— side.優 —

8

 現在住んでいる二LDKの分譲マンションに一人暮らしを始めて七年目になる。

 IKEOJIの社長になったタイミングで亡くなった妻……三玖と暮らしていた一戸建てを売りに出し、新築分譲マンションの購入を決めた。


「行ってきます」


 三玖の遺影に向かって出発の挨拶をする。毎朝の日課であるが、彼女から『行ってらっしゃい』と返事があったことはただの一度もない。写真に写る三玖は、十年前に亡くなった三十九歳の姿のままだ。


 ◇


 三玖と出会ったのは三十年ほど前になる。

 俺が二十六歳の時、四つ年下の三玖が新卒で『OYAJI』へと入社してきた。


「よろしくお願いします」


 出会った頃から亡くなるまで彼女の見た目はほとんど変わっていない。綺麗な黒髪のセミロングで小柄な体型という清楚かつ小動物のような外見をしていた。しかし小さな口から発せられた真っすぐな声は、見た目に反して社会人になったことに対しての意志の強さを感じさせられた。


 俺と同期の清原、そして三玖は同じ部署に配属され、瞬く間に若手を代表するエースとなった。

 プライベートは無いに等しいくらい仕事に時間を費やしていたので、当然出会いなどなく貴重な二十代の時間が過ぎていった。

 しかし、清原が当時付き合っていた彼女……今の奥さんと結婚したのをきっかけに、俺と三玖も自然と恋仲へ発展していった。

 そして、交際三年後の俺が三十歳になる年に彼女と入籍。

 結婚した後も互いに仕事へ対する熱意は変わらず、子供をつくることは考えなかった。

 

 部署異動が行われる度に三玖は昇進していき、三十五歳という若さで課長にまで上り詰めた。

 当時、OYAJIで役職に就いている者の全ては男性社員のみ。しかも年功序列が根強い企業のため、三十代半ばで課長へ就任する社員は初めてとなり社内では大きな話題となった。

 

 三玖が課長になったのと同時に俺も他部署での課長就任が決まった。

 四つ後輩の三玖に『いつか追い抜かされるのではないか』と妻でありながらも同僚として脅威に感じ、俺はより一層仕事に精を出していった。


 そんな十年前のとある師走の朝、会社へ出社しようといつものように身支度をしていると珍しく三玖が会社を休んだ日があった。


「……気持ち悪い」


 布団にうずくまり彼女が苦しそうに呟く。

 俺はそれを聞いて『まさか』と思った。

 子供ができたのではないか……。しかし、避妊はしている。いや、避妊をしていても妊娠する可能性はゼロではないか。

 そう葛藤しながらも、年末シーズンで片付けなければいけない仕事が大量にあって俺は三玖へ安静にするようにだけ伝えて家を出た。


 もし、俺と三玖に子供ができたら……。考えたこともなかった。

 しかし年齢のことを考えると子供を授かることのできる最後のチャンスかもしれない。今日は定時で上がって家に帰ったら三玖の気持ちを聞いてみよう。

 そんなことを考えながら三玖に『今日は早く帰る』と連絡しようと思ったが、妊娠疑惑に気が動転してしまったせいで携帯電話を家に忘れてきてしまったのである。


「一ノ瀬、ちょっといいか」


 仕方なく気持ちを切り替えてデスクワークをしていると、深刻な顔をした清原に呼び出された。『いきなり何の用だろう』と思いながら案内された空き会議室へと着いていく。


「いきなり呼び出すなんてどうかしたか?」

「……うん。言いづらいことなんだけど、さっき病院から会社に電話があったらしくて」


 清原は、「電話を受けた総務部長と廊下ですれ違って、一ノ瀬と仲のいい俺から伝えてくれって言われたんだけどさ」と続ける。

 なぜだかその先は決して聞いてはいけないような感覚になったのを覚えている。

 しかし、逃げ出すこともできずにじっと次に清原が発する言葉を待つ。


「……三玖が亡くなった」


 その瞬間、頭の中が真っ白になった。『夢なら早く覚めてくれ』と思ったし、一瞬でも三玖の体調不良の原因が『子供を授かったからだ』と考えた呑気な自分が情けなくなった。

 しかし、思い返せば今朝のように数ヶ月ほど前から体調が悪そうな日が確かにあった。それでも普通に会社へと出社していたから、大したことないのだろうとあまり深く考えていなかった。


 それが、まさか『死ぬ』なんて——。


 その後は放心状態の俺を清原に支えられながら、三玖のいる病院に向かった。

 医者から「もっと早い段階で病院に来ていれば助かりましたよ」と言われた時には後悔の念で押しつぶされた。

 もう十年も経つのに、あの日三玖がいなくなった日がまるで昨日のことのように思い出す。


 三玖を失った俺は今までのやる気が嘘のように気力がなくなり、OYAJIで働く目的を見失い退職した。

 それは、体調不良にもかかわらず三玖を限界まで働かせていたOYAJIへの八つ当たりでもあったと思うし、元々OYAJIの年功序列という社風が合わずにいたので辞めることに迷いはなかった。

 何より三玖との思い出が詰まったOYAJIで働き続けることが苦しかった。


 そのような中、タイミング良く当時親しくしていたIKEOJIの役員から声をかけてもらった。どうやらIKEOJIの人事部長が早期退職をしたとかで代わりになる人材を探していたらしく、俺の採用が決まった。


 ◇


「一ノ瀬社長、あの見た目で五十代とかありえないよね」

「ねー。社長夫人狙ってたんだけどなぁ。流石に五十三はキツいわ……」

「うちの親より年上なんだけど」

「あははっ、それなぁ」


 朝、会社に到着してぎゅうぎゅうのエレベーターに乗ると、後から乗ってきた新入社員らしき女子二人が俺の噂をしている。

 他に『五十三』になる『一ノ瀬』という名の社長がいなければの話だが……。

 ここは複数の企業が入ったオフィスビルで、共有施設は様々な企業の社員が使用している。まさか同じエレベーターに同じ会社の人、しかも噂している本人が乗っているとは思っていないようだ。


 昔から童顔のせいで年齢よりも若く見られることのほうが多い。しかし、自分ではそれをコンプレックスに思っている。

 例えば、さほど自分と年齢が変わらないグループ会社の重役が集まるような場所に参加すると『どこの若造が来たんだ』という鋭い視線を投げかけられる。わざわざ聞かれてもいないのに年齢を申告するのもおかしいし、正直なところ不便で仕方がない。


 ――チン


 目的の階へと到着するが噂をしていた女子新入社員と同時に降りる勇気がなく、エレベーターから降りずに一つ上の階のボタンを押した。一階分は階段で下りることにしよう。


 社内であの手の噂をされることや女性から言い寄られることは割とよくある。

 しかし、なぜだか湯浅さんが秘書になってからはめっきり減っていた。もしかしたら彼女が裏で手をまわしてくれているのかもしれない。

 ……いや、それは流石に飛躍し過ぎか。

 よく『秘書は仕事との線引きが難しい』と言われることが多いが、例え彼女が優秀な秘書だからといって明らかに業務外の内容で面倒事を増やしてしまうのは避けたい。

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