記憶の古物商
れおりお
記憶の古物商
鉄のシャッターが、鈍く軋んで持ち上がる。
手動だ。電動に替える金はないし、そもそも替える必要もない。
半分だけ開けて、金属製のストッパーを噛ませる。日が差し込みすぎるのは好ましくない。店の中のものが、見えていいものじゃないからだ。
それでもシャッターを閉めきらないのは、完全な閉塞が妙に落ち着かないからだ。
中は薄暗い。照明は蛍光灯ではなく、小さなLEDが数本。壁にべったりと貼りつけてある。
棚が五つ。古びた書類棚を流用している。一段ずつに、赤黒いカプセルが収まっている。
それが、商品だ。
誰かの過去。誰かの記憶。誰かの一部。
カプセルの並びに狂いがないか、棚を一つひとつ確認していく。
今日の仕事は、まずそこから始まる。
記憶は生ものだ。採取してから時間が経つと、波長が不安定になり、摂取時の混濁や誤認が発生しやすくなる。
俺の扱うのは、ほとんどが裏市場からの流れ品。冷蔵保存もされていない、素性のわからない代物ばかりだ。
ラベルには、採取日と分類コード。手書きのメモと、俺の記録番号。
「KX-202/快楽系/女/視点ズレ軽度」
「ST-111/スリル系/暴力未遂/抜け多し」
「EM-307/感情系/初恋/視覚欠損あり」
どれも、検品済みのものだ。自分の口で飲み、自分の脳で確かめた。
俺の商売はそこにしか価値がない。
奴隷を使う同業もいる。検品用に、記憶ジャンキーを買ってきて、記憶を無理やり摂取させる。
飲ませて、反応を見て、使えそうなら商品に回す。廃人になったら捨てる。
そういうやり方を俺はしない。金がないというのもあるし、何より俺の目的に対して意味がない。
俺が探しているのは、たった一つの記憶だ。誰かの反応なんか、当てにならない。
古びたノートを取り出す。今日の記録欄を開く。
日付、気温、湿度。気休めのようなものだが、長くやっていると習慣になる。
前日に検品した三つの記憶について、補足を書き込む。
そのうちの一つは、不快な臭いがやけに強く残った。きっと、抜いた本人がそれを嫌悪していたのだろう。
「記憶A-265/快楽系/狭い浴室/異臭強め/視覚断絶あり」
横に、短くタイトルをつける。「息苦しさと熱」
タイトルは、記憶の中にあった感覚からつける。
意味はない。ただ、無名のまま売るよりはマシだと思ってるだけだ。
午前十時を過ぎたころ、シャッターの隙間から靴音がした。
「……開いてる?」
若い声。
男だ。軽そうなスニーカーの音。
「どうぞ」
声をかけると、シャッターが少し持ち上がって、男が顔をのぞかせた。
黒髪、パーカー、耳には無駄なピアス。手にカプセルを一つ。
「記憶、売りたいんだけど」
聞いたままの言葉。無造作な態度。
「中身、検品するけどいいか」
「え、見るの?」
「うちはそうしてる。中身見て、内容と状態で値をつける」
男は少し迷ったが、黙ってカプセルを差し出した。
受け取る。内容量は平均的、色も濃い。悪くない。
湯煎器にカプセルを置き、スイッチを入れる。
じんわりと蒸気が立ち上り、カプセルの中身が活性化されていく。
記憶の摂取は、少量でいい。端末の吸引管を口に咥え、フィルターを通して記憶を摂る。
味はない。においもない。だが、感覚だけは、嫌でも入ってくる。
俺の脳が、それを拾う。断片的に、しかし強烈に。
視界に映るのは、白い布団と天井。
女の笑い声。触れた肌のぬくもり。指先の動き。
興奮、熱、羞恥。甘さと、少しの罪悪感。
──どこかで見た気がする。
けれど、それ以上でもそれ以下でもない。
吸引を終えて、ノートに記録を取る。
「記憶B-112/快楽系/セックス/音質やや濁り/視点主観不安定」
感想:「軽薄な熱。短く、すぐ冷める」
「二万。いるなら、持ってけ」
男は肩をすくめて金を受け取り、カプセルを置いて去っていった。
特に意味もなく、少しだけ笑っていた。
俺は椅子に座り直し、残った蒸気の匂いをかすかに嗅いだ。
今日は、こんなもんだ。
明日も、きっと似たような一日になる。
昼を少し過ぎたころ、二人目の客が現れた。
前のとは違って、目元に焦りがにじんでいる中年男だった。
口元が少し乾いていて、無理に平静を装ってる。
常連の一種。記憶ジャンキー手前。
「これ……高くなるかな?」
差し出したカプセルは、少し濁っていた。波打ち、沈殿がある。
古いか、抜き方が雑だったか。もしくは、精神状態が最悪だったか。
「検品してみないと、なんとも言えない」
「……やって」
