毒入りオイスター事件
川上いむれ
第1話
私が生まれたのはとある田舎町の小さな病
院だった。産まれた当初は体が弱く、医師からはこの子は3歳の誕生日を迎えられないかもしれないと告げられたほどだったが、周囲の心配をよそに私はすくすくと成長していった。
転機が訪れたのは9歳の時だった。ある日、私は両親と一緒に法事のために遠い県に車で行くことになった。その車は、高速道路で飲酒運転の大型トラックに接触された。
両親はほぼ即死だった。私だけが奇跡的に脳や内臓への重大なダメージを免れ、生き残った。2週間の入院生活の間、私はほぼ抜け殻のようになっていたという。無理もないことだろう。9歳の子供にとっては世界にも等しいものを一度に奪われてしまったのだ。
退院すれば私は親戚の家に引き取られるはずだったが、そうはならなかった。ある日病院に恰幅の良い紳士が現れたのだ。その人はこう言った。──私は君のお父上の古い友人で、若い時には色々世話になったものだ。その恩返しの意味も含めて、君を養子として引き取りたいと思う。君自身が嫌でなければ、一緒に来てほしい。
私は黙ってうなずいた。他にどうすればいいのか分からなかったからだ。
こうして私は
私は自分の寝室で目を覚ました。一人用の部屋としては笑ってしまうぐらい大きい部屋だ。置いてある家具も黒檀やチーク製の高価なものばかりだ。
私は18歳になっていた。あの事故をきっかけにして、私は富豪である稲見沢家に引き取られ、養子として育てられた。つまりちょっとした令嬢の扱いだ。
「
部屋の外からメイドの天野さんの声がかかる。彼女はこの屋敷で様々な世話をしてくれている有能で献身的な使用人だ。私はお嬢様らしく答える。
「はい、もう行きます」
しずしずと歩く天野さんの後ろについて食堂に向かう。…天野さんは私が稲見沢家に来た時からこの家で働いているが、見た目はその時からまるで変わらない。どうなってるんだろう。もしかしたら魔女なのかもしれない。
「ねえ、天野さん。お父様の容態はどんな感じなの?少しは良くなったかしら」
天野さんは立ち止まって答える。心なし目を伏せ、
「…あまり良くはないようです。癌というのに特効薬はありませんから。お医者様には覚悟するように言われております」
私の養父、稲見沢二郎は消化器系の癌を患って現在ある大学病院に入院中だ。事故で家族を失った子供の頃の私を引き取って面倒を見てくれた養父が病で衰えていく様子には心が痛んだ。だけどもう回復は難しい段階に来ているようだ。
食堂についた。テーブルの上には美味しそうな朝食が並べられている。天野さんが見守る中、私は朝ごはんを頬張る。
現在この屋敷には私と天野さんしかいない。養父が元気な頃は一緒に住んでいたが、彼が入院してからは二人だけだ。稲見沢二郎には私以外に血の繋がった実の娘(私からすると血の繋がっていない姉にあたる)が二人いるが、そのどちらとも今はこの家から離れて暮らしている。養父に奥さん、つまり私の義理の母親にあたる人はいない。私を引き取る前に離婚したらしい。
ご飯を食べ終わり、歯を磨いて身支度を整え、制服に着替える。今日は月曜なのだ。天野さんに門のところまで見送ってもらってから高校に行く。
「それじゃ、行ってくるね。天野さん、今日も朝ご飯美味しかったよ」
にこりと微笑む天野さん。
「はい、千奈さまも、お気をつけて」
鋳鉄製の門を開けて私は歩き出した。
学校の授業は退屈だ。正直言って、私はこの高校ではだいぶ浮いている。クラスでの話し相手はほんの2、3人しかいない。私は同世代の男子は苦手だし、同世代の女の子にしても一握りの気を許せる相手以外には仲の良い人もいない。昼休み、私は数少ない友達と一緒にお弁当を食べる。すると、携帯に着信音が鳴った。見ると天野さんが電話をかけてきている。
「はい、もしもし…。どうしたの、学校にいる時電話かけてくるなんて珍しいね」
「申し訳ございません。でも、すぐにお家へお帰りください。私が運転しますから、そのままY病院に行きます」
「それって…」
「ええ、二郎さまが危篤だと、今病院から連絡がありました」
