ひいらぎあかねの戦略ノート

森都私山(もりまち・しざん)

プロローグ

 彼女は泣いていた。サッカー部のジャージを着たまま、午後の西日が差し込む視聴覚室の隅で、膝を抱えて、小さく、静かに。


 私はまだ、コピー機の場所すらわからなかった。この学校に赴任してきたばかりの春。履き慣れない学校用の靴と、誰もいない廊下のひんやりとした空気。そこには、まだ誰の体にも馴染んでいない新品の制服が放つ独特の匂いが混じっていた。


 視聴覚室のドアが少しだけ開いていた。誰かいるとは思わずに覗いたその部屋の片隅に、彼女はいた。松葉杖が二本、傍らに置かれている。右足には白い包帯。俯いた顔は見えないけれど、肩がわずかに震えていた。


 声をかけるべきかどうか。踏み込んでいいものか、どんな言葉が適切か。教師としてでも、大人としてでもなく、ひとりの人間として迷った。


 かける言葉が見つからないまま、数秒が過ぎた。結局、私は当たり障りのない自己紹介だけを口にした。


「……こんにちは。早瀬っていいます。今年からこの学校で教えることになりました」


 彼女は顔を上げなかった。けれどほんの一瞬だけ、こちらに視線を向けた気配がした。その目の奥に私は見た。涙の奥で、何かが静かに燃えてる気がした。名前も、詳しい事情も、そのときはまだ何も知らなかった。ただ、強く感じたのだ。


 この子は、ここで終わるような子じゃない。


それが、柊 朱音(ひいらぎ・あかね)との最初の出会いだった。


——早瀬 香澄(はやせ・かすみ)

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