即答だった。手放すことに、ほとんど迷いがない。
記憶を失うことを恐れない人間は、だいたいもう何かが抜けている。
湯煎器にセット。
蒸気が漏れ出し、カプセルの中身が緩み始める。
ノートに下書きを始める準備をしながら、吸引口に口をつけた。
吸った瞬間、金属の味がした。鉄じゃない。もっと硬くて冷たい味。
視界が歪む。すぐに暗転。
……音がない。
……空気の震えもない。
ただ、何かが見ていた。
壁の隙間から、椅子の下から、鏡の裏から。
ずっと、見られていた。
圧迫感と、冷気。
何の記憶かはわからない。だが、これは売れない。
摂取者を壊すリスクが高すぎる。
俺は管を外し、呼吸を整える。
ノートに書いた文字は、乱れていた。
「記憶C-044/視覚過多/対象不明/圧迫強/摂取推奨せず」
備考:「脳が逃げようとする。可能なら処分」
「いくら?」
客が口を開いた。
俺は一拍置いて答えた。
「……千円。警告文つきで売る」
「売れるのか、それ?」
「売れるかじゃない。買うやつがいるかどうかだ」
男はそれ以上何も言わず、札を受け取り、カプセルを置いて去っていった。
その背中に声はかけなかった。あれは、近いうちにまた来る。
そのときには、もう少しだけ壊れているかもしれない。
静かになった店内に、再び重たい沈黙が戻る。
棚を見回す。
赤いカプセルの列。一つひとつが、人のかけら。
全部合わせたら、何人分の人生になるだろう。
俺が見た記憶の数は、もう数えきれない。
たぶん、俺自身の記憶より多い。
だからたまに、自分の記憶も混ざる。
自分が実際にやったことか、誰かの記憶だったか。
それすら曖昧になる瞬間がある。
昨日食べた飯の味を思い出せないのに、十年前の女の声がよみがえったりする。
それが自分の経験だったかどうかも、定かじゃない。
俺は棚の端にある、使いかけの記憶ノートを取り出して開く。
裏表紙の内側に、小さなメモが貼られている。
「忘れるために抜く。
探すために見る。
見すぎれば、戻れなくなる」
俺が書いたものだ。たぶん。
書いた記憶はないが、筆跡は俺だ。
日が傾き始めている。
シャッターを少しだけ下げる。閉店にはまだ早いが、もう客は来ない気がする。
記憶の古物商に、賑わいは似合わない。
人が寄りつくには、ここは静かすぎて、汚れすぎてる。
でも、それがいい。
記憶は、静かな場所で腐る方が、よく似合う。
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午前九時。
シャッターはいつも通り半分だけ開けた。
冷たい空気が店に入り込む。春の終わり。それでも朝はまだ、肌が締まる。
いつも通り、棚のチェックから始める。
手のひらで一つひとつのカプセルを転がし、昨日の温度を確かめる。
中身が劣化していないか、光に透かして見る。
変わりはない。俺の世界には、大きな変化は起こらない。
起こらない方が、都合がいい。
ノートに昨日の記憶を記録する。
タイトルは「目が合わなかった部屋」。
視覚記憶が歪んでいて、相手の顔がどうしても思い出せなかった。
視点のズレが原因か、それとも意図的な編集か。
記憶は嘘をつかないが、解釈は自由だ。
どこまでが真実かなんて、売る方も買う方も興味はない。
シャッターの隙間から、人影が差し込む。
新顔。二十代半ばくらいの男。
フードをかぶり、顔は見えないが、挙動は落ち着いていた。
「記憶、売りたい」
無駄のない言葉。慣れてる感じがする。
俺はカウンターの奥から応える。
「検品する。構わないな」
男は無言でカプセルを差し出す。
中身は濃い。深い赤。波立ちもない。鮮度も悪くない。
いつも通りの手順で湯煎器にかける。
フィルターを通して吸引。
——その瞬間、視界が一転する。
天井の模様、灯りのゆらぎ、ベッドのシーツ。
女の髪、濡れた肌。
笑っていた。やわらかく、無防備に。
その顔を見た瞬間、呼吸が止まった。
……似ている。
いや、似すぎている。
喉元がひやりと冷えた。
俺はゆっくりと吸引器を外し、息を吐いた。
視覚は揺れていた。カメラのピントが合わないみたいに。
だが、はっきりとわかる。
あれは——
「この記憶、どこで手に入れた?」
俺の声は、いつもより少し低かった。
男は少しだけ首を傾けて答えた。
「……んー、なんか、あそこ。◯◯のバッタ市。変なオヤジから買った」
「本人じゃないのか」
「まさか。俺がこんないい女抱けるわけないっしょ」
男は笑った。乾いた声だった。