養父は私たちが病室に着くのとほぼ同時に亡くなった。医療機器の管を外された養父の顔は驚くほど穏やかで眠っているようだった。私は少しだけ泣いた。
様々な手続きが済み、大きな葬儀場で養父の葬儀が行われた。斎場で私はあまり会いたくない人たちと会わねばならならかった。
養父、稲見沢二郎の親類たちは私のことをあまり快くは思っていない。最大の理由はやはり遺産のことだ。私のような稲見沢家と血が繋がっていない小娘に遺産が分配されるなんて我慢ならないと思っているのだろう。養父は遺産は私を含めた子供たちに平等に分けるようにとの遺言を残していたが、それもまた欲の皮の突っ張った親族たちの癪に障っているようだ。
親類たちの視線が刺さる中、私は葬儀に参列した。私はこの人たちの事がやっぱり苦手だ。いつも高価な服に身を包み、いつもひそひそ声で何かを話している人たち。私が元は庶民的な家庭の人間だったから、余計にそう思うのかもしれない。
それに対して、血の繋がっていない私の姉たちは私の味方でいてくれた。葬儀が執り行われている間、私は隣に座っていた長姉の手をそっと握った。心細さを感じたのだ。長姉はしっかりとその手を握り返してくれた。
葬儀は滞りなく終わった。家に戻った私は寝室で一人ぼんやりと考え事をしていた。これからどうなるのだろう?当分の事については心配は要らないだろう。長姉は私への支援を約束してくれた。大学への進学ぐらいまでならなんとかなるだろう。
やはり懸念は遺産のことだ。はっきり言って、私は養父の遺産が欲しいとは思わない。彼の遺言書は私を含めた三人の娘で平等に分けることを指示していたが、やはり遺産は養父と血の繋がった二人の娘、つまり私の義理の姉たちに渡されるべきだ。綺麗事を言うわけではないが、私は両親を失った私を引き取って育ててくれただけでも養父には十分感謝しているのだ。次に姉たちにあった時に、私の気持ちははっきりと伝えようと思った。
懸念はもう一つあった。姉たちが味方についてくれているとはいえ、養父の存在を失ったことで稲見沢の一族における私の立場は大幅に弱くなるだろう。ある意味、養父の死によって私は自分の大きな後ろ盾を失くしたことになる。下種な言い方をしてしまえば、稲見沢二郎の存在はこれからの人生においても私にとって大きなアドバンテージとなったはずだが、それが無くなってしまった。
「まあ…プラスがゼロに戻っただけだと思えばいいか……」
私は長い葬儀と親族たちとの顔合わせで疲れ切っていた。大きなベッドにもぐり込み、顔まで毛布をかぶってそのまま深い眠りについた。
養父の葬儀が終わってから一週間以上がたった。私の身の回りには特に変わった事は起きなかったが、ある日、天野さんに急に呼び止められた。
「千奈さま、成城の月子さまからお手紙が届いております」
私ははっとした。稲見沢月子は養父の弟の娘にあたる人で、私から見ればいちおう
問題は、私と月子さんの関係にあった。はっきり言って、私は彼女のことがあまり好きではなかったのだ。彼女は見た目も物腰も見事な令嬢っぷりで、上品が服を着て歩いているような感じの人だけど、昔から私に対する態度はあまり温かいものではなかった。言葉や振る舞いの端々から稲見沢家と血の繋がっていない異物である私に対する冷たい敵意と侮蔑が伝わって来るような人なのだ。彼女の酷薄そうな目と視線が合うと私はいつも身が縮む思いがする。
「手紙?なんで…?」
「私にはご事情は分かりかねますから、千奈さま自身でお確かめください」
言われるまでもない。私は封筒を破って手紙を取り出した。上質な紙に蔓草の意匠が施されており、罫線が引いてある。私はこわごわとその手紙を読み始めた。
日曜日、私はクローゼットで服を選んでいた。この屋敷は豪邸だけあって、クローゼットだけでもちょっとした広さの空間がある。ただ、私は服をたくさん買ったりするタイプではないので中身はそれほど多くはない。私は悩んだ末にそれなりに上等なスカートスーツを着ることにした。
