透明人間から剥離したクジラの記憶

時津橋士

第一場面

 ある朝、その町は水に沈んでいた。水害だとか、天変地異だとか、そのたぐいではない。ただその町全体が、ぬるいような、少し涼しいような、そんな水に満たされていたのであった。

 デジタル時計の音でとおるは目を覚ました。アラームを止め、ベッドに腰かける。髪がゆわりと揺れた。窓の外では数匹、銀色の魚が群れて泳いでいた。

「へー」

そう声をらした口から小さな気泡が上がり、細かく震えながら天井の色に同化していった。呼吸は、できる。

「遅れるわよ」

階下から母親が呼びかけていた。心なしか普段よりも声がよくとおるように思えた。

「はーい」

透は同じようによくとおる声で返した。

 姿見の前に立ち、パジャマを脱ぎ捨てるとそれはゆっくり揺らぎながら床へ落ちた。

「へー」

透は床からパジャマを拾い、もう一度落とした。今度はパジャマがペラリとすそひるがえらせて床に落ちた。

「ふーん」

透は水のわずかな抵抗を感じながら制服に着替えた。姿見に映った自分の端が少しだけ重力に逆らって動いていた。

「ほー」

一度飛びねてみた。

「おお?」

着地まできっかり二秒。その素敵な瞬間をもう一度味わおうとした時。

「何してるの! 本当に遅れるわよ」

母親の声で時計を見ると、もう家を出なければならない時刻になっていた。

「あれま」

かばんを持って階段を三段飛ばしに下りると、丁度、母親がリビングから顔を覗かせているところだった。

「やっと下りてきた。遅れても知らないわよ。ご飯は?」

母親がぷくぷくと泡を立てながらたずねた。

「パンだけ食べる」

「そ」

透はトーストにマーガリンを塗りながら庭越しに道路の方を眺めていた。急いで歩いているのであろう人々はスーツにネクタイ、あるいは制服を着て大股にスローモーションのスキップをしていた。

「どっかで見たこと……あ」

その様はアポロの月面着陸の映像を思わせた。

「母さん」

「何?」

母は台所で皿を洗いながら答えた。

“洗い物、どうやって?”

浮かんだ疑問をトーストと牛乳で流し込んだ。

「いつからなの」

「何が」

「水」

「水? ああ。母さんが起きた時にはもうこうだったわよ」

「へー」

テレビからは贈収賄ぞうしゅうわいのニュースが大きめの音量で流れていた。

「あ、スイミー」

透の目の前にどこから迷い込んだのか、小さな黒い魚が現れた。

「ほらよ」

透は食べていたトーストの端を千切って魚に向けてみた。魚はほんの少しそれをつついてまた、どこへともなく泳いでいった。

「早く行きなさい!」

母親がそんな透に向かってとうとう大声をあげた。

「わわ!」

残っていたトーストをひと口で食べ、月面着陸の要領で表へ飛びだした。思い切り閉めたはずの扉は半分しか閉まっていなかった。

「ありゃ」

軽やかに飛び戻り、ぴたりと扉を閉めた時に地味な魚が一匹、家に入っていった。

「ま、いっか」

表ではいつもの街路樹でいつもの蝉たちがいつもどおりに鳴いていた。そして太陽光がいつもどおり、容赦ようしゃなく照りつけていた。いや、太陽光に限ってはいつもどおりでなかった。一度水面にぶつかったそれは水中を少し弱めの出力で照らしていた。

「夏、暑いな」

思わずそうこぼす透の足元や玄関タイル、庭の芝生、あちこちに形の定まらないグレーの影が等速直線運動を時折停止させ、方向を微妙に変えながら動いていた。透が天を仰ぐと大小様々な魚たちがいくつかの小さな群れになって泳いでいた。

「お魚さんたちの影か」

透は目線を上に向けたまま、呟いた。影の主であるお魚さんたちの上には、ランダムにきらめく、空?

「あれは空じゃなくて、水面か」

そう、水面だった。

「遠い」

透はその場でなん度か地面を蹴り、着地までの平均時間を約二秒と算出すると、いよいよ水中へ泳ぎだすための大ジャンプを繰り出すべく、大きく踏ん張ったその時!

