あの日の君と今日の海

水澄

第1話

 物事には何事にも起承転結がある。

 中学時代に国語の漢文で由来を知り、高校時代に現代文読解の基本として学んだことである。さらには大学入試の小論文対策で叩きこまれ、卒論の作成中、ゼミの教授に心掛けろと口酸っぱく指摘された。おまけに社会人になってからは、社内文書のチェックをしてもらった課長にそれが成っていないと手直しを命じられた。

 そのくらい誰でも知っていることであり、また様々な事柄に当てはめて応用の利く古来よりの、今でいうところのテンプレートだ。

 もはや一般常識ともいえるそれを何故に今更、過去を振り返りつつも考えているのかといえば、まさに今日、それを意識するきっかけがあったからに他ならない。

 僕の職場は駅から徒歩十分ほどの小さなオフィスビルの一室にある。オフィスビルと書くと聞こえは良いが、その実築年数は既に三十年を超えていて、特別に大きなビルでもないので雰囲気は完全に雑居ビルのそれである。

 そんな職場に新卒で入社して早十年、当然ながら、自然と出来上がった一日のルーティーンというものが存在する。十八時を過ぎたら一度手を止め、オフィスを出るのもそんなルーティーンの一つだ。ちなみに十八時は就業規則上の終業時刻であるのだが、そのタイミングですんなり帰れたことなど数えるほどしかないため、もはや感覚的には夜の休憩時間くらいのものになっている。入社当時には誰一人帰ろうとしない先輩社員たちに驚き、また同時にかなりの不満を抱いていたものだが、まったく慣れというものは恐ろしい。

 オフィスを出ると左手に廊下が伸びていて、その途中のエレベーター脇に設置された自販機で缶コーヒーを一本購入する。もうすぐ十一月の半ばだっていうのに、いまだにホットの飲料への切り替えがされていないあたりが物寂しい。

 さらに廊下を進むと、突き当りに非常口の重たい金属扉があり、それを開けた先の非常階段が目的地だ。

 開け閉めの度に雉が鳴くように軋む扉は蝶番が錆びているのだろうが、誰も注油などしないため、音は日に日に酷くなる一方だ。

 扉を抜けると、待ってましたとばかりに冷たいビル風が迎えてくれる。非常階段の横はすぐに隣のビルの壁が迫っていて、おかげで昼間は陽が当たらないし、夕方から夜にかけてはビル風がひどい。

 そんな場所にわざわざ足を運ぶ理由といえば、踊り場の隅に目をやれば一目瞭然。そこにはいつ、誰が置いたのか、スタンド型の灰皿が置かれている。休憩をとるとき、都度ここにきては煙草を吸う。それが、僕のルーティーンだ。

時代の流れもあってか以前に比べて喫煙者の数は目に見えて減ってきている。それは我が社でも同様で、喫煙者は僕を除くと片手の指で足りてしまうほどに少ない。おかげで年々社内でも肩身が狭くなっているのだが、反面、この喫煙所で誰かに鉢合わせするという機会も減っていた。そのため、ここにいるときは自ずと一人になれることが多い。

 ほんの数分とはいえ、一人になってしっかりと頭をリセットする。それができるかどうかだけで、日々のストレスの量は随分と違うように思える。だからこそここはなくてはならない場所なのだが、夏は熱がこもってやたらと暑く、冬はビル風のせいでめっぽう寒いと立地条件は劣悪極まりないので、誰しもにお勧めできるわけでもない。事実、今日もその思いの外の寒さに、自席に置いてきた上着を持ってくるべきだったと苦笑していた。


 また一つ吹き抜けるビル風に、思わず両肩をすくませる。そんな仕草に、もう冬も近いのかと季節を思い、またも口元に笑みが浮かんでくる。それは自嘲のそれであるのだが、生憎とそれを指摘してくれるような誰かはここにいない。

