第3話 影のない場所
頬に、白いものが触れた気がした。
風でもなく、熱でもない。
ただ、そこに「光」があるような感覚だけが残った。
空を見上げると、白の濃淡がかすかに揺れている。
これまでも世界は明るかった。しかし、それを光と呼ぼうと思ったのはこれが初めてだった。
少年は、ゆっくりと手を伸ばす。光のある方へ、少し背伸びをしながら。
届くなんて思っていない。ただ、歩くという動作以外で実感できる何かが欲しかった。でも、その願いは、すっと空に溶けていった。どこにも影はなかった。何も遮らず、手のかたちをした空気が、ただ広がる空に重なっていた。
目の前にあるはずの手のひらが光を通しているのか、それとも光の方が彼を避けているのか–––– その違いすら、どうでもよかった。
視線を足元に落とす。影はない。
この世界が、彼の存在を「映す」ことを拒んでいるようだった。
少年は、両手を見つめる。左右にそれぞれ5本ずつ、確かに指はある。だが、その輪郭だけが、どこか曖昧だった。
手を動かすたびに、わずかに滲む。視線を動かすたびに、指がふっと”消える”ように見える。一本、二本......と数える。けれど、視界の端で数が揺らぐ。そのたびに確信が薄れていく。自分が見ているこの手は、本当に「自分」のものなのだろうか。
目を閉じて、手のかたちを思い出そうとする。けれど、内側に浮かぶ像はどれもぼやけ、霞んだ鏡のなかを覗き込むようだった。
胸に手を当てる。鼓動は感じる。だが、それもまた”自分のもの”という確信が持てなかった。
この感覚は内側から生まれているのではなく、どこか遠くから借りてきたもののように身体の奥を通り過ぎていく。
空気が揺れた気がした。だが、それは風ではない。
実際に何かが動いたわけではない。
それはもっと遠く、もっと前からやってきた。
––––記憶だった。
ある朝、まだ寒さの残る季節。
学校へ向かう途中、背中に差す冬の陽。
足元に長く伸びる、自分の影。
なぜその光景を思い出したのかはわからない。ただ、そこには確かに「影」があった。
誰に見せるでもなく、「自分」であることの証だった。
けれど今、この世界では、自分はその証を一つも持っていない。
目を開けても、自分はどこにも映らない。
声を出しても、音にならない。
影も、重さも、名前もない。
それでも、自分は”ここにいる”と言えるのだろうか。
その問いだけが、胸の奥に静かに沈んでいった。
問いすら、もう輪郭はなかった。
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