「おい、透。何してんだよ」

「あ、伊織いおり。今、お魚さんたちを抜けてお天道様へ直々に挨拶あいさつしようかと」

「なんだ?」

「ちょっくら水面まで行こうかと」

「学校は?」

「あ」

「いつまで腹ばいのかえるみたいな格好してるんだよ。多分もう遅刻確定だぞ」

「マジ?」

「マジ」

「今なん時?」

「えっとな」

伊織がちらりと腕時計に目を向けた途端、遠くで学校のチャイムが鳴った。

「ホームルームが始まる時間」

「あらま。水ん中はよく音がとおるね」

「だな」

「どうする?」

あきらめてゆっくり行こうぜ」

「うん」

せわしない朝はたったひとつのチャイムの音で諦めとゆとりの時間へと変換された。


 やがて国道へ出ると、自動車がやはり普段となんら変わらぬ表情のバンパーで行き交っていた。もっとも、排気口からは無数の小さな気泡を出し、エンジン音も鈍く、低いように思われ、普段と全く変わらない、という訳でもなかった。彼方かなたの山は頂上まで見事に水没していた。透はその方を眺め、不意に町を覆い尽くした水の深さがどれくらいのものであろうかと目算しようとしたが、十七年以上住んでいる町にある山の高さを知らなかったため、すぐにそれを諦めた。


「あ、エイだ」

「透、ちゃんと前見て歩けよ」

伊織は別段この風景に関心も無いようであった。

「はいはい。でも伊織さん。エイですよ、エイ、エイさん。ほら。あっちにはフグさん」

「よく見つけられるな」

「目がいいので」

通学路を透と伊織は悠々ゆうゆうと歩いていた。一度覚悟を決めてしまえば担任からの小言もなんのそのであった。

「ところで伊織さん」

「何?」

「あそこは一体、どうなっているんでしょうか?」

透は遥か上空を指した。正確には太陽光を鱗のように反射させる水面を。

「あそこ? ああ、水面。境目か」

「境目とは秀逸な表現です。あそこを越えれば空が見えるでしょうか。どう思いますか、伊織さん」

「空、なあ。あるんじゃないの」

「おお、ありますか。小生しょうせい、見てみたいであります」

「空なんて、変わらないだろ。昨日までと」

「それでも見てみたいのです」

「空ねえ。あ、そう言われてよく考えてみたら、気になるな」

伊織はそう言いながらも、さして気になってもいない様子で欠伸あくびをした。

「そもそも。一夜にして我らが魚見町うおみちょうは水に沈み、文字通り魚見町となったわけですが、ハイ! 伊織さん。これは一体どういうことなんでしょう? この水の正体とは?」

透は鞄から取り出したハンドタオルを折りたたみ、それをおしぼりのようにくるくると丸めて伊織に向けた。伊織はいつもどおり、透の口調に合わせ始めた。

「透さん、これはずばり、ノアの大洪水再来であります」

「なんと! では我々は箱舟はこぶねに乗せてもらえなかったのですか」

「そうなのだ。あとはじわじわと魚になってゆくしかないのです」

「オヨヨ」

「オヨヨ……ワ!」

制服のそでを目に当てていた伊織が何かにつまずいた。伊織は少しの間地に足を着けず、前傾姿勢でただよっていた。

「お! やってみる!」

透はその場で少し跳躍し、空気中の〇.六五倍速の宙返りをしてみせた。

「これは面白い。伊織さん、次はバク宙をしてみようと思います。見てて」

「なんとおっしゃる透さん。ふと思いだしました」

「なんでしょう」

「今日の一限目は古典です」

「古典……げ」

「そうです。遅刻すれば竹田先生のネチネチ説教が待っているのです」

「走れ! ネチネチネッチーはごめんこうむりたい。伊織さん。アポロの要領で走りましょう」

「よしきた。月面着陸で急ごう」

二人が去った後、一匹のクマノミが伊織の躓いたアスファルトの隆起りゅうきをつついていた。

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