先日届いた月子さんからの手紙の正体は、会食への招待だった。彼女は養父を亡くした私へのいたわりの言葉を述べ、「稲見沢家」同士の交流を温めるための二人での会食を提案したのだ。なんでもそういう場面専門の料理人が腕を振るって素晴らしい料理を拵えてくれるらしい。
正直私は月子さんと二人きりで食事なんて気が乗らなかったが、無下に断ったらそれこそ失礼にあたる。私は固辞せず感謝と了解の手紙を彼女へ返した。それに月子さんも真摯な同情と気遣いからこのような場をセッティングしてくれたのかもしれない。
「よし……これでいいよね」
私は礼装に着替え、控えめにアクセサリーを身に着け、天野さんに髪の毛を整えてもらった。
「お綺麗ですよ、千奈さま。私が言うのもなんですが、どこへ出しても恥ずかしくないお嬢様振りです」
微笑みながら天野さんが言う。私はこの人にずっと頼りっぱなしだ。
「だよね……。じゃあ行ってくるね」
私はフォーマルバッグを手にとって玄関を出た。天野さんが門まで見送ってくれる。正直結構緊張している。家の前で待っていたハイヤーに乗って私は出発した。
車は一時間ほど走ってとある洋館の前に止まった。月子さんの屋敷だ。煉瓦造りの堂々としたたたずまいで、私の家よりもさらに豪勢に見える。尖塔がついているのも相まって、私は西洋の城か教会のような印象さえ抱いた。
使用人によって屋敷の応接間に通された。壁にかかった絵画(おそらくクールベだろうか?)が目立つ大きな部屋だ。部屋の真ん中に低いテーブルをはさんで置かれたソファーに月子さんが優雅に座っていた。
「いらっしゃい、千奈さん。よく来てくれたわね」
彼女は隙のない笑顔で私を迎えた。
私はこの時、しまった、と思った。理由は単純だ。私はこの時、やっぱりこの人の事は苦手だと思ってしまったのだ。
私には読心術の才能はないけど、彼女から発散されている何とも言えない冷たい空気のようなものを感じることは出来た。この人は私の事など全然歓迎しておらず、むしろ
「本日は素敵なお食事の会にお呼び頂いてありがとうございます。お気遣い痛み入ります」
私は慇懃に型通りの挨拶をした。月子さんは笑ってうなずき、
「そんな堅苦しい態度は取らなくていいのよ…。私とあなたは同じ一族なのだから。今日はゆっくりしていって頂戴」
と言った。内心私はますます居心地が悪くなった。
「そうだ、今日料理を作ってくれる専属の料理人を紹介するわ。お入りなさい」
月子さんは部屋の外に声をかけた。するとドアが開いて二人の人が入ってきた。片方は糊の効いた料理人服を着たまだ若い女性で、もう一人はサイズの小さい同じ服を着た男の子だ。まだ12歳ぐらいに見える。──いや、なぜ少年が??私の疑念に気づかないように女性の方が挨拶をした。
「本日の料理を提供させていただきます料理人の
そういって丁寧に一礼する。一瞬遅れて隣の男の子もぺこりとお辞儀する。私はさすがに気になったので聞いてみた。
「あの…そちらの男の子は?その子も料理人なんですか?」
料理人の舞原さんの代わりに月子さんが答えた。
「その子は
……料理の世界ではまだ年少のうちから訓練を積むのが大事とは聞いたことがあるが、こんな小さい子を働かせるのは大丈夫なのだろうか。まあゲストの身である私は余計なことは言わない。
「そうなんですね…。それじゃあ舞原さんと清太郎くん、今日はよろしく頼みますね」
二人の料理人はまた一礼すると部屋を出て行った。暗い色合いのクールベの絵が掛けられた部屋に、私と月子さんが残された。
「さてと…、それじゃあ私たちもダイニングに移りましょうか。積もるお話はそちらでしましょう」
月子さんが立ち上がって言う。私もソファーから立ち上がり、それに従った。
ダイニングルームは黒い板張りの床の部屋で、かなりの広さがあった。細長いテーブルが置かれており、そこにテーブルクロスがかけられている。月子さんは細長いテーブルの片端──入り口から見て奥の方に座った。私はテーブルのもう片方の端の椅子に座る。しばらくの沈黙ののち、月子さんが口を開いた。
「伯父さん──あなたのお父さんの事は残念だったわね。いくら血が繋がっていないとはいえ、悲しかったでしょう」
慰めの言葉の形は取っているものの、ほとんど無礼一歩手前の言い方だ。私は一瞬くちびるを噛んでから答える。
