マーガレット

此処に在る空

第1話

彼は向こうからこちらに身を乗り出していたマーガレットを、おもむろに取った。


好き 嫌い 好き 嫌い 好き 嫌い——


何が起こっているのかは分かっていた。

分かってはいるけど、理解が追いつかず、時空がゆがむ。三次元に自分をなんとか留めようとする。


時計の小針と重なるように、マーガレットの花びらは彼によってもがれていった。


まだ——まだ、希望はある。

私の瞳には、一筋の光が残っていた。


すき。


さっきまで見知っていた花は裸にされ、気まずそうに佇んでいる。


この瞬間、私の中の彼の像は、むなしく散っていった。


「今までありがとう。」


私は、私の大好物を乱暴に袋に詰める店員さんに向けるような笑顔で、そう言った。


彼は、なにか口を動かしていた。言葉を発しているようだった。


——それより、シャツが気になる。

彼が着ているシャツって、こんなに薄汚れていたっけ?

マーガレットの花びらが花芯を際立たせるように、彼を輝かせていたはずなんだけど……まあ、いいか。


「さよなら。」


結局、今回もだめだったか。

私はイヤホンをつけて、帰りの電車に向かう。


みなさん、聞いてください。私は音楽を聴いています。

自分で奏でる、哀愁漂うメロディです。


ため息から始まり、悟りで終わります。


彼がよく褒めてくれた

長く、黒く、垂れ流しの髪。

切らず、切れず、伸びっぱなしの髪。


それはまるで、私の生き様を表しているようで、少し怖かった。


私が勇気を出して選んだその道は、彼にとって花占いの結果に過ぎなかったんだな。


ちょうど曲が終わりに差し掛かったころ、向かいの扉が開く。

冷たい風が鼻先をかすめ、扉の方に目を向けた。


扉の向こうには、50代と思しき女性が立っていた。

その女性は、日本語を話しそうでもあったし、中国語を流暢に喋りそうでもあった。

あるいは、頭に直接語りかける能力すら持っていそうで——なんて考えていたら、なんだか視線を感じて、上を見上げる。


彼女は私の目の前まで来ていて、こちらをじっと見つめていた。


その目は人並みよりも小さめで決して力を込めている感じではないのに

妙に「見られている」感じがした。


「外、雨降ってるよ。」


「は、はあ。」


「傘、持ってないでしょ。ふふふ。」


何が面白いのか分からなかったが、その人は目を細めて、月のように笑った。


その場をやり過ごすように、私は頷いて微笑んでおいた。


「ひゅーーっとひょい、だよ。」


「え?」


「あ・め!ふふふ。ひゅーーっとひょい!」


そう言いながら、空中で人差し指を揺らしている。


この人は何を言っているのだろう。不審に思う間に、彼女は目の前から消えていた。

人差し指の幻影だけが空中に残る。


電車を降りた。


雨が降っていた。

雨の中に独りというのは、耐え難いものである。


周りの人々は、誰かと雨を嘆いたり、傘という相棒を手にして強気に歩いている。


私は自立しているので、傘には頼りません。

雨と同化して流れていきます。

排水溝に流れ、海に出て、時間をかけて蒸発し、水素か酸素かになって取り入れられたら、

——今度こそ、一緒になれるのかな。


自暴自棄になりたいけれど、暴れたいのに、棄てるほどの覚悟はないことに気づき、諦めて、

屋根がある場所を探して入る。


屋根を探すずぶ濡れの私。


——滑稽だな。


今、何時だろう。

そう思って取り出したスマホは濡れておらず、明瞭に時間を知らせてくれた。

その冷酷なまでの有能さに、腹が立つ。


お湯に沈めることだってできるんだから、調子に乗るなよ。


雨が、ひときわ強くなる。

ひとり、かあ……。


私は、裸になったマーガレットを思い出す。

それを「マーガレット」と呼ぶのもはばかられるけれど、あのコは今どうしているだろう。

あのコも、ひとりなのかな。


有能なスマホさんを使って調べてみると、マーガレットはキク科であり、花芯はたくさんの小さな花が集まって、一つの花を形作っているという。


——あの子、ひとりじゃないんじゃん。


ひゅーーっとエネルギーをためて、ひょいで放出・発散する。


ひゅーっと、ひょいっ。


左手が連動する。


私の中で、楽しいワルツが流れ出す。


この音楽どこかで聞いたことがある、、


そうだ

母の胎内で力んで出たあの瞬間

新鮮な空気が肺いっぱいに入ってきて驚きと興奮が身を包んだあの時の音楽


自然と目を閉じ、口角が上がる。


ひゅっーーっと、ひょい。


あのマーガレットのように根を抜かれて、風にゆれて、どこかに流れて


だけどひとりじゃない

またどこかに根付く日が来る

そう思えて


長い髪も、ひゅーっと、ひょい。


私の身は軽くなった。

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マーガレット 此処に在る空 @kokoniarusora

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