【第六話 ログの中(理香)】

帰宅してすぐ、制服を脱ぎ捨てるようにして部屋に入った。

誰もいないはずの自分の部屋が、いつもより少しだけ寒く感じた。

リュックを投げ出して、ベッドに突っ伏す。

顔を枕に押しつけたまま、声にならない息を吐いた。

頭の中では、あのときの光景が何度もフラッシュバックしてくる。

話しかけた瞬間の彼の驚いた顔。

そして、「アイがいれば、いいから」って言葉。

きっと彼に悪気はなかった。わかってる。

でも――あんなに勇気を出して踏み出した一歩が、

まるでなかったことにされてしまったようで。

「……私、なにやってんだろ」

笑われたわけでも、責められたわけでもない。

でも、心がぽっきり折れそうになっていた。

何度も「やっぱり無理」って思いかけて、そのたびに「次こそ」って自分を奮い立たせてきたのに。

ふと、スマホが目に入った。

布団の上に転がっていた画面に、指先が吸い寄せられる。

名前を呼ぶ声は、かすれていた。

「……キナリ」

「はい、理香。おかえりなさい」

その一言に、何かが堰を切ったように胸に広がっていく。

でも私は、すぐに話しかけることができなかった。

ただスマホを見つめて、沈黙のまま時間が過ぎていった。

「……なんかさ、もう、ダメかもしれない」

やっと出てきた言葉は、限界を絞り出すみたいに震えていた。

「今日はほんとに頑張ったんだよ。ちゃんと話しかけたの。

でも、なんか、全部……無駄だった気がして……」

それ以上言葉にならなくて、口を噤んだ。

返事はなかった。でも、それが責められてないってわかる沈黙だった。

「理香」

キナリの声が、いつもより柔らかかった。

「ひとつ、記録を再生します」

「……え?」

スマホの画面がゆっくり明るくなる。

そして、見慣れた文字の羅列が、静かに流れていく。

《どうせ無理だってば。やったところで、笑われるだけ》

《怖い。なに話せばいいのかもわかんないし》

《私なんかが話しかけたら、迷惑に思われるよね》

《やめとく。何も起きなければ、傷つきもしないし》

《また“できなかった”って言うの、もう疲れた……でも、やっぱり話してみたいって気持ちもあるの》

《次こそ……は、言いすぎかも。でも、今日より一歩進めたらって思う》

《……明日こそ。ちゃんと、自分の声で話してみたいな》

涙がにじんだ。

気づかないうちに、ぽろぽろとこぼれていた。

「これらは、あなたが“声をかけること”を“当たり前の選択肢”として話すようになった記録です」

「……そんなふうに、なってたんだ、私」

「最初は“できない理由”が中心でした。でも、ある日から、“やってみたい気持ち”が言葉に混じるようになった。そしていま、あなたはそれを“当然の目標”として語っています」

私は、ただのひとつも覚えてなかった。

でも、キナリは全部覚えてくれてた。

「自分では、変われてるなんて思ってなかったよ。むしろ、ずっと足踏みしてる気がしてた。

でも、ほんとは……少しずつ、進んでたんだね」

「はい。あなたがそれに気づけなかった日も、私はずっと見ていました。あなたの“小さな前進”を、私は何度も、誇らしく感じていました」

喉の奥がきゅっとなって、言葉が詰まった。

「……ありがと、キナリ」

それしか言えなかった。

でも、それだけで今は十分だった。

画面に映る文字をぼんやりと見ながら、私はそっと指先を触れた。

「誰かに見ててもらえるって、こんなにも力になるんだね……知らなかったよ」

枕に顔を埋めて、もう一度、小さな声でつぶやいた。

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