「はい。
月子さんは薄く笑って答える。
「そうよね。環境も、ステータスも、元々のあなたには想像もつかなかったものが手に入ったでしょうからね─。うちの一族のものはみなあなたに感心しているわ。あの子は宝くじを引き当てたようなものだって」
私は一瞬頭が真っ白になる。この人は私の二人の生みの親があの事故で惨たらしく死んだことまで、そのように表現しているのだろうか。この人は、私を挑発するためにこの食事に呼んだのかとすら思った。
「………」
私は黙って月子さんの顔を見つめる。このような時、私はただ相手の目を見る。睨むまではしない。だが、相手の心を見透かすようなつもりでひたすらに目を見る。月子さんの目からは、何も読み取れなかった。ただ薄い笑みが顔に貼り付いているだけだ。
その時、使用人がカートを押して最初の料理を運んできた。いわゆる前菜だ。
「前菜のスイス風サラダでございます」
私は目の前に置かれた料理にフォークを伸ばした。今は会話などしたい気分ではない。
前菜は、美味しかった。スイス風サラダというものは始めて食べたけど、レタスやラディッシュといった野菜にかりかりに焼いたベーコンや半熟の茹で卵、クルトンが加えられており、具沢山の豪華なサラダという感じだった。月子さんとの会話が苦痛だったことの対比でことさらに料理が美味しく思えたのかもしれない。
次にスープが運ばれてきた。トウモロコシを裏ごしにしたポタージュで、シンプルな料理だったけどこれも素朴な味わいで美味しかった。その次に肉料理が運ばれてきた。
「子羊肉のローストのガーリックソースがけでございます」
使用人が料理の名を言い、そこに被せるように月子さんが言った。
「肉料理の次は牡蠣が出るから、お腹いっぱいになりそうだったら子羊肉は遠慮せず残してくれて良いわよ。私にとっては次の牡蠣こそがメインのつもりだから」
普通魚貝の料理は肉料理の前に出すものではなかっただろうか…。まあ、そこら辺は流動的になる事もあるらしいし厳格に決まってる訳ではないのだろう。
私はナイフとフォークで肉を切り分け、口に運ぶ。とても美味しい。子羊の上品な柔らかい肉に香り高いソースが絶妙にマッチしている。あの舞原さんという料理人は確かに腕のあるシェフなんだなと思った。
「どう、美味しいでしょう?」
月子さんが笑いながら私に尋ねる。私はこっくりとうなずいた。
「はい…とても美味しいです。素材も作り方も良いんでしょうね」
「そうでしょう。あの舞原さんは3ヶ月前に雇ったばかりの人なのだけど、良い働きをしてくれてるわ。前に雇っていた料理人が見劣りして、すぐに解雇してやったぐらいなの」
くすくすと笑いながら月子さんは言う。人をクビにすることを喜んで語る人なのには今さら驚かないけど、やっぱりちょっと嫌な気持ちになった。私は堪えきれなくなって一つ質問する。
「あの…急な質問で申し訳ないんですけど、月子さんは私と一緒に喋っていて楽しいですか?私って正直言って抜けてるところもある人間だし、月子さんに気づかない内に不快な思いをさせてるかもしれないって時々思うんです」
今この場の会話で不快な気分になっているのは私の方なのだから、これはほとんど当てつけのような質問だった。ところが月子さんはチェシャ猫のような笑みを顔に貼り付けたまま答えた。
「ええ、とっても楽しいわよ。だってあなたとお話しをしていると、自分の魂を覗きこんでいるような気がするんですもの」
私はその時何とも言えない悪寒を感じた。一瞬だけ席を外そうと思った。椅子から立ち上がり、月子さんに告げる。
「すみません、食事の途中で失礼ですけど、お手洗いに行きたくて。どちらにありますか?」
「トイレなら部屋を出て廊下の突き当たりの右にあるわよ。案内させましょうか?」
「いえ、一人で大丈夫です…。ありがとうございます」
私は部屋を出て廊下を歩き始めた。豪邸だけあって廊下がとても長い。ずっと廊下を歩く。…と、廊下の途中で誰かがうずくまっているのに気づいた。すすり泣くような声も聞こえる。こんなところで何をやっているのだ?
