何とも悶えてしまった。私はなんてひどい仕打ちを彼に与えてしまったのだろう。あのように求められても仕方がない。なんて愚かだったのだろう。少し考えれば理解できるはずなのに。


 ヤキモキして一時間。グルグルグルグル。早く時間が過ぎて欲しいのに一秒が妙に長くて……。

(いつ帰ってくるの? ねぇ?)

 スマホを睨む自分がいる。なんてもどかしいのだろう。なんて嫌なのだろう。だけれどその暗い感情がとても好ましくもある。

 メッセージを打とうか。早く帰って来て。早く。すぐに。今すぐに。その文字が打てなくてスマホを投げたい気持ちにもなる。

 彼は息を切らせて私の元へと帰ってきた。私を眺め安堵の息を吐く姿を眺めて愉悦にもなる。

(私が心配だったのよね? 気持ちはわかる。わかるわ。でも噛むね)

 噛みつかずにはいられない。腕を取り噛みついて。驚いてはいたけれど、受け入れてくれて。噛む力が甘くてハムハムと。頭を撫でられて少し力を込めて噛みついて痕を……。それでも彼は痛みを我慢して優しかった。そして甘く噛みついてくる。

「怒ってる?」

「すごく怒ってる。すごくね」

「ごめんね。もっと痕をつけていいよ」

「そう言うところがすごく嫌。勘違いしないで。嫌いなわけじゃないのよ。ただすごく……不快」

 貴方が優しくするのは私だけにするべき。そうするべき。

 やり直したいとでも告げられたのかしら。そうよね。わかるわ。あーやだやだ。やだやだやだやだ。やだやだやだやだやだ。薄暗い感情が私の中で渦巻いている。

「来て」

「え?」

「早く」


 口も胸も足もお腹も。貴方を虜にするためなら私はなんだってする。

 ベッドの上では息も絶え絶え。

「ダメ、ダメダメダメ。わたしの。わたしの」

 そう駄々をこねる私は子供みたい。誰にも覗かせてあげられない貴方だけが眺められる私。

 私が求めるとの同じぐらい乱れて求めてくれて。胸の内から悦にも似た渇きのようなものが溢れてきて。でも乾いているわけじゃないの。むしろ溢れているような。ずるいな。ずるい。

「……やりなしてもいいのよ?」

 残酷な台詞を投げると彼の顔は怒りに歪み乱暴に求められて、それを待ち望んでいる私がいる。

「君を絶対に離さない。逃がさない」

(そうだよね? そうだよね……)


 ほどなくして私達は夫婦となった。

 私は旦那様の傍をなるべく離れなかった。そして旦那様も私の傍を極力離れなかった。磁石みたいにくっついて離れない。共依存でも構わない。何処か歪で愛情深い。痛みを知っているからこそ離れられない。体中にはリップ跡。誰にも見せられないね。消させないからね。絶対に……。

 長く暮らせばお互いの悪い所が目立ってくるなんて。けれど私は相手に好かれるために作り上げていた仮面が剥がれただけだと考える。

 それは悪い所ではなく素なのだ。

 子供はどうしようかとそのような話は一度行った。

「もう少し……二人っきりでいたいかも」

 旦那はそう口を濁らせていた。親戚の子供を預かった時、この子に性的な印象やイメージを与えてはいけないと感じたのだそうだ。子供がいると自然と控えるようになる。それは私も感じた事実だった。

「私とエッチな事がしたいんだ……」

 そう告げると夫は気恥ずかしそうに頷いた。

「したいんだ……」

 でも子供は早く出来ちゃいそうだね。何人でも産んであげるからね。

 貴方の味もニオイも肌触りも全部私のもの。

 私は蝶へは変われなかった。夫を貪る哀れな生き物へと変わってしまった。それでも構わない。

 波打ち注がれている。奥の奥まで注いで欲しい。

 今は貴方の腕の中……。

 繭を創る夢を見る。

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ささらさらさら。 柴又又 @Neco8924Tyjhg

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