第二幕

柏望

強靱・柔軟・芸術性

 簡単な仕事、のはずだった。標的ターゲットを人目のないところに連れ出し、ちょいとばかし痛めつければ終わる。飯を食いながらだったが確かにそう聞かされた。

 標的ターゲットの男、ヴィクトル・エルジンスキーのことは知っている。そこそこ名の知れたバレエダンサーだ。出演する舞台だって見たことがある。無数の透明な床の上を自由自在に移動しているかのような力強い跳躍、一糸乱れぬ腕の振り、残像が浮かぶほどに鋭い足捌き。共に舞台で踊る群舞コールドはヴィクトルのための軍隊で、客席にいる俺たち観客は心を征服され感動以外を奪われた。

 あの喜びは今も心に残っている。そんな相手に暴力を振るうのだから心は痛むが、報酬で買った安酒で洗い流すのがプロだ。感動できるのも吹雪をやり過ごす屋根と体力を養う食い物あってのことだから。

 ただのバレエダンサーと、マフィア崩れの男たちの喧嘩。警察どころか、目撃者が出る前に終わるカスみたいな仕事。のはずだった。

 俺が路地裏まで誘い込み、奥にいる二人が標的ターゲットに襲いかかるのが仕事の段取りだ。俺は標的ターゲットが逃げ出さないように表通りへの蓋をする役割で、惨めに地面に這いつくばる姿すら見ないはずだった。熱心なファンのフリをして話を聞いたヴィクトルは稽古ばかりの毎日で疲れていると言っていた。酒もそうとうに呑ませておいた。ロクな抵抗もできないだろう。

 表通りに人がいないことを確認してから俺が路地裏の二人へ合図を出す。というのに、重い砂袋をが壁に激突するような、不快で鈍い音が聞こえてきた。

「おいお前ら。段取りど」

 事前のやりとりを守れと訴えようとしたが、聞こえた音と見えている情報が食い違いが言葉を詰まらせる。あの音は相当に効いているはずの音だというのに、なんであの二人が地面に倒れ込んでいて、ヴィクトルが奴らを見下ろしている。

「気安く触るなよ」

 ヴィクトルが襟を正しながら倒れた片方を蹴り上げる。それは舞台の上で脚を上げたときのように優雅な振る舞いで、暴力を振るっているようには思えなかった。しかし、脚に触れた男は石ころのように軽々と吹き飛び、鈍い音を上げて壁に叩きつけられ、泥を巻き上げながら地面に激突している。

 一切の予備動作もなく、音さえ立てずに横にずれたヴィクトルはその眉を悩ましげにくねらせまた脚を上げる。舞台の上であれば見惚れるような動作だ。どんな演技を見せてくれるのかと期待させる振る舞いが、銃を突きつけられるより恐ろしく見える。

「服を汚すなと言わないとわからないのか」

 ヴィクトルの脚が泥にまみれた男を踏みつける。肩の後ろ辺りに深々と埋まった脚は、奴の身体から幾音もの苦痛を奏で出した。甲高さのある弾けるような音は肋骨や背骨の砕ける音。鈍くちぎれるような音は筋肉が腱から離れる音。喉から空気と血の混ざった液体が流れ出る音。身体の内側にあるなにかが破れる音。

 生理的な不快感を与える音の数々。見るも無惨な景色。それらをただ脚を振り下ろすだけでヴィクトルは作り上げた。ライトに照らし出される美しさはそのままにだ。


 喉から壊れた笛のような音を出す相棒を見て、もう片方の男が立ち上がる。背中は揺れていて、足下はおぼつかない。それに比べてヴィクトルの立ち姿のなんと美しいことか。勝敗の結果は、この対比以上に残酷なものだった。

「畜生。ふざけやがって。俺を誰だと思ってやがるんだ。くそ野郎が」

「タダのチンピラだろう」

 男がうなり声を上げて飛び込むのをヴィクトルは直立不動で眺めている。男一人を易々と痛めつけた脚は組み付かれる直前になっても、襲いかかった男が頭から地面に突っ込んでも、ピクリとも動かなかった。

 なにが起きたのかわからないまま、ヴィクトルは観客へ早々に答えを出す。つま先をピン代わりに喉元へ突き刺して、壁に固定された哀れな獲物をその両手で嬲りはじめたのだ。

その一本一本で溢れんばかりの感情を伝えてくる指先。一切の揺らぎなく天高くプリマドンナを持ち上げる腕。英雄的な威厳に説得力を与えつつ身体の輪郭を崩さない美しい肩。それらすべてがムチのようにしなりながら、槍のごとき勢いで、大剣にすら勝る威力で獲物の顔面を破壊している。