俺は頷くふりだけして、カプセルをテーブルに置いた。
「これ、いくらで売る気だった」
「相場知らないけど、三万いける?」
「二万」
「……まあいいや。売るよ」
受け取った金を確認もせず、男はさっさと背を向けた。
シャッターの下に消えていく足音を聞きながら、
俺はカプセルを再び手に取った。
確信はない。
ただの似た顔かもしれない。
記憶の視点は揺れていたし、音もわずかに濁っていた。
でも、あの唇の動き。
笑い方。
見間違うはずがない、という確信と、
見間違っていてくれ、という願望が、せめぎ合っていた。
ノートを開き、ページをめくる。
新しい行に、文字を書く手がわずかに震える。
「記憶D-010/快楽系/女性視点混合/視覚未調整/※類似対象注意」
タイトルはまだ決まらない。
言葉が見つからなかった。
つけようとするたび、どこかが引っかかって止まった。
しばらくページを閉じたまま、俺はただ、カプセルを見ていた。
カプセルを棚に戻したあとも、しばらく椅子から立ち上がれなかった。
それは多分、似ていただけだ。
他人の記憶に映っていた女の仕草が、たまたま重なっただけ。
そんなこと、今までも何度もあった。
似た顔。似た声。似た空間。似た肌の色。
似ていることに意味はない。
あるのは、記憶がそこにあるか、ないか。それだけだ。
だが、今回は何かが違った。
理由は言語化できない。
目の奥に残る光、手の指のわずかな動き、声の切れ端。
全てが微妙に、かすかに、しかし確実に俺の中に何かを引っ掛けていた。
ジャケットに手を伸ばしかけて、やめた。
「また、か?」
声が漏れた。
この感覚は、何度目だろう。
思い出せないほど、繰り返してきた。
何かを見つけた気になって、動いて、何もなかった。
ただ記憶を摂りすぎて、錯覚しているだけかもしれない。
自分の過去と、他人の記憶の境界が、また曖昧になっただけかもしれない。
「全部、自分の脳が勝手に繋げてるだけだ」
そう思いたかった。
そう信じていたかった。
けれど、あの指先の動きだけが、記憶のどこか深くに刺さって残っていた。
冷たくなった遺体の中で、唯一まだ生きていたような、あの手の動き。
あれを、他人が再現できるものなのか。
店の奥にあるノートの裏表紙に、指で触れる。
そこに貼った古いメモ。
「忘れるために抜く。探すために見る。見すぎれば、戻れなくなる」
戻れなくなって久しい。
それでも、まだ探している自分がいる。
しばらくじっと座っていた。
でも、カプセルが棚にある限り、視線は自然とそちらに流れていた。
そういうときの俺は、もう決まっている。
何度やっても、変わらない。
手はジャケットを取り、鍵をポケットに入れた。
外の光が、少しだけ刺すように見えた。
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気がついたら、駅前を歩いていた。
いつの間に電車に乗ったのか、どこで切符を買ったのか、記憶が曖昧だった。
風が強かった。
ジャケットの裾が何度もめくれて、落ち着かない。
歩くたび、靴の裏が舗装の隙間に引っかかる。
さっきから同じ石につまずいている気がする。
それでも足は止まらなかった。
あのホテルは、幹線道路の裏手にあった。
町の中心から外れた、飲み屋の裏通り。
少しだけ坂を上がる。夜に来るには、向かない立地だ。
外壁は、記憶通りだった。
褪せたクリーム色。割れかけたモルタル。
看板はLEDではなく、まだ蛍光灯で光っている。
やっぱり、ここだ。
ドアの前で一度だけ、足が止まった。
目的があるようで、ないような、そんな気分だった。
探しているのは記憶だ。答えじゃない。
それでも、答えに触れるような気がしていた。
中は静かだった。
受付のカウンターには誰もいない。
呼び鈴もなく、ただ小さなスピーカーから低音のBGMが流れていた。
壁紙を見た。
やはり、あのチェック柄だ。左下が少し剥がれている。
指先で触れる。質感は、記憶と一致していた。
そこから先は、もう本能だった。
空いている部屋を一つ、選んだ。
無言でキーを取り、階段を上がる。
エレベーターはあるが、使う気になれなかった。
部屋に入る。
鼻にかすかに薬品の匂い。シーツの湿気。壁紙の剥がれ。
すべてが、あの記憶と合致している。
ただ、どこかが違っていた。
記憶にあった部屋よりも、少し狭い。
照明の位置もずれている気がする。
ベッドのヘッドボードも、記憶より古い型だった。
リニューアル? それとも別の部屋?