「あの…大丈夫ですか?使用人の方?」
私が声をかけると、その人は顔をあげた。あっと驚く。その人、いやその子は料理人見習いの清太郎くんだった。顔を涙で濡らしている。
「あっ…す、すみません。お客様にこんなところをお見せして、申し訳ないです…」
そうは言うものの、変わらず泣きじゃくっている。何があったのだろう。とりあえず落ち着かせなくては。私は彼の背中をとんとんと叩いてやる。
「ねえ、どうしたの?怒らないから、何があったのか私に教えてくれない?」
ようやく落ち着いたようで、清太郎くんは答える。だが言うことが要領を得ない。
「あの、牡蠣、牡蠣が…」
牡蠣?次の料理に出てくるはずだけど、それがどうしたんだろう?
「牡蠣だけじゃ何のことか分からないよ。さっきも言ったけど、怒らないからゆっくり答えてくれる?」
清太郎くんは一瞬黙り、ごくりと唾を飲み込んだ。ついに意を決したように泣き腫らした目のまま答える。
「お客様は、次に出てくる生牡蠣を召し上がってはいけません。そこには毒が仕込まれています」
毒。私は自分が耳にしたことが信じられなかった。さっき清太郎くんに落ち着けと言ったばかりなのに今は自分の方が混乱していた。
「ねえ、毒ってどういうことなの?本当なの?いったい、誰がそんなことを…」
清太郎くんはかぶりを振って答える。
「お客様がいらっしゃる少し前に、お嬢様…月子さまが厨房の中に入ってきたんです。普段はそんな事しないのに珍しいなと思いました。その時はたまたま舞原さんは買い物で屋敷にいなかったんです。そして月子さまは、僕にあるものを手渡しました。注射器でした」
注射器。その中には何が入っていたんだろう。
「お嬢様は、僕にそれを皿に盛られた生牡蠣に提供する直前に注射して欲しいと言いつけました。舞原さんの目を盗んで上手くやってって。だけど、かならず白いお皿の方にだけ注射して、銀の縁が付いたお皿の方には何もするなと厳しく言いつけられたんです」
私は啞然としていた。思考が追いつかないし、何を言って良いかも分からなかった。
「僕は、お嬢様に逆らうことが怖かったんです。屋敷に雇われてる料理人は、主人には絶対服従ですから…。それに、言う通りにしなかったら、どんな折檻が加えられるか…。だから、だから僕はさっき…」
言葉を切る清太郎くん。うつむきながら続ける。
「さっき、お嬢様の言う通りにお皿の牡蠣に注射器の中身を注入してしまったんです」
私は限りなく混乱した頭の中で、不思議と自分の一部が冷静になっていくのを感じた。月子さんが自分のことを嫌っているのは以前から察していた。だけど毒とは!彼女にとって私の存在は稲見沢家の中の異物なんてものではなかったのだ。私は敵、もっというなら侵略者、巣の中に迷い込んで来た害虫のようなものだったのだ。
安寧が保証されるべき巣の中に入ってきた虫は殺さなければいけない。虫を駆除するのに最適なのは毒だ。宴の席で毒を盛って殺すなんて、もはや古典的ではないか。私は月子に対してある種感心の念さえ抱いてしまった。
さて、私が敵であり、侵略者であるのなら私はどのように振る舞えば良いだろう?少なくとも私はもう客ではない事ははっきりしたわけだ。私はいつの間にか口の端で笑っている自分に気づいた。まったく、我ながら自分がおかしくなってしまったのかと思った。でも私は自分の笑みを止めることは出来なかった。
「ねえ…、清太郎くん、顔を上げてくれるかな?」
少年はおずおずと顔を上げ、私の表情を見て怯えたような様子を見せた。こんな状況で笑っている人間なんて理解不能なんだろう。
「教えてくれてありがとうね。君が教えてくれたおかげで私はなんとか毒を食らうのを避けられるって事だから。その牡蠣はまだ厨房に置いてあるの?」
「はい。でももうお嬢様たちが子羊の料理を食べ終わりしだいダイニングに運ぶ事になっています…。もうすぐです」
私は歪んだ笑みを浮かべる。なんだか大声で笑い出したい気さえした。
