第四章 譲渡
あれから数週間が経った。
給湯室で毎日のように顔を合わせていた茜とは、ここ数日はめっきり会うことはなくなっていた。
今の俺にはこれが新しい"日常"だった。
仕事を終え、エントランスを出た瞬間、肌にぬるりとした湿気がまとわりついた。
空はどんよりと曇っていて、雨が静かに降っていた。
俺は傘を持っていなかった。
足早に駅へ向かおうとして、ふと目をやる。
茜だった。
カバンを頭に乗せるようにして、小走りで駐車場を横切っていた。
茜を見たのは久しぶりだった。
胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
……でも、すぐに冷える。
一台の黒い車のドアが開いた。
中から出てきたのは、矢崎だった。
傘を差したまま、何の迷いもなく助手席の扉を開けて、茜に差し出した。
彼女は自然にその傘の下へ滑り込み、軽く笑って何かを言った。
その笑顔は、俺の知らない顔だった。
あの時と同じだ。俺の知らない茜。
矢崎にしか見せない茜。
あんな顔、見たことがなかった。
あんなに楽しそうな声、聞いたことがなかった。
寄り添う距離。濡れないようにと彼に身を預ける、無防備な仕草。
胸の奥が、ごぼごぼと音を立てて濁った。
世界の音が少し遠くなり、雨音だけがやけに強く耳に残った。
俺の中の得体の知れない"何か"が、
また動き始めるのがわかった。
⸻終わった。
何も始まっていなかったが、確かに何かが終わった。
その晩、俺が部屋に戻ると視界の隅にぬいぐるみがいた。
“偽トリスくん”。
百均で買った黄色い鳥のマスコット。
彼女が好きだと言ったキャラクター。
机の引き出しから瓶を取り出す。
中のビーズは、もう意味をなしていない。
この感情は何だ、何色のビーズだ、得体の知れない"何か"だ...
そんなことはもはやどうでもよかった。
俺はただその濁った色を手のひらにすくい取る。
ぐい、と、ぬいぐるみの腹に詰め込む。
詰めるたびに、俺の中の何かが減っていく。
「心も一緒に入れちゃらんといかんとよ」
どこかで聞いた声がする。
そうだ。
これはもう、“整理術”なんかじゃない。
俺の“心”そのものだ。
"心"を渡しているのだ。
俺は無心で偽トリスくんに針を潜らす。
最後の綴じ目に針を刺す。
ゆっくり縫う。無言で、丁寧に。
終わる頃には、指先から熱が失われていた。
「……まあ、今日の分はこれで...」
黄色い
まぶたを閉じる。耳の奥、心臓の音が遠ざかっていく。
***
翌朝――
中里は便箋を一枚したため、封筒に入れた。
字は震えていたが、内容は簡潔だった。
これは君が好きだった子です。
見つけたとき、なんだか君に似ている気がしました。
大事にしてあげてください。
紙袋に手紙とぬいぐるみを入れると、それをそっと封じた。
机の上に並ぶ瓶を一瞥するが、もはやそこに関心はないといった様子で玄関を出た。
その日の夕暮れ、彼女のマンションの前に中里はいた。
郵便受けの前で立ち止まり、周囲をきょろきょろと見回している。
袋を置き、
足早にその場を離れていく男の背は、ひどく軽やかで、空っぽだった。
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