リバース
トウシン
第1話 引き返せ!
轟音がすぐそこまで迫っていた。
「引き返せ!」
誰かの叫び声が、粉塵の奥から届いたのはほんの一瞬。次の瞬間、病棟の天井が軋んだ音を立て、蛍光灯が激しく揺れた。壁のタイルが剥がれ、床にガラスの破片が飛び散る。
彼女は、腕に抱えた赤ん坊を胸に押し当て、息を殺すようにして走っていた。白いタオルに包まれたその小さな命は、生後二か月ほどの未熟児だった。弱々しい泣き声が喉の奥から漏れ、肌はまだ透けるように薄く赤い。保育器の中にいたはずのその子を、今は腕の中に必死で抱えている。
「お願い、どうか……」
自分に言い聞かせるように、彼女は繰り返した。ナースステーションのすぐ横をすり抜け、倒れたストレッチャーに足を取られながら、崩れかけた廊下を進む。後ろでは誰かが泣き叫び、酸素ボンベが転がる音が聞こえる。
(この子だけは……絶対に)
突き当たりの非常扉が、軋む音を立てて開いた。外の空気が一気に吹き込み、彼女の頬を叩いた。非常階段へ踏み出すと、上の階から瓦礫が崩れ落ち、壁の一部が崩壊した。
「ひっ……!」
咄嗟にしゃがみ込み、赤ん坊を覆い隠すようにして身を丸める。背中に破片が当たり、浅い切り傷が走った。
彼女は歯を食いしばった。痛みよりも、赤ん坊の体温が手のひらから逃げていかないことだけが救いだった。
階段を駆け下りる。何段飛ばしたかもわからない。靴は片方脱げていた。足の裏にはガラス片が刺さっている感触があったが、それさえ意識から遠ざけていた。
(生きて。この子だけでも)
その言葉だけが、意識の底で反響していた。
階下へ向かう途中、医療用の備品が倒れ、酸のような臭いが鼻を突いた。建物全体が軋み、悲鳴のような音が四方から響いてくる。誰かの泣き声、怒声、アラーム音。すべてが混ざり合って、地獄の底を走るような光景だった。
1階まで降りたとき、玄関口に立っていたのは、若い消防団員だった。まだ顔に幼さの残る青年が、血の気の引いた表情で彼女に駆け寄る。
「こっちだ、こっち!」
腕に支えられながら、彼女は外の光に踏み出す。
病院の建物の上部が、大きく崩れかけていた。すでに何人もの人が、土埃と血にまみれて搬送されていく。だが、誰の名前も、声も、耳に入らなかった。
自動ドアの前で彼女は転びかけた。足元がおぼつかず、抱えた赤ん坊を地面に落としそうになる。とっさに身をひねって庇い、ひざを強く打った。
「大丈夫ですか!?」
消防団員の声に、彼女はかすかに頷くだけだった。顔は上がらなかった。
腕の中で赤ん坊が微かに動いた。小さく、確かに、呼吸している。その胸が上下するのを感じた瞬間、全身の力が抜けた。
彼女はその小さな命を胸に抱きしめたまま、崩れかけた空の下で立ち尽くしていた。
遠くでサイレンが鳴っていた。空はまだ灰色で、建物の向こうから舞い上がった粉塵が光を遮っている。
その目には、涙はなかった。
涙を流すには、まだ早すぎた。
ただ、深い静けさとともに、何かが確かに終わり、そして始まったのだった。
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