あるいは、記憶が歪んでいたか。
俺は部屋の中央に立ったまま、息を吐いた。
ポケットから、ノートを取り出す。
記憶D-010のページを開く。
何度も見返した記録と、メモ書き。
ここに来て、新しいことは何も得られなかった。
だが、完全に一致しないからこそ、
この部屋が、あの記憶に「近すぎる」ことがわかってしまった。
あと一歩。
それを踏み込む手段がない。
部屋を出た。
階段を下りながら、何度も壁の模様を見た。
どれも似ている。だが、一つひとつ微妙に違っていた。
“あの部屋”が、まだこの建物のどこかにあるとしたら。
俺はそれを、また探すことになるのかもしれない。
三十分ほどでホテルを出た。
無駄足だった。
それだけの話だ。
照明の位置、部屋の広さ、匂い。
記憶の中のものとは、やはり一致しなかった。
脳が勝手に補完した映像を、追いかけていただけだ。
いつものことだ。
店に戻ったのは夕方過ぎだった。
シャッターを少しだけ持ち上げ、蛍光灯のスイッチを入れる。
店内は変わらないままだ。
赤いカプセルが、同じ角度で棚に並んでいる。
午前中と寸分違わず。
世界は、そう簡単に揺れない。
椅子に腰を下ろした瞬間、ドアが軋んで開いた。
「おー、いたいた。閉まってんのかと思った」
入ってきたのは常連だった。
四十代半ば、スーツの上下。ネクタイはしていない。
肩の力が抜けていて、顔はやけに明るい。
でも、目の奥には疲れがこびりついてる。
「また見繕ってくれよ。軽いやつでいいから」
「テーマは?」
「んー……最近仕事詰まっててさ、感動系?
でも泣かせすぎないやつ。ちょっとだけ心あったまるやつ、みたいな」
「都合いいな」
「そりゃそうよ」
軽く笑い合う。こういう会話も、たまには悪くない。
棚の三段目を開ける。感情系の記憶がまとまってる場所だ。
パラパラと手帳をめくりながら、いくつかの記録を確認する。
「これなんかどうだ。“カレーの匂いとランドセル”。
小学校低学年の記憶。母親が夕飯作ってる後ろ姿と、初めての下校。
視覚鮮明、嗅覚は強め。感情の波は浅いけど、後味は悪くない」
「いいね、それ。じゃあそれにしとく」
「三万」
「はいはい」
男は慣れた手つきで札を出し、カプセルを胸ポケットに入れた。
「最近あんたのとこ、記憶の質上がってない?」
「さあな。たまたまだろ」
「なんか、変わった感じすんのよ。……ま、気のせいか」
男はそう言いながら笑って、それでもふと、視線をこちらに戻した。
「……探してんのか?」
「何を」
「知らんよ。なんかそういう顔してんじゃん。最近」
俺は肩をすくめる。
煙に巻くのは簡単だったが、なぜか今日は言葉が出た。
「まあ……探し物があってな」
「へぇ、記憶の中に?」
「そこにしか、ねぇからな」
「ロマンチックじゃん」
男は茶化すように笑ったが、それ以上は聞かなかった。
そういうところが、付き合いやすい理由かもしれない。
「ま、見つかるといいな。見つけて、どうするかは知らんけど」
「俺も知らん」
会話はそれで終わった。
男は軽く手を振って、シャッターの隙間へと消えていった。
静かになった店内で、俺はしばらく棚を眺めていた。
質が変わった?
