すきに、なった。

月波結

第1話 失恋

 ――時には、恋に落ちることもある。




「だる⋯⋯」

 なんなの? 『話したいことがあるから、会いたいんだけど』って。最後の『⋯⋯んだけど』っていうのがまたわからない。語尾がやわらかければ、優しくなると思ってるんだろうか?


 ない!

 それはないよ!


 大体、話の内容はわかってるんだし。

 同じ学科の大崎かなえと最近、親密にしてるというのはみんなが知ってる話だ。

 もちろん高輪たかなわくんがわたしと付き合ってるというのも、みんなが知ってる話だ。

 つまりわたしは盗られたかどうかは未確認だけど、堂々と男を盗られたことになる。


 この場合、わたしに非があるんだろうか⋯⋯。

 あるんだろうなぁ、きっと。

 高輪くんは王子様のように甘いスイートな彼氏で、わたしを極上の気分にしてくれた。

 階段を上る時にはわたしの一段後ろを、エスカレーターでは手を引いて乗せてくれて、ビュッフェに行けば望み通りのものを持ってきてくれる⋯⋯。

 そんなわたしに愛想を尽かしたと言われても。


 扇風機が室内の空気をかき乱す中、わたしは大の字になって寝転んだ。まさに『驕れる者もひさしからず』、だ。

 涙が目に滲んで、つーっとキレイに一筋落ちた。

 いけない。

 こういうおセンチな気持ちに流されたらいけない。

 わたしはもっと、自分を持って生きていきたいんだ。


真帆子まほこ! アンタまた、洗濯物出てないでしょ!」

 いけない、と思って起き上がろうとするけど、床にべたーっと戻る。

 どんなお洒落なワンピースだって、見せる人がいないんじゃ意味がないもの⋯⋯。


 ◇


『別れ話!?』

『たぶん』

 親友の夏羽なつはちゃんとLINEする。ひとりでは抱えきれなかったからだ。

『それって噂の?』

『たぶん』

『たぶんばっかりじゃん』

『仕方ないじゃん。まだ話、してないんだから』

 少し、返信が滞る。

 スマホがブルッと震える。

『憶測ばかりじゃ何もわからないんだから、一度会って話すしかないね。会いたくない気持ちもわかるけど』

『そうだよね』


 会いたくない、というのは話を決定的なものにしたくないからで、つまりわたしはまだ高輪くんをすきだったみたいだ。

 あの、細い指先を思い出すと、いけない、また涙が出た。ティッシュを取って鼻をかむ。

 ああ、情けない。

 たかが男ひとりのことなのに。


 ベッドに横たわる。

 思い出が、走馬灯のように蘇る。

 ふたりで並んで座ったあのベンチ、初めて繋いだ手、「寒いね」って彼の笑った顔、すべてすべて、わたしだけのものだったのになぁ。

 心変わりって、本当にあるんだなぁ。

 最悪⋯⋯。

 人生最悪の出来事って、本当にあるんだ。


 泣いたってなんの解決にもならないのに、どうにも涙腺が壊れてしまって、栓はどこにも見つからなかった。

 涙で枕を濡らすとはよく言ったもので、枕カバーには涙の染みが出来ていた。

 明日は何を着ていこう。

 この間、買ったストライプのシックなワンピースでいいかなぁ。

 最後なら、ドキッとさせたい。それで気持ちが傾くとは思えないけど⋯⋯。


 ◇


 重い気持ちの中、わたしはデパートに入っているカフェの席に着いた。高輪くんは向かいに座る。

 夏休みに入ったというのに、会ったのは今日が初めてだった。その事実がわたしを打ちのめす。


「元気だった?」

「うん。高輪くんは?」

「元気にしてるよ、暑いけどね」

 彼は風通しの良さそうな、まっさらな白いリネンのシャツを着ていた。あまりに真っ白で、わたしの目には眩しすぎた。

 彼は自分のためのアイスカフェオレと、わたしのためにアイスティーを頼んだ。わたしの好みを把握している。


「⋯⋯話っていうのはね」

「うん」

 その、「うん」の一言にも緊張が走る。どれくらい彼を失いたくないか、思い知る。

「もう知ってるかもしれないけど、大崎さんと付き合いたいと思って、真帆子ちゃんにも承諾してほしいと思ったんだ。大崎さんが悪いわけじゃないんだ。寧ろ、僕がよそ見をしたのが原因で。彼女を悪く思わないであげて」

「⋯⋯うん」


 頭の中にいろんな想いが渦を巻く。

 って、何?

 わたしはそんなに物分りのいい女じゃない。

 でも、わたしに選択肢はないし、切り札もない。

 ここで泣いて縋っても、彼の気持ちは戻ってくる訳じゃない。


「わたし、何か足りなかった?」

 その言葉は声にならなかった。

 日焼け防止に着てきたUVカットの白いカーディガン越しにも、カフェの冷房は効きすぎていた。

 悔しい。


 涙がみるみるうちに盛り上がってきたところに、アイスティーが届いて、芳しい香りが鼻腔をつく。

 カバンからごそごそハンカチを出す。高輪くんに似合う女になりたいと思って買った、薄手の花柄のハンカチ。

 随分、背伸びしてたんだなぁと思う。

 カチッと音を立てて、ガムシロをグラスに入れる。一瞬、グラスの中の液体が歪む。


「⋯⋯泣かないで」

「うん」

 到底、無理。

 わたしは「うん」しか言えない自分を心の中で罵る。わたしの気持ちはどこに行っちゃったんだろう? 「うん」の一言に集約されてしまったんだろうか?

「出ようか?」と彼は泣き始めたわたしにそう言った。

 彼だって、こんな終わりは望んでなかったかもしれない。


 繋がれなかった手が、酷くわたしを傷付けた――。


 ◇


「信じられない! 承諾って何? 何様のつもりよ」

「仕方ないんだよ。わたしは猫を被ってただけで、本当はガサツな女だもん」

「⋯⋯真帆子。アンタ、デニムも履かないで頑張ってきたのに」

「うれしかったんだもん。高輪くんに告白されて。――今となっては全部、バカみたいだけどさ」

 夏羽ちゃんはわたしの肩を抱いて、よしよしと言った。彼女だって、それ以上の言葉は見つからなかったんだろう。

 でもその行為は、効きすぎた冷房でひえた身体を温めた。


「すぐには傷は治らないかもしれないけど、そんな傲慢な男のことは忘れて、少しゆっくりしな。時間が癒してくれるって言うじゃない」

「そうだといいんだけどなぁ」

「気持ちが落ち着く時がきっと来るよ」

 親友の言葉が、じーんと心に染みた。


 それが、わたしの夏休みの始まりだった。

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