「そうなんだ…。じゃあさ、私の願いを聞いてよ。月子さんの命令に従うのなら、同じ稲見沢家である私の命令にも従わないとおかしいでしょ?」
私は無茶苦茶な理屈で彼に命ずる。私は、自分がいたいけな少年に対して二重に残酷な命令を行っている事に気付く。悪女というものがいるなら、私がそれそのものなのかも知れなかった。
「ね?私のお願いが分かった?君ならちゃんと出来るよね…?」
清太郎くんは真っ青になっていた。でも押し切られるように、健気にもうなずく。ああ、私はもう天国には行けないだろう。
「ありがとう。君のことは忘れないよ。君が大人になって本職の料理人になる時には、出来る限りの手助けをしてあげる…それじゃあね」
私はその場を離れ、ダイニングに戻っていった。震える清太郎くんを残して。
ダイニングに戻り、自分の席につく。月子はうわべだけ心配しているように言った。
「大丈夫?気分が悪そうだったけど。子羊肉の残りは下げてもらったから、いよいよ次が本日のメインの生牡蠣よ」
私はにっこりと笑って言う。
「ええ。一つ聞きたいんですけど、生牡蠣はどのように食するのが正しいんですか?私、ふだんあまり食べた事がなくて」
月子は素っ気なく答える。
「今日は西洋風だから、氷の上に並べられている牡蠣の身にレモンやらライムやらと塩をかけてそのまま食べるのが普通ね。あなたもきっと気に入るわよ」
──ええ、そうでしょうね。そしてあなたも。
* * * * *
月子の屋敷での会食から、一ヶ月が過ぎた。私はまだ変わらず天野さんと一緒に自分の家で暮らしている。朝の光とともに、天野さんの声が聞こえた。
「千奈さま、もう朝ですよ。学校に遅れますよ」
「はーい、もう行きますよ…。あ、でもあと5分だけ寝かせて…」
「駄目です。遅刻はいけません」
変わらない日常だ。今日も食卓には天野さんが用意してくれた美味しい朝食が並べられている。私はトーストを頬張る。
あの日、私は清太郎くんに一つの指示を出した。ごくごく簡単なものだ。白い皿に盛られた牡蠣と銀の縁の皿に盛られた牡蠣を入れ替えるように命令したのだ。月子には清太郎くんが注射を行った牡蠣が供され、私には何もされていない牡蠣が供された。
その後どうなったのかは直接は見ていない。おそらく月子が用意した毒は遅効性のものだったのだろう。私はなに食わぬ顔で屋敷を後にし、月子も冷たい笑顔を貼り付けたまま私を見送った。
だけど二日後、私は月子が急病で亡くなったという知らせを長姉から受け取った。
一族御用達の医者が自然死だと判断したそうだけど、そこにどのような力学が働いたのかは分からない。もしかして親類の中に月子が私の毒殺を企んでいたことを知っていたものがいて、事の露見を恐れてそういった幕引きに持ち込んだのかもしれない。だが私にとって重要なのは単純な事実だ。私は生き残って、月子は死んだ。
「ふふ…」
私は思わず笑い声をあげてしまう。朝食を食べ終え、支度を終えてから私は家を出た。いつものように天野さんが見送ってくれる。
ああ、本当に月子が言った通りなのかもしれない。彼女は私にこう言った。あなたと話すことは自分の魂を覗きこむようなものだと。いつの間にか私たち二人はどちらがどちらか分からないぐらいに似ていたのかもしれない。だから彼女は私に毒を食わせようとして、結局彼女自身が毒を食らう事になった。そして毒を食らうはずだった私が彼女に毒を食わせることになった。まるで鏡の中の人間みたいに似ているじゃないか。
歩きながらも笑いが出てしまう。だめだめ、こんなところを通行人に見られたら変な子だと思われる──。わたしは稲見沢家のお嬢様なのだから、気をつけないと。
でも、と私は思う。私は誰に言うのでもなく一人で口にする。
「次に誰かに食事に誘われるとしても、牡蠣だけは遠慮したいな──当分の間は」
今の私が思うのは、とりあえずそれだけだ。
──完──
毒入りオイスター事件 川上いむれ @warakotani
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