黄昏の先の海へ
@kirinoikari
第1話
砂漠は海に似ているというがこれはまったくのでたらめだ。
砂漠にある全てのものは、真っ赤に肥えた太陽の光をいっぱいに浴びながら生き生きと死んでいる。
彼が生まれて最初に覚えているものは黄色い砂塵の百面相だ。この土地ではどんなに注意深く目張りしたドアも霧よりもはるかにこまかな砂嵐の前には意味をなさない。あらゆる隙間から砂は侵入し、黄色い煙となって永遠に部屋を漂う。舞い込んだ砂はやがてゆっくりと時間をかけて床に溜まり、量が増えるにつれてその形を際限なく変えていく。それが赤ん坊だった彼の目には悍ましい百面相に映っていたのだろう。砂は片目の飛び出た男の顔になり子宮で形作られる内臓になり老人の頬から飛び出た血管を触手のように表面へ張り巡らす腫瘍になり腐汁滴る鼠の死骸になり、決して安定した模様を残すことはなかった。彼は泣き叫んでいた。湿った皮膚に層をなして張り付く砂塵鼻腔に飛び込んで膿を出す砂塵耳の穴に入り込んで頭痛を引き起こす砂塵そして小屋の床で夢魔のように彼を脅かす砂塵。怖かったのだ。死の粉で溢れた世界が。生命を吸い取る塵が蔓延している中で痴呆の笑みを浮かべて彼に笑いかけ抱き顔を覗き込む人々がたまらなく恐ろしかった。
「海に行きたいな」
砂丘の稜線は風によって絶えず流れ変化しているのにも関わらず、彼の目に映る遠景は永遠に停滞したままだ。兄は彼の斜め前をさっきからずっと同じ歩調で進んでいく。足をあげるたびに砂はまくれ返り、蛇のように足の間を通り抜けていく。砂に染み込んだわずかな湿気を貪欲に吸い上げている茶色い草がところどころに根を下ろしているばかりで、砂丘には生き物の影ひとつ見当たらない。
「海に行きたいんだ」
彼はもう一度、声を出した。兄は振り返ろうともしない。同じ歩調で砂丘を進んでいく。黄ばんだ兄の背中を見て、ほんとうにこいつは人間なんだろうかと彼は思う。数十分前に見た風景を思い返そうと努力しても眼前に広がる黄色と青で区切られた単調な景色は脳裏に浮かぶ砂丘と寸分違わぬ有様。兄とただその場で形を変えるだけの砂との違いはなんなのだろう。いま指先であの黄色い背中をちょいとつけばそのまま崩れて足元の砂と見分けがつかなくなってしまうのではないか。
「また学習館に行ったらしいな」
ふいに目の前で流動していた砂山が声を出した。喋った途端に口に砂が飛び込んだしく、足元に水飴のような唾を吐き出す。
「うん。海を見てみたいんだ。学習館で観ることができるのはただの映像だけどそれでもやっぱり海は信じられないくらい美しいんだよ。水平線の向こうに曙光がきざすと波という波が光を反射してそれは水と光が飛沫を散らして踊っているみたいなんだ。水の色だって泉のそれとは違うぜ。限りなく真っ青で紫の宝石みたいにも見えるんだ。その底は滑る魚の群れの影と光の稜線が交差して溢れそうな賑やかさなんだ」
兄は振り返ると彼の右脛を蹴りつけた。喋り続けたために彼の舌は揚げられる前の肉のように砂にまみれていた。
「やめろ」
兄の声は震えている。呆れたことに話を聞くだけでも恐ろしいほどに水が怖いらしかった。兄だけではなく、この土地に暮らす誰も彼もが水を激しく忌む。彼の家は砂丘のただ一つの水源である泉の上に建てられているが、兄も父も青く横たわる水を恐れて小屋へ近寄ろうとしない。彼らは船の中に棲んでいるようなものだ。
「学習館にはもう行くな。おぞましい海のことなんて考える必要もないんだ。お前にはなんでそれがわからないんだ」
「私からしたら、水を怖がるほうがおかしいさ!なんだい、人は水を飲まなきゃ半月も経たないうちにその辺の砂に還っちまうんだぜ!そっちのほうがよっぽどおぞましいことだろうさ!」
兄は首を振り、埋もれていた足を大義そうに持ち上げると、再び彼に背を向けて歩き始めた。
学習館は正式な名前を仮想現実機器見本館といって土地を囲繞する砂防の突端に半ば埋もれるようにして建っている。砂まみれの粗末な小屋には四個の投影機が転がっており、砂漠の植物や虫の生体などを視覚資料を用いて子どもたちに解説するという用途で使用されていたが、今ではここへ通うのは彼ひとりだ。彼がこの投影機で観る映像は決まって海だ。彼は海を渇望していた。この砂丘にある砂粒をすべてばらまいても乾くことのない多くの水に。稜線そっくりの微妙な光の起伏を湛える水平線に。空を映す海面の下に広がる生命の響きに溢れた青い底に。
「私はこんな場所で、死んだまま生きるのはごめんだ。ただ死体になっていくだけの人生なんてごめんだ」
兄はもう彼の言葉に振り返りはしなかった。
風景はようやく変化を見せ始めている。彼は砂丘の上に立つ。
無数の風紋が筋になって刻まれている平地を船が迷子の犬のように走り回っている。船が通った後に残る線はいやらしい。長く延びた小ぶりな丘のように選り分けられた線は、やがて自重に耐えかねてそろそろと形を崩していく。海を征く銀色の船と、その後に残る白く濁った泡だち。海と砂の支配する土地では何もかもが正反対だ。太陽に向けて歩く兄は逆光の中で黒い。砂丘に掘られた穴のように見える。彼は頭の中でその穴をひたすら靴底で擦り埋めることを考えた。
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