 大人――特に社会人になってからというもの、実時間に対しての一年という長さの感覚は、年々短くなってきている。常日頃何かに追われているせいで、季節が見せる機微には疎くなり、だからこそ次の季節はいつだって「もう」であり、見えるのはいつだってその後ろ姿ばかりだ。

 果たしていつからそれが日常になってしまい、またその日常はいつまで続くのだろう? 吐き出したそばからさらわれていく紫煙にそんな疑問符をのせていたときだった。

 ふいに非常口の扉が開き、見れば、後輩の町田が立っていた。

「お疲れ様です」

言って町田は小さく頭を下げ、扉を閉めて外に出てきた。「おう、お疲れ」と返すと、彼はもう一度ペコリと頭を下げてから、僕に向けて人差し指を立てる。

「村瀬さん、一本もらってもいいですか?」

「いいけど、そもそもお前煙草吸うんだっけ?」

そそくさと近寄ってくる町田に煙草を一本差し出し、次いでライターを手渡す。町田はそれを「すいません」と受け取ると、再び小さく頭を下げる。

「大学の頃までは普通に吸ってたんですよ」

それはつまり、今は吸っていないというのと同義だ。見慣れた町田が、煙草に火を点けるという見慣れない仕草を僕に見せる。

 風のせいでライターは一度では着火せず、手で遮りながらにカチ、カチと何度かクリック音を鳴らす。ようやく火の点いたそれを町田は大きく吸いこむと、その倍の時間をかけてゆっくり吐き出す。

「あー、やっぱ久しぶりに吸うと駄目ですね。すっげークラクラします」

「だろうな」

言いつつも、町田の表情はどこか明るい。

「村瀬さんのこれ、マルボロですよね? 何ミリのやつですか?」

「八ミリだよ。メンソールのライトだから」

町田に答え、僕も新しい一本に火を点ける。町田はクラクラする――つまりは重いと感じているそれも、僕にしてみれば十年近く吸い続けている銘柄で、すっかりと喉に馴染んでいる。

「八ミリでこれか、俺、昔はセッター吸ってたんですけどね」

町田はもう一度煙草を吸い、やはりクラっときたのか苦笑いを浮かべる。かつてセブンスターを吸っていた身からすれば、それの半分程度の重さしかない煙草で立ち眩みを覚えてしまうのは意外だったのかもしれない。

 それにしても、と思う。町田は今年で入社三年目あたりだったはずなので、大学の頃といえばそう昔でもないだろうと。だが、煙草の半分ほどを残したままにくしゃくしゃと揉み消した町田の姿に、はっと考えを新たにする。

 そうではないのだ。僕にとってはほんの数年前にしか過ぎないその過去は、社会人になってからの町田にとってははるか昔に思えるほど遠いものなのだと。

 こちらに向き直った町田に、不意に既視感を覚える。

 その既視感に浮かぶ実像は町田の姿ではない。けれども、今の町田はそのかつてと同じ結末を想起させるに十分な雰囲気を纏っていた。

「村瀬さん、俺、仕事辞めます」

次いで差し出されたライターを受け取り、答える。

「ああ」やはり「そうか」

僕もまた、煙草を揉み消す。解けた火種がパッと弾け、すぐに消えていく。

「あんまり驚かないんですね?」

「いや、驚いてるさ。ただ、お前が珍しくここに来た時点で、ちょっとはな」

「ああ、確かに。それもそうっすね」

バツが悪そうに町田が笑い、つられて僕も小さく笑う。

「次行くところはもう決まってるのか?」

「一応は。大学の先輩の勤めている会社なんですけど、色々相談のってもらっていたら、それならうち来いよって誘ってもらえて。なので、年明けからそこでお世話になります」

「そうか、年明けってことは、お前と一緒に働けるのもあと少しだな」

何気なく言った言葉だったが、不思議と町田は表情を曇らせ伏し目がちになる。

「なんかすいません。村瀬さんには入社したころからよくしてもらっていたのに」

「なに言ってんだよ」

そんな町田の腕をポンと叩く。

「俺のことなんか気にすんな。それに誘ってもらえたってことは、必要とされているってことだろ? なら、そっちで働く方が間違いなくお前のためになるはずなんだ。だから、気にせず行ってこい」