 疾風怒濤の勢いで繰り広げられる打擲ちょうちゃくはたった一本の脚に支えられている。生身の左脚は上半身で起きていることなど無関係であるかのように揺らがない。枝葉がいくら揺れようと大木の幹は揺れないし根は動かないように。

 つま先一つ体重を支えられるほどの筋力と柔軟性があれほどの暴力が振るわせるのだ。

「チンピラが一丁前に血なんか流すな。石を詰めた方がマシ程度の脳みそなら、殴って身体でわからせるしかないだろうか」

 あれほど汚すなというと言っている癖に、ヴィクトルの暴力はとどまるところを知らず勢いを増していく。目の前で嬲られている二人は随分と前から動かなくなった。うめき声どころか、息をしている様子すら見当たらない。

 ヴィクトルが私刑リンチに夢中になっているなら、ほんの少しこの場を離れて応援を呼べるんじゃないか。ボスは向かいのカフェで好物のヴォルシチを食べながら俺たちを待っている。いくら喧嘩慣れしていても、多勢相手に立ち回れていても、武器さえ持っていれば話は変わる。

 そこまで考えて背を向けた瞬間、潰されるような勢いで肩が圧縮されていく。

「おい。見せてやってるんだ。目を離すなよ」

 スターから目を離せば後悔するのは舞台の上だけの話じゃない。判断が遅れたのを後悔しながら、俺は袖の内に隠してあるナイフを抜きつつ振り返った。旋回しながら放つ斬撃の狙いは当てずっぽうだが、目鼻口耳、身体の柔らかい部分のどこかに当てるのが目的だった。

 ヴィクトルを明日から始まる公演に出演できないようにするのが仕事だが、ここまでするつもりは本当になかった。目的を達成するだけなら顔に強酸でも浴びせればよかったのだ。明日からの公演でないヴィクトルの舞台はまた見に行きたかったから手段を選んで、選んでしまったから一番やりたくないことを今になってやっている。

 振り返る視界の中にヴィクトルの身体がみるみる収まっていく、。ナイフが切り裂くのは舞台の端からでも輝いて見えたグレーの瞳か。優美な曲線を描く鼻か。ありありと感情を訴えてきた口元か。

 刃がいよいよ肌に触れるかという瞬間に、ヴィクトルは白鳥のように首を曲げ空を斬るナイフを見送った。宙を舞う羽根が風に任せるまま流れていくのを彷彿とさせる自然な動きだった。

 なんという瞬発力!なんという柔軟性!なんという度胸!

 ヴィクトルは挑発的な笑みさえ浮かべながら、華麗な足捌きのみで俺のナイフと殴打を避け続けていく。ナイフを握る指に力が籠もっていく、心臓が吠えるように鼓動して全身へ血液を回していく。遊ばれているのがわかって傷ついた自尊心のせいじゃない。自分の殺意が高揚すればするほど、かのダンサーは美しい舞で応えてくれる喜びがあるからだ。

 

 簡単な仕事、のはずだった。

 バレエダンサー一人捻っただけで割のいい金額が手元に入る。報酬は自分が半分巻き上げるとして、子分共で分けても随分な額になるはずだ。幸運を祝うべく現場の向かいにあるカフェで四人分のヴォルシチを頼んでおいてあるというのに、なぜかアイツらが一向に来ない。

 もしかしたら。ということもあるか。


「あぁ。お前、コイツらの元締めか。ちょうどいい。群舞コールド相手に踊るのも飽きるんだ」

 路地裏に入れば血で出来た水面の上を優雅に舞う踊り手がいた。足下には赤黒くなった肌を露出させ、口や腹から黄色いなにかをこぼしている三人の男がいる。惨劇の現場は数え切れないほど見てきたし、自ら作り上げたことも一度や二度じゃない。

「二の舞を演じる勇気はあるか」

 なるほど、そういうことか。

 迷わず懐に手を滑り込ませ、愛用の拳銃に指を絡める。瞬きを始める目が閉じるより先に照準は標的ターゲットの眉間に定まった。


「さぁ。第二幕をはじめよう」

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第二幕 柏望 @motimotikasiwa

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