そうかもしれない。
記憶の中に混ざる「何か」を、俺自身が無意識に求めているせいかもしれない。
俺が探しているのは、たった一つの記憶だ。
恋人が、殺されたときの記憶。
俺はその現場にいたのか、いなかったのかすら定かじゃない。
ただ、遺体を見つけた記憶だけは、確かにある。
血の匂いと、床に落ちた髪の束。
微かに開いた口元。
そこにもう声はなかった。
その記憶は、今も俺の脳の奥にある。
ただ、肝心の部分が抜けている。
だから、探している。
同じ景色を、別の視点で見た記憶を。
犯人の目線。
目撃者の視点。
あるいは、俺自身。
わからない。
でも、どこかにあるはずだ。
記憶は消えない。抜かれてさえいなければ、誰かの中に残っている。
ノートの余白に、今日の日付と一言だけ書いた。
「壁紙、別物。次」
------------------------------
翌日は、何もなかった。
朝から曇り空で、店の照明を一段階明るくした。
記憶も客も来ない、ただの静かな日。
午後三時すぎまでは、そう思っていた。
「よう。死んでないか」
軋んだシャッターの下から、いつもの顔が入ってくる。
同業の古物商。名前は知らない。聞く気もない。
“あんた”と“お前”で事足りる関係。
「こんな時間に珍しいな」
「こっちのルート回ってただけ。ついでに冷やかし」
男は勝手に椅子を引いて腰を下ろした。
手には缶コーヒー。開ける音が妙に響く。
「そういやさ、この前の“真夜中の逃走”。あれ、売れたわ」
「……」
聞き覚えのないタイトルだった。
だが、男は軽く続ける。
「視覚も音も鮮明でさ。逃走中の緊張感、久々に当たりだったわ」
「俺んとこで、それ仕入れたのか?」
「うん。ラベルはなかったけど、お前の字でナンバーだけ書いてあったから」
「……」
記憶がなかった。
俺の中に、そのタイトルも、内容も、何もなかった。
いつも通りなら、必ずタイトルをつけ、ノートに残している。
だが、その記憶は記録にも、棚にも、残っていない。
「俺、そんなの……売ったか?」
「さあね。
お前、自分の記憶は売らないタイプだっけ?
でもまあ、たまにはそういうこともあるかもよ」
冗談めかして、男はコーヒーを飲む。
缶がかすかに凹んだ音がした。
「人間だしな。完璧じゃいられねえ日もあるだろ」
俺は返さなかった。
否定もできなかった。
確かに一度だけ、記憶がぼやけた夜があった。
店を早仕舞いしたような記憶がある。
だが、詳細はまるで思い出せない。
本当にそんな記憶を抽出して、
ラベルもつけず、タイトルも決めず、売ったのか。
自分のことなのに、まったく確証が持てなかった。
「まあ、どうでもいいけどな。
売った記憶なんて、どうせ戻ってこねえし」
男はそう言って立ち上がった。
缶を軽く振って、空になったことを確かめ、ゴミ箱に放った。
「また来るわ。
次はちゃんとラベルつけといてくれよ」
「……考えとく」
軽く手を振り、男は店を出ていった。
静けさが戻る。
俺はしばらく、開いたノートを眺めたまま動かなかった。
何かが、少しだけズレた気がした。
だけど、それがどこかはわからなかった。
たまには、そんなこともある。
完璧でいられる日は、そう多くない。
でも、それで済ませていいことだったのか。
その答えも、今の俺にはなかった。
--------------------------------
朝、いつものようにシャッターを開けた。
棚を拭き、記録ノートに追記し、カプセルの整列を確認する。
平常運転。
……のはずだった。
けれどどこかで「今日の静けさは、何かが違う」と感じていた。
昨日の記憶。男の言葉。タイトルのない記憶。
喉の奥で何かが詰まったまま、それを呑み込むように作業を続けた。
午前中、若い客が来た。
無造作に投げ出されたカプセル。赤黒く濁った液体。
「検品していいな」
「どうぞ。俺は見てないけど、なんか“強そう”だったよ」
男は飄々としていた。
湯煎、フィルター、吸引。手順はいつも通り。
問題は、中身だった。
視界が歪む。
雨の音。路地裏。
濡れたアスファルトの上を、足が走っている。
誰かを追っている。息が上がる。手に何かがある。
——ナイフ。
女性。濡れた髪。驚き。恐怖。
手を振り上げる。
喉元。刃。
刺す。
血の温度が、皮膚に染み込む。
そして、笑っていた。
自分が。
