ハローニューワールド
猫柳蝉丸
本編
某時刻、大学病院で――
「ねえ、本当に大丈夫? ああ……、変われるものなら変わってあげたいんだけど……」
「何を言っているのよ。これは二人で決めたことでしょう? この痛みと苦しさが生きてるってことなの。だから、後悔はしてないわ」
「でも、だって恵美、そんな青トマトみたいな顔して……」
「他の例えは無かったの、沙都子。でも、それがちょっと心強いわ。一緒に頑張ってくれるつもりなんだって思えるもの」
「当たり前じゃない! あなたと同じ痛みを感じられるようにこれから壁に頭突きし続けたって構わない!」
「それはやめて。でも……、ありがとう。大丈夫よ、沙都子。私、不思議と安心しているのよ。痛いし苦しいし吐き気もするけど、それでも、嬉しいの。今まで二人で一緒に頑張ってこれたことが。これからも二人で頑張れることが」
「三人でしょ、恵美」
「そう……、そうね。三人で頑張って……、ううん、三人で幸せになりましょう。私たちならきっとできるわ」
「頑張っていきまっしょい!」
「ちょっと笑わせないでよ、もう……。でも、うん、勇気出たわ、ありがとう。それじゃ、行ってくるわね」
「沙都子の健闘を祈ってー!」
「病室ではお静かにお願いします」
「はっ、申し訳ありません」
四時間後――
「おうっ……おうっ……沙都子……沙都子ぉ……」
「あの……恵美さん……?」
「おうっ……おうっ……おうっ……」
「オットセイみたいに泣くのやめてほしいんだけど」
「誰がトドよ!」
「誰もジュゴンなんて言ってないわよ! とにかくどうして恵美の方が泣いてるのよ」
「泣くに決まってらあっ! 沙都子の四時間にも渡る頑張り、ガラス越しに見せてもらってたんだからなあっ!」
「まあ、喜んでくれるのは嬉しいんだけどね……」
「でも、本当におめでとう。それとありがとう、沙都子。出産がこんなにも苦しいものだなんて、私、頭でしか分かってなかった」
「私もよ、恵美。私もきっと妊娠のこと、出産のこと、簡単に考えてた。正直言うと、最初はただ単に自分が幸せになるためだけに妊娠した気がする。今は違う。お腹を痛めて産んだこの子のために、何でもしてあげたいって気持ちになれる」
「うん……、可愛くて愛しくて、抱きしめちゃいたくなる。それにすっごく赤い……。赤ちゃんって赤いから赤ちゃんなんだね」
「そうね。私たち、そんなことも分かってなかった。でも、今からは違うわ、恵美。これから三人で幸せになってみせるんだから」
「そうだよね……、幸せにならなくちゃね……」
「やっぱり不安もある?」
「それはもちろん。きっとこれからすごい騒ぎになるよ。多摩川のタマちゃんが来た時以上の大騒ぎになるって思う」
「だから何なのよその微妙な例えは。でも、そうね。きっと世界中を巻き込んだ大騒動になるんじゃないかしら。でも、後悔はしてないわ」
「私だって後悔なんてしてないし、これからも後悔なんてしてやらない。何があってもこの子を守って三人で……、ううん、もっと大勢の家族と幸せになって、逆に世界中のムーブメントの風になってやらあっ!」
「ふふっ、頑張りましょうね、恵美お母さん」
「あなたもでしょ、沙都子お母さん」
「ええ、もちろん」
これが世界初の受精卵の細胞操作による女性同士の子供の出産当日のやり取りである。
貝原恵美・沙都子両氏の懸念通り、世界初の事象にこれより世界中が混迷と混乱と喧騒に巻き込まれていくことになる。
貝原沙都子氏の言葉通り、彼女たちと彼女の娘である赤ん坊は世界を変える最初の風となったのだ。
多くの人々の価値観が変わり、多くの人々が混乱し、多くの人々が不幸にもなった。
しかし、世界が変わる時とは得てしてそういうものであり、幸福になれた人々がそれ以上に増えたのも確かだった。
これはそういうごく当たり前で何でもない、世界の過渡期の一エピソードである。
ハローニューワールド 猫柳蝉丸 @necosemimaru
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