 あえて歯を見せて笑って見せる。「な?」ともう一度腕を叩いてやると、ようやく町田にも笑顔が戻る。

「そうっすね、ほんと、ありがとうございます、村瀬さん」

「だから気にすんなって、これでも一応先輩だしな。それで実際のところ、出社はいつまでなんだ?」

「在籍は今年一杯ですけど、有休消化もあるので出社は今月の締め日までですね」

締め日までとなると今月の二十五日までだ。そこから逆算したうえで休日も勘案すると、町田の残りの出社日数は実質十日ほどとなる。

「なら、休み明けは残務の確認と引継ぎの段取りだな」

「はい、よろしくお願いします」

「おう、それで今日はあとどのくらいだ? もう上がれるのか?」

「今日はもう終わりにする予定です。村瀬さんはまだ残っていくんですか?」

「とりあえず切りのいいところまでは進めていくつもりだよ。でもって、戻るのはあと一本吸ってからだな」

「そうですか、それじゃ俺はお先に失礼します」

一礼する町田に手を上げて応えると、その背が扉の向こうに消えるのを見送ってから、次の一本に火を点ける。缶コーヒーのプルタブを開けると、ぐいと一口。しっかりと冷えたその喉越しに、思わず両肩がぶるりと震える。

 また一人、後輩が辞めていく。

 こうして背中を見送ったのは、果たして何人目だっただろうか? 先の既視感を思い返すに、一人二人の話ではない。そのうえでたった今、そこに町田が加わった。

 今までに辞めていった後輩たちは、今頃どうしているだろう? この会社にいた時と比べて、充実した毎日を送れているのだろうか? だが、そう思ったところで今でも連絡を取り合っている元後輩などいないので、それを確認する手立てはない。

 僕自身、この会社しか知らないので、他の会社の労働環境がどういったものなのかは、人づてに聞いた程度しか知識がない。ただ、そうやって聞いた話のどれもが、少なくともうちよりはましに思える。

 だから、辞めていく後輩たちを責める気持ちは微塵もない。それどころか、今日の町田もそうだが、次に繋がるきっかけがあったことを羨ましいとすら思っている。

 この会社に勤めること、早十年。

 ただそれは、辞めなかっただけに過ぎないのだ。

 辞める理由ならばいくらでもあった。それでも、辞めた後につながる何かがなかったばかりに、いつだって踏ん切りはつかなかった。僕と、辞めていった後輩たちの違いは、きっとそれだけなのだ。

 物事には何事にも起承転結がある。

 誰しもにある学生時代を起こりとするなら、新社会人となる就職は承となるのだろう。ならば転は? 後輩たちの転職は、きっとそれに当たるだろう。では、僕の場合は?

 そもそも今の僕の人生は、起承転結のどこにいるのだろう? なんなら序破急だって構わない。だが、思えば思うほどに転んではいないし破れてもいない気がしてならない。

 万事起こりてそれを承けてはころりと転(まろ)びて結実す。

 学生時代にあんなにも徹底するよう叩き込まれたっていうのに、肝心の自分自身の人生がそれをまるでできていないというのは、どうにも笑えない。

 短くなった煙草をくしゃくしゃと揉み消し、半ばほど残っていた缶コーヒーをぐいと一気に流し込む。それから重い非常扉を開き、またいつもの日常に戻らんとオフィスへと歩を進めていく。

 本当はとっくにわかっているんだ。

 転じるためのきっかけがなかったんじゃない。そのきっかけを、僕は自分で作ろうとしてこなかっただけなんだと。自らの人生に句点を打ち、次の段落に続く「そして」の接続詞を書き出せないだけなんだ。

 そうして僕は、休憩明けのいつものルーティーンに戻っていく。

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