管を外した。
冷や汗が、背中を伝って落ちていく。
「……これ、どこで手に入れた?」
「は? 市場。拾いもん」
「誰から?」
「さあな。なんでそんな——」
そのとき、シャッターが軋んで開いた。
警察特有の怒鳴り声はなかった。
代わりに、男の低い声が、乾いた音で響いた。
「……◯◯◯◯さん、だな」
入ってきたのは、黒のスーツに身を包んだ、五十代くらいの男だった。
警察のバッジを静かに見せる。
「◯◯警察の者だ。ちょっと、話を聞かせてもらえるかな」
淡々とした口調。
だが、目はどこかでこちらの心の中まで覗いているようだった。
「店の中で話すか、それとも外に出ようか」
俺は黙ったまま、わずかにうなずいた。
自分でも理由はわからないが、もう抗う気はなかった。
カウンターの奥にあるジャケットを取り、
男のあとについてシャッターの外に出た。
取調室は、白かった。
冷たく乾いた空気が、皮膚の表面にじわじわ染み込んでくる。
目の前に、書類の束が置かれる。
刑事は、静かに、順番に、それをめくっていった。
血痕のついた布地。路地裏に落ちていたナイフ。
現場に残された足跡の石膏型。
その一つひとつに、見覚えがあった。
——なぜか。
知っているはずがない。
現場を見たことも、行ったこともない。
なのに、視覚が知っている。
触れた感触、歩いた足の重み、雨の温度。
さっき見た“記憶”の中と、すべてが一致していた。
「このナイフは、事件現場から数十メートル先で発見された」
「指紋が出てる。……あなたのだ」
「足跡も同様。サイズ、摩耗、踏み込み角。完全一致している」
「監視カメラは遠くて顔は映ってないが、体格と歩き方。……君だよな」
俺は何も言えなかった。
言葉が、まったく脳に浮かんでこなかった。
目の前の証拠は、すべて俺を指していた。
記憶はない。
でも、証拠はある。
いや——
違う。
「俺は、さっき、それを見た」
そう言いたかった。
けれど、それを言えば“じゃあ、お前がやったのか”と言われるのは目に見えていた。
違う。
でも、見た。
知らないはずなのに。
知っていた。
「……」
俺は手のひらを見つめた。
何もついていないはずの手が、
血のにおいを放っているような気がした。
刑事は、それ以上多くは語らなかった。
優しい声だった。
「しばらく、拘留になる」
俺はうなずいた。抵抗はなかった。
記憶は、なかった。
でも、
——俺はやったのかもしれない。
疲れが、一気に押し寄せた。
目を閉じた。
白い天井の向こうに、誰かの視線を感じながら。
-----------------------
面会室の空気は、昨日と変わらなかった。
ただ俺の中だけが、何かを拒み続けながら、崩れていた。
向かいに座った男。いつも「あんた」と呼び合ってきた知人。
ノートを開く前から、空気が違っていた。
今日の彼は、軽口では済まさなかった。
「……あの記憶、俺が検品した」
それだけで、嫌な汗がにじんだ。
彼の目は笑っていなかった。
「お前が俺に記憶を売ったの、あれが初めてだった。
珍しかったから、ちゃんと見たんだよ。……俺も物好きだな」
懐から古びたノートを取り出し、ページを開く。
そこには、短いメモが一枚、クリップで留められていた。
──《これは金になる記憶。売れ》
書かれた文字は、俺の癖だった。
少し急いだ字。歪んだ“金”の字。
紛れもなく、自分の手によるものだった。
知人はページをめくりながら、記憶の構成を読み上げた。
「まずデート。いつも通り楽しそうに話してる。
次にホテル。部屋の中で、ふつうに——まあ、愛し合ってるように見える」
一度、そこで彼はページを閉じかけた。
でも、意を決したように次の項目に指を置く。
「そこで、急に暗転する。
お前、彼女を窒息させてる。意識を飛ばした後、服を着せ直して……」
語尾が濁る。
「そこから、車で移動。遺体を寝かせ、もう一度……再演」
俺は何も言えなかった。
脳が拒否反応を起こしていた。
でも、指の先はそのノートに触れたくて震えていた。
知人が、ふっと小さく笑った。
だけど、そこに笑いの色はなかった。
「ひとつ、面白いことがあってな」
再びノートをめくる。別のページを取り出す。
「この記憶、実はもっと長かった。
最初は“彼女の裏切り”のとこから始まってたんだよ」
俺は目を見開いた。
記憶にないはずの、そこから?
