風の芽吹く草原にて

市野花音

第1話

少年は暗闇を歩いていた。何も見えぬ黒の中、頼れるのは微かな風のみだ。外に出るという僅かな希望に縋りながら、少年は暗い道を歩む。


少年は外を知らなかった。施設の中で育った。

外には風というものが吹いているのよ、と教えてくれたのは母だった。

母は施設の人々から尊敬を集めていた。そんな母が少年は自慢だった。母に髪を撫でてもらうのがいっとうの幸福だった。


前に撫でてもらったのはいつだっけ。不安を掻き消す様に思考に浸る。


確かいつもの試験が終わって、母が会いに来た時が最後ではなかったか。

あの日、母は少し様子がおかしかった。いつもは綺麗にまとまっている黒の三つ編みがほつれ、白衣も所々皺が寄っていた。

それでも少年が呼びかければ、すぐに笑って一つの箱を差し出してくれた。

「開けてみて」

箱を開くと、そこには掌くらいの大きさの丸いものが入っていた。硝子が嵌め込まれ、中で丸尖った棒の様なものがくるくる回っている。

「これはね、風の道標コンパス。風の生まれる所を指す針なの」

「風の生まれる所?」

「ええ。外では風が吹いていることは知っているでしょう?風は様々な事を伝え運んでくる。そんな風は、いっとう美しい色をした始まりの地で生まれるの」

「美しい色って、母さんの髪の色みたいな?」

母はしばし呆気に取られた後、破顔した。

「ありがとう、母さんの髪褒めてくれて。でもね、母さんもその色が何色か知らないの」

母でも知らぬ事があるのか、と少年は驚いた。

「だから貴方が、直接見て確かめて?全てを繋ぐ風の故郷を」

その時の母は、何処か悲しそうな顔をしていた。そんな顔してほしくない。いつも笑っていてほしい。

「ねぇ、母さん。髪、撫でて」

心の声を口にする代わりにそうせがむ。

「分かったわ、わたしの愛しい息子」

そうしたら母は笑って、少年の髪を優しく撫でてくれた。


そんな母には、きっともう会えない。絶望が少年の心を侵していく。

その時、ふと風が強まった気がした。足を早める。光が見える。無我夢中で駆け出す。必死で風の、光のある方へ駆ける。


外に出た。

眩しげに細められた眸は一瞬後、大きく見開かれた。

そこは一面に続く草原だった。緑色の海が地の果てまで続いている。遠くには山らしき稜線も見える。澄み渡る蒼穹は何処までも続いていきそうだった。生まれのわからぬ風が少年を通り過ぎていく。

「母さん」

少年は振り返った。出口は岩場の陰に隠され、自然に溶け込んでいた。少年は白衣のポケットから母からの贈り物を取り出した。施設の中ではくるくると回るだけだったその針は、一点を差して止まっている。

振り返ると草原の合間に人影が見えた。少年はそちらに向かって走り出した。


最後に会った時、母は傷だらけだった。試験の日でも無いのに引っ張り出された少年は驚いて母に駆け寄った。

「逃げなさい」

母はいの一番に言い放った。少年は戸惑った。

「ここにいては危険なの。貴方はね、神様にされてしまうの」

「神様?」

「狂った天候を治す事ができる人よ。人を超えた力を得る代わりに人としての感情を失ってしまう。お母さんはね、貴方をそうさせたくなかった。けど上手くいかなかった。だから、逃げて」

突然のことに、少年は戸惑うしか無い。

「お願い。時間が無いの」

母が必死な顔をして言い募るので、とうとう少年は頷いた。母はほっとした表情になった。が、次の瞬間顔を引き締める。

「前に渡したコンパスは持っているわね。その針が指すところに行きなさい」

「風が生まれるところ?」

「ええ。あちらに緊急脱出用の道があるからそこを歩いて行きなさい。風の吹く方向に行けば外に出られるから」

「お母さんは、一緒に来ないの?」

多分その時少年は泣きそうな顔をしていたんだと思う。母は悲しそうな顔をして、もういきなさい、と言った。

「母さん!」

それでもとりすがる息子に、母は自らの白衣を被せた。


シオン、愛してる。


それが最後に聞いた母の言葉だった。


母は、何故風が生まれる場所に行けと言ったのか。針が指したあの人なら、教えてくれるだろうか。母が一緒に来てくれなかった訳も、風の始まりの地の色も。

人影がはっきりと見えた。

美しい、まだ幼なげな少女だった。

日に焼けた肌に、色鮮やかな衣装を身に纏っている。左手には壺を持っており、右手は虚空に伸ばしている。

ふ、と赤い唇が息を吸った、次の瞬間。勢いよく風が吹いた。まるで抗えない磁場があるかの様に、風が渦巻いて少年の白衣を巻き上げる。風を捕まえている、と少年は思った。あの壺に、貯めている。風を操る人。天候の、神様。あの施設の人が真似しようとしていた、特殊な種族。

ふと、こちらに目線を寄せた少女の紫色の眸が見開かれる。どうやら少年に気付いた様だ。恐る恐る少女に近づく。少女の髪が母と同じ黒の三つ編みだと気づいて泣きそうになる。


「風の、始まりを、知っていますか」


無機質な施設で生まれ育った少年の初めての色は、自らを抱く母の黒。


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風の芽吹く草原にて 市野花音 @yuuzirou

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