まず牛にキュンとしてください。

N氏@ほんトモ

第1話


「まず牛にキュンとしてください」


 そう言われた瞬間、私の脳内で草原がざわついた。

 その場は農業工学部の研究室。背後ではモーと鳴く音が断続的に鳴り、誰かがホルンを吹いているような錯覚に陥る。けれどあれは、冷蔵庫のコンプレッサー音だ。


「……牛に、キュン?……ですか?」


 私は戸惑いながら、目の前のモニターに表示されたプレゼン資料に目をやった。そこには、可愛らしい牛のイラストとともに、カリグラフィ風の筆致でプロジェクト名が記されていた。


『感情共鳴型ミルキネーション計画』

――通称「牛にキュンとね計画」


 目の前で鼻眼鏡を押し上げるのは、我が国が誇る畜産未来工学の奇才、志村ポワンカレ三世教授。白衣はアイロンの折り目まで完璧で、ポケットから覗くペンはなぜか全部ピンク色だった。


「これはね、恋です。恋と搾乳の関係性を、我々は科学的に突き止めようとしているのです」


「えっと……恋を、牛に……?」


「そう。牛に恋をさせ、あるいは人間が牛に恋をすることで、乳の量と質を劇的に向上させるんです。感情を育てるのです。ミルクは愛から生まれる。実にロマンがあるではありませんか!」


 語りながら、教授はカフェラテを作っていた。泡の表面には、見事な牛のラテアートが浮かんでいる。どこまでも本気だ。


 被験牛はベッシー17号。数世代前、テッセラクト化したという伝説の乳牛の血を引く中型のホルスタイン種。つややかな白黒の斑模様。彼女のつぶらな瞳を見た瞬間、私はほんの少し、心の何かが揺れた。


「まずはラブレターです。心を込めて、言葉を贈りましょう」


 そう言われ、私は研究助手としての尊厳を牛舎の前に置き去りにし、ペンを取った。


《ベッシーへ。君の瞳は夜のサイロ。ミルク色の月が浮かんでる。僕は干し草のように、君に踏まれたい。愛しています。――助手Bより》


 渡すと、ベッシーは、反芻しながら、静かにラブレターを喰った。


 翌日、驚くべき結果が出た。ベッシーの乳量は、前日の25リットルから33リットルに急増していた。しかも、ラテアート向きの滑らかさで、牛乳ソムリエ(という職業が存在する)も唸る品質。


「愛は、出るねえ」


 志村ポワンカレ三世教授は、カフェラテをすすりながら、目尻に深いシワを刻んでいた。


 だが問題もあった。他の牛たちが、猛烈に嫉妬を始めたのだ。ベッシーの弟分であるマルタン18号は、ベッシーに向かって哀しげに鳴き、角でラブソングのような音を鳴らしながら、搾乳機に頭を突っ込んでいた。


「もう誰が誰にキュンしてるのかわからん!」


 牧場は、ラブとカオスとモーモーで満ちていた。……いや本当に。そんな牧場がこの世にあるとは、かつての私も思っていなかった。牛たちは恋に悩み、嫉妬し、乳を搾られて感情を吐露する。もはやここは畜産というより、昼ドラの世界だ。


 そんな中、ポワンカレ教授はこの事態を想定済みだった様子。そして「そろそろアレを投入する頃合いですね」と言った。「教授、アレってなんですか?」と質問する私に対して教授はただ笑うだけだった。


 翌日、風を切って現れたのが――畜産支援AIロボ『AI牛次郎(あいうしじろう)』である。


 製造元は株式会社AIアンドロ牧場未来研究所(「AI」の部分は「アイ」と読む)。対人恋愛ロボットの製造で名を馳せた株式会社AIアンドロと畜産未来工学の奇才・志村ポワンカレ三世教授が手を組み新会社を発足。AI牛次郎はその会社が製造する第一号ロボなのだ。


 身長は179cm、胴長短足気味。色黒。髪は角刈り(オプションで変更可)。顔は昔の演歌歌手風で眉毛がとにかく濃い。人間相手なら恋愛相手としてはどうかと思うが、牛にとっては安心感があるのだそう。


 渋い関西弁を操り(音声設定の切り替えは可能)、白衣一体型スーツでキメたその姿に、牛たちは一瞬、草を食むのを忘れた。


「おまえら、恋にモーてんねん!」

 開口一番のその言葉が、牛舎の屋根を震わせた。


 牛次郎はベッシーの前に立つと、人工眉を吊り上げた。


「ベッシー。ウチの乳、搾ってほしゅうてしゃーないんやろ?」


 その瞬間、ベッシーの心拍はぐんと跳ね、乳房がふわりとふくらんだ(物理的にも感情的にも)。その日、彼女はいつもの倍ミルクを出した。しかも、ほんのり甘い香りがした。


 牛次郎は、ミルクの質で牛の心を読むことができた。

「愛されミルク」「片思いミルク」「嫉妬ミルク」「なんとなく出しとくかミルク」などを正確に判別し、時に褒め、時に諭し、時に演歌を流した。牛舎はすぐに牛次郎推しで埋め尽くされた。


 特にマルタンにとって、牛次郎は愛の指導者だった。

 長年、ベッシーに片思いしていたマルタンは、恋文を何度も書いたが、返事は来なかった。角も曲がり、目もどこか虚ろだった。


 ある日、そんなマルタンに牛次郎はそっと声をかけた。


「マルタン、おまえの気持ちはよう伝わっとる。せやけどな、恋いうのはミルクみたいなもんや。あっためすぎたら、腐るんやで」


 やがて、牛たちは恋に生きることに慣れていった。

 放牧地では、目と目を合わせて角を触れ合わせる「ラブヘッドバット」が日常になり、夜な夜な草の上で朗読される恋文に、時折「モー」と鼻を鳴らす音が混じった。


 そうして、ある満月の夜。

 ベッシーは、月光に照らされながら、ぽつりとつぶやいた。


「……あたし、初めてだったのよ。搾乳でドキドキしたの」

 隣のマルタンは何も言わず、ただ静かに干し草の上で、彼女の尾の先をそっと撫でた。


 その様子を遠くから見守る牛次郎の目には、一瞬だけ、涙のような結露が浮かんだ。それは牧場の湿度のせいか、感情プログラムのせいか、誰にもわからなかった。


 翌朝、牛舎には新しい張り紙があった。


『牛にキュンとね計画・第Ⅱ期始動

恋せよ、モーモーたち。愛されるって、乳が出る。』


 牛たちはそれを見て、いっせいにモーと歌った。そう、歌ったのだ。もはや鳴き声とは呼べぬほど豊かな感情と愛を載せた旋律で。


 モー娘。たちのラブレボリューションが今始まるのだ。


<了>

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まず牛にキュンとしてください。 N氏@ほんトモ @hontomo_n4

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