「でもな、そこ……俺がカットした。
商品としては興醒めだろ?
“浮気されてキレて殺しました”って、ドラマにならねぇし」
声は冗談めいていたが、目は本気だった。
「演出されてた方が売れる。
“快楽から絶望へ”。その起伏だけで、十分だった。
……そっちのほうが“芸術”だったよ」
俺の心臓が、冷たい鉄球みたいに沈んだ。
「あとさ」
知人は、もう一冊のノートを取り出す。
「お前の店の記録。俺、前に預かっただろ。
見返したら、気づいたんだよ」
パラパラとページをめくって、一つの項目を指差す。
「これ。“花見の午後”。“朝焼けの部屋”。“彼女の声”。
——お前、自分から彼女との記憶も全部、売ってた」
喉が詰まった。
「全部、カプセル化されて、市場に流れてた。
お前が“手放した”んだ。……彼女とのいい記憶まで、全部」
沈黙が落ちる。
彼はゆっくりと言葉をつないだ。
「たぶん、……残ってると辛かったんだろうな」
やさしい声だった。
同情でも、責めでもなかった。
ただ、そこにあったのは「理解」だった。
でも、その“理解”が、一番つらかった。
記憶は、蘇らない。
抜いたものは、戻らない。
だけど、“記録”は残る。
文字と、言葉と、感情と、数字が——
すべて俺の選択を、証明していた。
俺が殺した。
俺が演出した。
俺が売った。
忘れようとしたすべてを、今、目の前に並べられていた。
目の奥が痛んだ。
でも涙は出なかった。
言葉も、出なかった。
あるのは、
“空っぽになったこと”だけだった。
-----------------------------------
独房は、静かだった。
天井のシミが、少しずつ広がっているように見えた。
壁の角に残る鉛筆の擦れ、鉄製のベッドフレームの軋み、
ひとつひとつが記憶として残っていく。
だが、それは“俺”の記憶ではない。
ただ、ここに閉じ込められた“誰か”の記憶。
そう思った。
「金は……売った金は……」
ふいに口をついて出た言葉に、自分で戸惑った。
耳に届いたその声が、他人のもののように聞こえた。
——なぜ、今それを考えている?
恋人を、殺した。
その記憶を、演出し、商品にした。
そして、自らの手で、それを売った。
知人が言っていた。
「お前、彼女との幸せな記憶も全部売ってたぞ」
なら、今残っている“愛していた”という感情は、
本当に“俺のもの”だったのか?
愛とは、何だった?
どこからが本物で、どこからが演技だった?
「……わからない」
声に、もう感情は乗っていなかった。
記憶を、見すぎた。
他人の人生を、摂取しすぎた。
それらが、いつのまにか自分の記憶と混ざって、
“自分”が、どこかへ消えてしまった。
気づけば、思い出せるものがなかった。
恋人の声。
手の温度。
笑い方。
——本当に、そんなもの、あったのか?
記憶は、抜けば消える。
愛した記憶も、手放せば“なかったこと”になる。
今残っているのは、
自分が殺人者であるという証拠と、
それを誰よりも巧妙に仕上げた記録だけだった。
それすら、他人が残したものだ。
“俺”を形作っていた記憶は、
もう、どこにもなかった。
残っているのは、
誰かの断片と、空虚な名前だけ。
名前も、もう名乗りたくなかった。
夜。
看守が寝静まった頃合い。
誰にも見られずに動ける、最後の時間。
天井の金属フックに、毛布をねじって巻きつける。
手際は良かった。
誰の記憶だろうか。
こんな手際の良さを“知っている”という事実すら、もう嫌だった。
椅子に足をかける。
目を閉じる。
愛していた顔も、最後に聞いた声も、浮かばない。
探していた記憶が見つかったことに対しての感動など。もうどうでもよい。
だが、最後にふと思った。
——この死だけは、俺自身のものだといい。
足が、空を蹴った。
記憶の古物商 れおりお @reorio006853
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